『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

ヘンリー・ミラー

『Henry Miller』



大胆な性描写や実験的な文体で知られるアメリカの小説家ヘンリー・ミラー(1891-1980)
ー異端の文豪は、絵画の魔術師だった。ー
 

20世紀の文学に偉大な足跡を残した文豪であり、また生涯に数千点の水彩画を描いた水彩の魔術師であるヘンリー・ミラーの特集です。



『絵画の魔術師 ヘンリー・ミラー』(久保貞次郎、野坂昭如 編 講談社)



ーブルックリン子(1953)ー

「ぼくがものを書くのは、より大いなる現実をうち立てたいためである。ぼくは現実主義者でもなく自然主義者でもない。ぼくは生命(ライフ)の味方をするものであり、生命は文学においては夢と象徴を駆使することによって得られる。ぼくは心底では形而上的な作家なのだ。」




1891年12月26日、米国ニューヨーク州ヨークビル生まれ。ドイツ系移民。ニューヨーク市立大学中退後、国内を放浪。生涯で五度の結婚を経験し、ほとんど定職につかずに創作活動を行った。1928年、アメリカ文明を嫌悪するミラーは母国アメリカを脱出し、1年間のヨーロッパ旅行をし、1930年再び単身ロンドンを経てパリへおもむき、以後1936年まで6年間、パリに滞在することになる。ローレンスダレル、ブレーズ・サンドラルス、アルフレッド・ペラルス、アナイス・ニン等と親交を結んだ。パリといえば、1910年代から1920年代にかけ、フィッツジラルド、ヘミングウェイ、エズラ・パウンド、など《失われた世代》、1918年の《ダダ宣言》、1924年、アンドレ・ブルトンの《シュールレアリスム宣言》があるが、それらの余韻が残る1930年代のパリでミラーに与えた影響を考えるに、ミラーの天性とも思えるコスモポリタニズムと放浪性は・・・《遅れてきた失われた世代》というに相応しいかもしれない。1934年パリで『北回帰線』を発表。大胆な性表現から物議をかもし、アメリカでは永く発禁処分となっていた。当時としては一般の許容範囲を超える大胆な性描写で知られ、1961年アメリカで『北回帰線』が出版されると裁判沙汰となり、1964年に「猥褻文書には当たらない」との判決が下され出版された。



ーいつも愛を(1973)ー

ミラーの作品はすべて、紀行文、作家論、読書論も含めて、自伝ではなく自伝的で、人間疎外を生む現代文明への激しい批判、呪詛の言葉にあふれ、シュルレアリストの自動記述者のように過激な性描写と哲学的な思索が混在しています。それは、小説ともエッセイともつかない破格のもであり、口語やスラングで垂れ流すような文体は他に類を見ない極め付きの極上の異端であり、あらゆる既成の倫理、慣習、感情、秩序の根底を震撼させ、因習と偏見によって隠蔽された世界から、一切のヴェールをはぎとり、タブーや法律に拘束されない赤裸々な人間存在の真実を描き出した。ロックンロールとジャズとビートニク、そしてドラッグ小説が好きな人におすすめで、私にはケルアックやバロウズ、ギンズバーグなどの「ビート・ジェネレーション」の作家以前の、思春期に最初のそして最大の衝撃をた作家であり、今尚敬愛してやまない最大の作家です。



私が初めてミラーの絵画に出会ったのは、何と森田童子のコンサートに行ったとき、会場の豊島公会堂の隣の建物で「ヘンリー・ミラー展」の立看を発見し、彼女(前妻さん)と中に入り、初めて尊敬するミラーが水彩画も描くことを知りました。その後東急本店の6階の美術フロアで、フィニのエッチングとならんで5千円ぐらいで売っていて欲しくて欲しくて狼になりたい♪くらいでした。お金なくても買っとけばよかったア。
ミラーの水彩画は、難解・異端と評された文学に比べ、遥かに親しみ深いものがあります。筆つきが少々素人っぽいのは、ヴィジョンのほうが技巧を上回っているからでしょう。ミラーが絵筆をとり始めたのは、ミラーが36歳(1926)になって真剣に文筆活動を始めていたころで、1927年にグリニッチ・ヴィレッジのレストランで水彩画の個展を開いている以来、世界で無数の個展を開催し、生涯2~30000点の作品を描き、日本国内でも1955年以降十数回の展覧会が開かれています。




    【主な作品】
    1920年代終わりごろ(後述)
    モロク(Moloch) クレイジー・コック(Clazy Cock)
    1934年 北回帰線 (Tropic of Cancer)
    1939年 南回帰線 (Tropic of Capricorn) 宇宙的な眼 (The Cosmological Eye)
    1941年 マルーシの巨像 (The Colossus of Maroussi)
    1945年 冷房装置の悪夢 (The Air-Conditioned Nightmare)
    1947年 追憶への追憶 (Remember to Remember)
    1948年 梯子の下の微笑 (The Smile at the Foot of the Ladder)
    1949年 薔薇色の十字架1 セクサス (Sexus)
    1952年 わが読書 (The Books in My Life)
    1953年 薔薇色の十字架2 プレクサス (Plexus )
    1955年 愛と笑いの夜 (Nights of Love and Laughter)
    1957年 ビッグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ(Big Sur and the Orange of Hieronymous Bosch)
    1960年 薔薇色の十字架3 ネクサス (Nexus)




ートルコ帽の男(1965)ー

「思えば、ひたすら自らのおもむくままに事をなし、果実を手に入れてきた。
私にとって現実は常に彼方にあり、理想がその手前にある理想を追い続けていれば、それが現実になって、事を成すことができるのだ。」




『描くことは再び愛すること ヘンリー・ミラー』(飛田茂男 訳 竹内書店)



「ぼくは自分の書いていることが実際に以前の自分の言動であったものなのか、それとも創り上げたものなのか、もはや自分でもわからなくなることがある。とにかく、ぼくは嘘ではない夢をみる。時おりほんのちょっと嘘をつくことがあっても、それは主として真理のためなのである。ぼくが言わんとしているのは、ばらばらに砕けてしまったぼくが統合しようとしていることなのだ。」




『オプス・ピストルム』田村隆一/訳 装画/池田満寿夫 

不遇時代に一頁1ドルで書いたといわれるミラーのポーノグラフィー。

 

ペーパーバック『北回帰線』         ペーパーバック『南回帰線』

「ぼくは諸君のために歌おうとしている。すこしは調子がはずれるかもしれないが、とにかく歌うつもりだ。諸君が泣きごとを言っているひまに、ぼくは歌う。諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる」

「この荒々しい叙情のもとになっているものは、けっしていつわりの原始主義ではない。それは回顧的傾向ではなく、未知の領域への前進である。この書物のごとき赤裸々な作品を眺めるは・・・われわれの世界における神聖なるもの、タブーとなっているものすべてが無意味となる、パタゴニア巨人の目をもってしようではないか。・・・この書によってわれわれの与えられものは、血であり、肉である。・・・この書のもたらす風は、現代という不毛の土壌の中で、根が枯れ生命のつきたうつろな枯れ木を吹き倒してゆく。この書は、その根元までわけ入り、根の下を掘り、その下に湧く泉を掘り出すのである。」
(アナイス・ニン「北回帰線」序文抜粋)


 

『ヘンリー&ジューン私が愛した男と女』



1931年、文芸評論家のアナイス(マリア・デ・メディロス)は、夫ヒューゴー(リチャード・E・グラント)の仕事のため、ひと夏をパリで過ごすことになった。勤勉で実直な銀行家の夫に物足りなさを感じていたアナイスは、夫に隠れて楽しむひとときの情事など、彼女の官能の記録を秘密の日記に綴る。そんなある日、夫の友人・オズボーン(ケビン・スペイシー)が知り合いの作家、ヘンリー・ミラー(フレッド・ウォード)を連れてくる。アナイスは、男性的で情熱溢れるヘンリーに惹かれていき、彼の住むスラム街までプレゼントを持って訪れるが、その時、ヘンリーは、アメリカに残してきた女優の妻、ジューン(ユマ・サーマン)の映画を観て、涙を流していた・・・。ヘンリー・ミラーの愛人だったアナイス・ニンが彼とその妻ジューン、彼女の三角愛をこってりと暴き立てた回想録の映画化。





『議論の余地はあるが、ヘンリーとアナイスは性を扱った作家としては今世紀で最も傑出した男性、女性作家であった。彼らの間に文学上のいかなる情熱的な関係をも遥かに超える秘密の事情があったことを知って、私たちは驚き、興奮した。ローズ(妻、脚本は彼と共作)と私は何週間もかけて昼となく夜となく、そのことについて議論をした。どうしても探求せずにはいられなかったんだ。』(フィリップ・カウフマン)





監督: フィリップ・カウフマン 
原作:アナイス・ニン 脚本 フィリップ・カウフマン/ローズ・カウフマン
出演:フレッド・ウォード、ユマ・サーマン、マリア・デ・メディロスほか。






撮影は1989年の秋から15週間に渡り、パリとパリ市の郊外にあるエビネー・スタジオのセットで行われた。撮影を前にしてカウフマン監督は俳優たちに次のように言った。「この映画という法廷で自分の扮するキャラクターを弁護しなければならない。自分の身の潔白(イノセンス)を主張してほしい。潔白(イノセンス)はこの映画の大きなテーマなんだ」

 

監督フィリップ・カウフマンが最も苦慮していたアナイス・ニン役はアメリカだけではなく外国の女優にも目を向け、一時はイザベル・アジャーニに決定しかけたが結局流れ、ポルトガル生まれの舞台女優マリア・デ・メディロスが選ばれた。



アナイス・ニン(Anais Nin 1903-1977)

アメリカの小説家、パリに生まれる。11歳の時両親の離別によりアメリカに移住し、この頃から日記を書きはじめる。幼少の頃から作家になることを自覚し、11歳から74歳でこの世を去るまで3万ページを越す量の日記をほぼ毎日書きつづった。20代になって再びパリに戻りモデル、ダンサー、精神分析などで生活費を得ながら創作修行をした。サロンを開くなど、その活動は精力的で、ヘンリー・ミラーやアンドレ・ブルトン、ロレンス・ダレルなど、さまざまな作家たちと親交があったことでも知られる。1970年頃、アメリカのフェミニストたちにアナイスのそれまでの出版された日記の一部が絶賛され、ヘンリー・ミラーとの交友録を含む60年間に及ぶ日記で脚光を浴びる。主な著書に『近親相姦の家』『愛の家のスパイ』など。



『アナイス・ニンの日記 1931~34―ヘンリー・ミラーとパリで』

  

左、天性の美貌と強靭な知性を持つ18歳のアナイス・ニン、右、奔放な美しさを放つジューン、ブラッサイが撮影。



1933年のミラー、ブラッサイ撮影。  

   

幻の処女作『モロク』          第二作『クレイジー・コック』

二番目の妻ジューンは、夫が作家になるべきなのだと信じて疑わない。高級娼婦として生活を支えるが、やがて麻薬も酒も、レズビアンの恋人も、夫婦の間に招き入れる。晩年、精神病院に収容されていたジューンが、ミラーの幻の処女作「モロク」と第二作「クレイジー・コック」の原稿の詰められたトランクを長い間一人きりで抱えていたのだという。ジューンはパトロンに自分が執筆していると騙し小遣いをせしめ、しまいにはパリ行きの旅費と生活費までせしめる事ができたという。ミラー自身、この処女作を公に発表することはなかった。ミラー自身の意図によるものなのか、単に原稿をなくしてしまっただけなのかは今となってはしれない。『北回帰線』以前の1920年代の終わりに書かれたこの作品は1991年に発表された。



ー恋人たち(1969)ー

  

好事家からの注文で、文字通りのポルノグラフィーとして書かれた短篇「クリシーの静かな日々」は二度映画化されています。たった10ドルをポケットにパリに渡った39歳のミラーが、9年間にわたって飢えとセックスに明け暮れた日々をず描いたミラーの愛と性の日々。

(左)DVD『クリシーの静かな日々・ヘンリーミラーの性生活(1970デンマーク)』

監督:イエンス・ヨルゲン・トールスン
出演: ポール・ヴァルジャン/ウェイン・ジョン・ロッダ/アヴィ・サジルト


(右)DVD『クリシーの静かな日々(1990仏・独・伊)』

監督: クロード・シャブロル
出演: アンドリュー・マッカーシー, アンナ・ガリエナ



「絵画におけるデッサン、コンポジション、そして遠近法は、小説においてはリアルな物語性を支えるもろもろの技法に、他なるまいが、これら全てが欠如しているのがミラーの業績全般にわたって言えることなのである。エコールに属さぬとは、伝統に属さぬこととほぼ同義であるが、これはまた正統に反逆する異端のことである。しかも、ここが大事なのだが、ミラーには正統派に憧れる異端児の哀しみのようなものがあまり感じられぬことである。
明るいのである。
だからますます不気味ですらある。」
(野坂昭如「諸君、恫喝せよ 喜劇は終わった」)




ー赤い壁(1944)ー 



ー描くこととは、ふたたび愛することだー 

「水彩画は哀歌よりも むしろソネットや俳句に近い。実体よりも、流れや本質、味や香りを捉えるものだ。水彩画が特に描き出すもの、それは雰囲気だ。」
 



ーヨットと魚(1961)ー
 
 

ー空想(1957)ー

 

ーユカタン(1955)ー

 

ー空想(1954)ー
 
 

ー曲がった魚と少年(1961)ー



ーお前の歯は可愛い(1963)ー

 

ー鳥の頭(1960)ー



ー塔と畑と人物(1948)ー 




ekato

皆様、ご無沙汰で~す。久々のUPになりました。最近ますます老蓮(LOHAS)です!U^ェ^U

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ートルコ帽の男(1965)ー

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ー思いがけない出会い(1973)ー
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ホキ徳田LP「"あの日あなた"とボサ・ノヴァと… 」

 


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