『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

━28歳でこの世を去った男エゴン・シーレ



■『28歳でこの世を去った男エゴン・シーレ』(1890-1918)■



「激しく炎をあげて燃え、闘いを求めて成長する。ただ考えるだけの苦悩には意味がない」
溜息を誘う美と震えるほどのエロス。
夭折の画家エゴン・シーレの描く絵はエロティックで大胆。
これらの絵をみてどう感じるかはあなた次第。



「自画像」(1912)
ー22才の時の自画像ー

エゴン・シーレ(Egon Leo Adolf Schiele)

「大人達は忘れてしまったのだろうか? 皆、自分達が子供だった頃、どれほど堕落していたかを。つまり、性の狂おしい衝動のためにいかに活気に溢れ、そして興奮させられていたかを」 

わずか28年の生涯、10年余りの画業で美術史に燦然と輝くエゴン・シーレ。
1890(明治23)年6月12日、ウィーン近郊ドナウ湖畔の小さな町トゥルンの駅舎の二階にて、オーストリア・ハンガリー帝国国有鉄道運営局幹部職員の父アドルフ・オイゲン・シーレ(1851-1905)と母マリー(旧姓ズークプ1862-1935)の第三子として生まれる。300点以上の油絵と約2500点の素描やドローイングの作品。うち油絵で45点、素描・ドローイングで165点が自画像。虚飾なしにありのままの自分を鋭く切り取ったような表現主義による画風の鋭い人物描画を得意とした。



「こうしてぼくは、より多くのものを、もっと遥かなものを、自分の中から限りもなく湧き出ずるものを、送りだそうとします。すべてである愛がこのような方法でぼくを豊かにしてくれる限り。従来の自分を飛び越えてまで察知した新しい認識をもたらすべく自分の中へ引き込もうとする何か、つまり本能的に引かれる何ものかへと導いてくれる限り」 

「黒の壺のある自画像」(1911)



「どんな外套でぼくらの身を覆うとしても、それは結局 虚無を覆うことにしかならない。なぜならそのような外被は、身体の各器官と絡み合う欲望を持つかわりに、ぼくら自身をただ隠すことにしかならないのだから」 

「両脚を開いて横たわる女性裸像」(1914)



「ぼくは人間である。ぼくは死を愛し、そして生を愛す。」 

ー死の床のエゴン・シーレー

1918年(28歳)
春からスペイン風邪(インフルエンザ)が大流行し、九月に襲来したその第二波に感染して10月28日、妊娠中の妻エディットが没する。三日後、10月31日の夜、シーレ自身もこの疫病の犠牲となり、妻の後を追って没する。その床のシーレをマルタ・ファインが撮影し、彫刻家アントン・ザンディヒがデス・マスクを製作した。11月3日に二人の亡骸はオーバー・サンクト・ヴァイト墓地に埋葬された。そこへは地下鉄U4+バス55Bで。墓地入り口に表示版あり(B地区10・15)。




「抱擁」(1917)



「ぼくらは世界がかつて見たいちばん暴力的な時代に生きているんだ。...何十万という人間が哀れにも破滅していく...誰もが自分の運命を、生きながらあるいは死につつたえなければならない。...1914年以前のことは別世界のことなんだ。だらかぼくらは常に未来に目を向けて行くしかない。希望を持てぬ人間は死者の仲間に過ぎぬ。新しい生命を生み出すあらゆる事態に身を屈めて耐える心構えがぼくらには必要なのだ」

ーエゴン・シーレ(1918)ー



「鏡の前でヌードを描くシーレ」(1910)



「黒の少女」(1911)

1912年4月シーレは無実の未成年誘惑容疑で起訴され独房に24日間留置された。彼の描く絵画の題材は少女の裸像が中心で、大胆なポーズをとっているものが多く、変態的、倒錯的と物議をかもした。結局、起訴は取り下げられたものの、「猥褻な図画の流布」を理由に三日間の禁固刑を受け、この事件は大きなスキャンダルとなった。その上、判決の際に貴重な作品の一つを焼かれた。



「緑色のブラウスの女」(1913)

シーレには、強く憧れていた画家がいました。グスタフ・クリムトです。絢爛たる官能の画家クリムト。彼は、アカデミズムを拒否し、新しい芸術運動の中心的な画家でした。クリムトの影響をまともに受けた若き日のシーレの絵。しかし、誰よりもシーレの才能を認めていたのがクリムトその人でした。



「処女」(グスタフ・クリムト1913)



「接吻」(グスタフ・クリムト1907~08)



「グスタフ・クリムト : Gustav Klimt」(1862-1918年)



女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。



「青い仕事着をはおったグスタフ・クリムト」(1912)



シーレは、28歳年上のクリムトを生涯を通じ尊敬し続けた。
クリムトが装飾的象徴主義ともいうべき様式による斬新な作品を次々に生み出していったが、シーレはクリムトを師と仰ぎながらも、その象徴主義からも装飾主義からも遠ざかり、「外面の装い」に対するアンチテーゼとしてクリムトからいっそう離反した独自の薄い病的な皮膚と脆い神経組織をもった肉体をひたすら描きつづけた。その肉体は、まろやかな柔軟性と可塑性を失い、いわば肉を削がれ血を抜かれて干からびている。



「裸の自画像」(1910)



「女性裸像」(1910)



「隠者たち」(1912)

告解のための僧衣をまとったシーレとクリムトが描かれている。
シーレとクリムトは奇しくも同じ1918年に死んだ。



「死と乙女」(1915)

亡くなる3年前、25歳の時の絵です。焦げ茶色のザラついたマチエール。土気色をした死神は、シーレ自身の姿です。抱擁する二人を待ち受けていたのは、恐ろしくも悲しい最期でした。赤毛の女は、シーレの美の女神です。運命の女とも言われました。名前はヴァリィ・ノイツェル。
クリムトのアトリエでシーレは、このヴァリィと知り合いました。クリムトは、大勢のモデルと暮らしていたのでその中の一人を、シーレにゆずったのです。
自らの肉体に向けていた筆先をヴァリィの白い体に容赦なくぶつけ、後に傑作と呼ばれる絵を次々と生み出していったのです。しかし「死と乙女」がヴァリィを描いた最後の絵となりました。



「縦縞のドレスを着たエディト・シーレの像」(1915)

シーレは、ヴァリィを棄てエディットという向かいのアパートに暮らしていた鉄道官吏の娘との結婚を選びました。結婚後、シーレの絵は変わりました。死の影に刻まれた、愛と恐れ。そうしたシーレ特有の神経質さは、結婚という安定によって消え去ったのでしょう。



「ゲルタ・シーレの肖像」(1909)



「座っている男性裸像」(1910)



「三人の男性像による構成」(1911)



「二人の少女」(1911)



「真実は暴かれた」(1913)



「浮遊」(1915)



「聖家族」(1913)



「腹ばいになっている女性裸像」(1917)



「母と二人の子供」(1915-17)



「家族」(1918)



DVD『エゴン・シーレ~愛欲と陶酔の日々~』
◆監督・脚本:ヘルベルト・フェーゼリー
◆音楽:ブライアン・イーノ、アントン・フォン・ウェーベルン、フェリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ
◆出演:マチュ-・カリエール、ジェーン・バーキン、クリスティーネ・カウフマン
<特典映像:予告編、デジタル画集>
愛と性に生きた孤高の画家エゴン・シーレを描いた官能のドラマ!



1912年のある夜、画家エゴン・シーレとそのモデル兼愛人ヴァリーの住む家に少女タチアナが押しかける。その結果、シーレはその父親から少女誘拐罪で刑務所に拘置され、猥褻として絵を焼かれる。人間の生と死を鋭い感受性と特異な画風で描いた、オーストリア表現主義の画家シーレ。異端的作風ゆえ誤解・偏見に晒されたシーレの波瀾に富んだ半生を2人の女性との愛情関係を交えて重層的に描く。


彼の愛人兼モデルのヴァリィ役をジェーン・バーキンが熱演!
Jane Birkin est née à Londres le 14 décembre 1946, d'un commandant David de la Royal Navy et d'une actrice chanteuse Judith Campbell, avec un frère Andrew et une soeur Linda.

大画家クリムトの弟子にして、かのデビッド・ボウイが演じたがったという伝説の画家エゴン・シーレ。そのスキャンダラスな画風と悲劇的な生涯で知られる彼を描いた官能のドラマ。主演のシーレを演じるのはヨーロッパを代表する美青年マチュー・カリエール、彼の愛人兼モデルで陰で彼を支えた女性ヴァリィ役に ジェーン・バーキンなど豪華な出演陣も見所の一つとなっている。(※販売終了)



<ブライアン・イーノ>

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「大人達は忘れてしまったのだろうか? 皆、自分達が子供だった頃、どれほど堕落していたかを。つまり、性の狂おしい衝動のためにいかに活気に溢れ、そして興奮させられていたかを」 (´-`).。oO

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