『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

━浅川マキの世界『Darkness』


1/2のマキ...その2 淋しさには名前が...ある?!浅川マキの世界『Darkness』



「淋しさには名前がない」
{作詞・作曲 浅川マキ}

・・・・・そうね
気ままに暮らして行こうかな
何にも要らないこれからだけど
これでいいのかしらね
また ひとりよ 私

あの人のこと恨んでないの
男の人はいいものよ
何にも要らないこれからは
独りの夜はやっぱり長いけど
また ひとりよ 私

寂しさには名前がない
・・・・・誰が言ったの
何にも要らないこれからは
ドアを開けたら朝の光が
また ひとりよ 私



血があつい鉄道ならば

走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろう

ーロング・グッドバイー

寺山修司(1935-1983)

『伊勢丹近く、明治通りに面した映画館、新宿文化・ATG(アート・シアター・ギルド)、その地下にある劇場「蠍座」で、わたしは初めてひとり舞台に立つことになった。寺山修司さんの演出で寺山さんはそのために十二曲もの詩を書いてくれた。1960年代も終わりに近づいた寒い夜の公演だった。巷で耳にした言葉はアンダー・グラウンド、いや、アングラである。わたしはアングラ歌手と呼ばれた。』



『浅川マキのブルースは、いつもそんなぼくたちが棄てたはずの、棄てられてしまったはずの、「ふるさと」への未練や後悔を歌い続ける。あるとき「ふるさと」は昔愛した男や女であったりもする。
そしてぼくらにかわってずいぶん長い言い訳をしてくれたり、「くやしさ」や「さみしさ」を、懐かしい大切なものであったかのように解放してくれる。』

(奥成 達「浅川マキCD灯ともし頃」から)



1960年代後半から70年にかけての日本は、ベトナム反戦運動や学園紛争、そして安保闘争など、まさに熱い政治の季節の渦中にあった。昭和40年代(1966~1975)、新宿はフーテン、アングラ劇団、ハプニング、ジャズ、フォークそして新左翼等、前例のない表現・行動が生起した特異な場でした。ATG(アート・シアター・ギルド)による多くの自主制作映画、ユニークな色彩を放つグラフィック・デザイナー横尾忠則、宇野亜喜良、そして演劇では寺山修司の天井桟敷、唐十郎の状況劇場など、60年代後半、時代を変革しようとする文化的試みのおよそすべてが新宿から生まれた。それは<サイケ><アングラ><昭和元禄><ゲリラ><ヒッピー><フーテン>などの言葉とともに、まさに<新宿文化>と呼べるものだった。




「ちょうどその頃、アートシアターのあった新宿の街は<新宿ルネッサンス>とでも言うべき時代のさなかで、僕はそこにのめりこんでいたので、仕事と日常が境界を失くし、すべてがごたまぜになった不思議な一時期を過ごしたのである。」
宇野亜喜良『僕の個人史』より




そんな時代に黒ずくめの衣装でつぶやくように唄う、一人の異色の女性歌手が新宿にいた。浅川マキである。浅川マキという歌手、未だに現役ですが、浅川マキは全共闘世代に支持されたアングラ歌手で、いつも全身黒装束で歌っていた。その存在を知っている人は本当に少数派だ。長い黒髪にサングラス・黒のコートという黒づくめの女の、深い皺に挟まれた唇から流れ出すのは、全てを飲み込んだゆえの艶がある歌。浅川マキはそのキャリアを銀座のシャンソン喫茶・銀巴里でゴスペル・シンガーとしてスタートさせたが、時代の熱気がカオスのように渦巻く新宿に惹かれて、1968年新宿のアンダーグラウンド シアター「蠍座」でデビュー。その活動の場を新宿に移した。劇団天井桟敷の主宰、寺山修司によって見出され、アルバム『浅川マキの世界』で70年にデビュー。以降、ジャズやブルースに代表される黒人霊歌を日本特有のアングラ色で染め上げた、漆黒の音世界で人気を博した。ダークな艶を帯びた情念の歌唱は強力な磁場を発し、ファンだけでなく一流ミュージシャンをも吸い寄せ、彼女の作品には、つのだ☆ひろ/坂本龍一/山内テツ/山下洋輔といったジャンルに隔てないビッグ・ネームが参加。彼女に触発されてポテンシャル以上の演奏が引き出される。以来、まさに「アングラの女王」にふさわしく今日まで年に1枚という自分のペースを崩さず、ほとんど「OVER GROUND」に出ることなく歌いつづけ、ライヴ活動も精力的に行っている。



「かもめ」
(寺山修司 作詞 山本幸三郎 作曲)

おいらが恋した女は 港町のあばずれ いつも
ドアを開けたままで着替えして 男達の気を引く浮気女
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは文無しマドロス バラ買うゼニも無い だから
ドアの前を行ったり来たりしても 恋した女じゃ手も出ない
かもめ かもめ 笑っておくれ





ところがある夜突然 成り上がり男が一人
バラを両手一杯に抱きかかえて ほろ酔いで女のドアをたたいた
かもめ かもめ 笑っておくれ

女のまくらもとにゃバラの 花がにおって 二人
抱き合ってベッドにいるのかと思うと おいらの心はまっくらくら
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは恋した女の まくらもとに飛び込んで ふいに
ジャックナイフをふりかざして 女の胸に赤いバラの贈り物
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらが贈ったバラは 港町にお似合いだよ たった
一輪ざしで色あせる 悲しい恋の血のバラだもの
かもめ かもめ 笑っておくれ
かもめ かもめ さよなら あばよ



浅川マキには凄い男達が集まる。言うまでもなく寺山修司。ミュージシャンでは山下洋輔、近藤等則、本多俊之、渋谷毅、後藤次利、川端民生・・・・・。
 


『1970年、二人のジョイントコンサートをした時のこの写真を見て、ある人が「猟犬とむく犬だね。」と言った。
確かに午後の陽射しと漆黒の闇、プラスとマイナス、肯定と否定、ことごとく対極に見えた。
でもデビューから結婚までの間、彼女は一番近くで私を支えてくれた人だった。シャンソン畑の世界で孤立していた私を舞台のそでにまで来て力づけてくれた。寺山修司の演出と歌詞で黒づくめの浅川マキ像が出来上がるより前、私も彼女もミニスカートの頃だ。
それから私はギターとジーンズでメジャーになり、彼女は黒一色の世界でアンダーグラウンドの女王となった。
私が結婚したとき、新宿花園神社の縁日で「子持ちヨーヨー」というのを買って送ってくれた。ヨーヨーの中の水の中にもう一つのヨーヨーがプカプカしてるのが「今のお登紀みたいだから」と。娘が生まれてからも時々真夜中に電話があった。
電話の途中で娘が泣き出したとき「私に赤ん坊の声なんか聞かせないでよ。」
と言ったことを今も忘れない。
もちろん結婚はせず、ブルースとジャズとロックの粋を極めた音楽づくりを続け、今も歌っている。
誰も年齢を知らず、肉親や家族の一滴の匂いもなく、「マキ」という女から逃げ出すことなく生き続けている。』
(加藤登紀子)

 

「少年2」

夕暮れの風が ほほを撫でる
いつもの店に 行くのさ
仲のいい友達も 少しは出来て
そう捨てたもんじゃない

さして大きな 出来事もなく
あのひとは いつだってやさしいよ
何処で暮らしても 同じだろうと
わたしは思っているのさ

なのに どうしてか知らない
こんなに 切なくなって
町で一番高い丘へ 駆けてくころは
ほんとに泣きたいぐらいだよ



「ディープにしみる アンダーグラウンド.........。」

『わたしはそんな若者たちのあいだを、ちょうど慰安婦のように、旅していたのだろうか。』

「こんな風に過ぎて行くのなら」浅川マキ 著/石風社刊



『幻の男たち/LIVE1984』 VHS TOVF-1212
池袋・文芸座(June.30) 京大西部講堂(Sept.29,30)






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1/2のマキ...その1+2。私の心には二人のマキが棲んでいます。<深夜放送>から流れる二人のマキの唄を聞きながら、まだ見ぬ<東京>を夢想したのでした。


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