『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

マン・レイ

Man Ray & KiKi



Man Ray <1890.8.27-1976.11.18>

Autoportrait(1972 Lithographie)

「わたしは、写真には撮ることのできないものを絵に描く。
わたしは、絵には描きたくないものを写真に撮る。」
ダダイスト・シュルレアリスト マン・レイ



「ぼくは写真を撮り始める前に、何年にもわたって絵を描いていた。ある日、ぼくは一台の写真機を手に入れたのだが、それと言うのも、プロの写真家が撮ってくれた自分の絵の複製を好きになれなかったからだ。またその時代に、最初のパンクロの乾板が市場に現れ、誰でも色彩のヴァルールを保ちながらモノクロ写真を撮れるようになった。ぼくはとことんこいつの研究をやった。わずか数ヶ月で、ぼくは写真についてはもっとも老練な男になったというわけだ!なかでも興味があったのは人間で、それも彼らの顔だった。」



1890年、8月27日、エマヌエル・ラディンスキー(後のマン・レイ)は、ロシア系ユダヤ人の移民の子として、フィラデルフィア(アメリカ、ペンシルバニア州)で生まれる。4人兄弟(男2人、女2人)の長男。1915年デュシャン、ピカビアと共にニューヨーく・ダダを創始し、1921年パリに渡り、パリのダダイスト・グループの一員として活動、、1924年シュルレアリスム結成にも参加、1976年に歿するまでダダイスト、シュルレアリストとして活発な制作活動を繰り広げ既存の観念や社会通念を破壊する作品を次々発表しました。



 マン・レイの芸術は、絵画、オブジェ、写真、実験映画、グラフィックなど多岐にわたり、そのいずれにおいても既成の概念にとらわれぬ自由な精神と卓抜な感覚を示し、近年ますます高い評価を獲得している。とりわけマン・レイの写真は、この近代技術の芸術的可能性を開拓したレイヨグラフ、ソラリゼーションの技法による作品から、さらにはストレートな写真に至るまで、きわめて高い質を示し、20世紀写真芸術のひとつの頂点をかたちづくるものといえる。



7、8年前にロンドンのサザビーズで、マン・レイのオリジナル・プリント『ガラスの涙』が2000万円で競り落とされたというニュースを聞いた。マン・レイがモンパルナスのキキを撮った「黒と白」のシリ-ズ写真。一枚の写真の値段としては、これが史上最高だったらしい。マン・レイとキキの二人は数え切れぬほどの回数、写真撮影を行い、ふたりの共同作業はシュルレアリスト写真の傑作の数々を残した。芸術的な評価とともに、二人の生き方にふたたび関心が寄せられている。



(「アングルのヴァイオリン」モデル:キキ 写真:マン・レイ)

キキとマン・レイが出会ったのは、1924年のことである。二人が知り合ったのはモンパルナスのとあるカフェで、キキが帽子をかぶっていなかったために娼婦と間違えられて、店から追い出されそうになったのを、マン・レイが助けたのがきっかけであった。彼女がモデルをやっているのを知って彼も自分の写真のモデルになってくれるように頼んだ。初めは写真のモデルになるのを嫌っていたキキだが、マン・レイの情熱に負けてモデルになることを承諾した。一度目は無事にすんだが、二度目にモデルになってもらうはずだった日に、二人はたちまち恋に落ちて、その日は写真を一枚も撮らなかったと彼の自伝に書いてある。それから六年間、二人は同棲することになる。



(映画「バレエ・メカニック」中のキキ 写真:マン・レイ)



(「オダリスク」モデル:キキ 写真:マン・レイ)



(「白と黒」モデル:キキ 写真:マン・レイ)



マン・レイにおけるソラリゼーションとは、1925年、誤って現像途中のネガに光をあてた彼が、このネガをプリントすると像の周囲にデッサンで描いたような黒い線がつくことを発見。以後、意図的に極端な露出による画像の明暗の反転現象を巧みに利用した。レイヨグラフは、印画紙の上に物を置いて数秒光を当てる。すると、物のシルエットが日光写真のように印画紙に白く抜き出てくるというもので、とてもスタイリッシュで美しく幻想的な作品です。







“空気の妖精”といわれたリー・ミラーは、コクトーが『詩人の血』に出演させてからは世界中が知る大スターになっていた。マン・レイの有名な『恋人たち』で、空に浮かんでいる巨大な唇はリー・ミラー自身の唇をかたどったものである。



(セルフポートレイト「自殺志願」 写真:マン・レイ)

マン・レイの写真のなかで、私は、特にポートレイト(肖像写真)に強く惹かれます。彼の親交は幅広く、その当時の偉大な芸術家たちと友情を育んでいました。彼によるェームス・ジョイスやパブロ・ピカソ、ジャン・コクトーらのポートレイトはよく知られています。他、私の知らない人の写真まで様々ですが、いずれもはっとするほど美しいのです。マン・レイが対象の美しさを見抜いた瞬間が写真になっている、そうとしか思えない、です。



ジェイムス・ジョイス                 エリック・サティ



ジャン・コクトー                    ルイ・アラゴン



ポール・エリュアール&アンドレ・ブルトン



ストラヴィンスキー               ジョルジュ・デ・キリコ



マルセル・デュシャン                ルイス・ブニュエル



マックス・エルンスト



イヴ・タンギー                   ハンス・ベルメール



アルベルト・ジャコメッティ               パブロ・ピカソ







「きっと、写真は絵画と同じレベルのものではない。芸術ではない、という考え方がどこかにあるのだ。これは写真の発明以来続いている論争だが、私はそんなことには興味はなかった。この手の議論から逃げるため、私は写真は芸術ではないときっぱり宣言し、そしてこの宣言をタイトルにした小冊子を出版して、写真家たちをさんざんあわてさせたり怒らせたりしたこともある。もっと最近、まだあの意見のままかと聞かれたときには、少しばかり態度を変えたと答えておいた。
わたしに言わせれば、芸術は写真ではないのである。」(ーマン・レイ)





1976年11月18日昼頃、パリの自宅で死去。享年86歳。葬儀は内輪だけでひっそりと行われ、モンバルナス墓地第七区画に埋葬された。







モンパルナスの女王 キキ(1901.10.2 - 1953.3.23)
 

1920年代、フランスのパリのモンパルナス大通りとラスパイユ大通りが交差するあたりに、後に「エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれる、若い芸術家たちが、集まっていた。セーヌ左岸のモンパルナスは、エコールド・パリの舞台となったばかりではない、ダダイストやシュルレアリスト、ロシアバレー団につられてやってきたロシア・アヴァンギャルドの末裔たちも集い一種の国際的な文化コロニーという雰囲気。映画、ラジオなどのメディア、自動車、飛行機などの乗物、電気、水道による快適な近代生活、モダン・アートなど、現代都市のライフ・スタイルのほとんどは、この頃成立している。ルイ14世の時代からパリに住む芸術家たちを奨励するのはフランスの国家的な文化政策だった。政府はモンパルナスを特別に扱った。
自由と活気を求め、世界中から集まってきた若き芸術家達。モディリアーニ、パスキン、スーチン、フジタ、個性溢れるパリの異邦人達。その誰もが貧しかった時代。エコール・ド・パリの画家たちは、モンパルナスのカフェに集っては夜毎酒を飲み、芸術論を交わし、自らの絵画を模索していた。因みに「エコール・ド・パリ=パリ派」は同じ理念や様式、明確な系譜を持つ訳ではなく、イタリア、ロシヤ、日本、ポーランド等々から芸術の都パリに憧れ、異国から集まってきた芸術家達を指す言葉でもあります。



帽子をかぶったキキ(モデル:キキ 写真:マン・レイ)



ブルゴーニュ生まれの私生児、「キキ」ことアリス・プラン。キキという名はギリシア語で、アリスの愛称、これはのちに知り合うミジンスキ-というロシア人画家がつけた。12歳でパリに出た彼女はやがてキスリングのモデルとなり、一夜にしてパリのセックス・シンボルとなる。



キスリング「赤いセーターと青いスカーフの若い女性」(1931)



 1910年代には、観光化されすぎたモンマルトルから、新興地区のモンパルナスに芸術家たちが集まってきた。1920年代になると「失われた世代」(ロスト・ジェネレ-ション)と呼ばれたアメリカ人たちが押し寄せてきた。
モンパルナスの芸術家たちが住んだ集合住宅、ラ・ルーシュ。モンパルナスには全世界から芸術家がやってきた。パリのアメリカ人の人数は、1921年から1924年の間に6千人から3万人に増加した。他にもロシア、ヨーロッパ各地、カナダ、メキシコ、チリ、そして日本のような遠い地からも集まっている。パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、マルク・シャガール、モイーズ・キスリング、ニナ・ハムネット、フェルナン・レジェ、シャイム・スーティン、アメデオ・モディリアーニ、マルセル・デュシャン、コンスタンティン・ブランクーシ、マヌエル・オルティス・デ・ザラテ、アンリ=ピエール・ロシェ、マリー・ヴァシリエフ、マックス・ジャコブ、ディエゴ・リベラ、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリー・ミラー、ジャン=ポール・サルトル、サルバドール・ダリ、サミュエル・ベケット、ジョアン・ミロ、アンドレ・ブルトン、藤田嗣治、ギヨーム・アポリネール、ジュール・パスキンらがモンパルナスに集まっている。エドガー・ドガも晩年はモンパルナスに住んだ。ドル高フラン安の経済的な理由に加えて、禁酒法、自由な恋愛が彼らを引きつけた。キキの「ブロマイドは三十万枚売れ」て、1929年5月に「モンパルナスのカフェーで行われた芸術家たちによる美人投票で「女王」に選ばれ」たのだそうである。そんななかで、キキはマン・レイが自ら内装を手掛けたナイトクラブを開店。キキはそこで歌い踊った。店は類を見ない盛況ぶり。「キキ・ド・モンパルナス」と呼ばれ、まさにミューズとなり「モンパルナスの女王」と呼ばれるようになる。



キスリング「キキの半身像」(1927)



数々の男性遍歴、麻薬中毒…。フジタ、ピカソらエコール・ド・パリの画家たちは競ってキキを描き、愛人マン・レイ、ブラッサイは、その独特の美を写真に写し、ツァラ、デュシャンらシュルレアリストたちは、彼女の奔放さを愛しつづけた。キキは、マン・レイの愛人となったが、彼にリ-・ミラ-という新しい恋人が現れた。1923年9月、キキはマン・レイへの嫉妬から恋人を二人作った。そのうちのマイクというアメリカ人の新聞記者が彼女を説得してニュ-ヨ-クに連れて行った。キキはモンルナスから遠ざかりたいという気持で、パリからニュ-ヨ-クまで航海をしたが、すぐに男は彼女を捨てた。ニュ-ヨ-クにいたのは3カ月間だけだった。マン・レイはキキにパリに戻るお金を送った。マン・レイは彼女たちのポ-トレ-トを数多く撮影し、その一連の写真によって、マン・レイは写真を芸術にまで高めたといわれる。「モンパルナスの女王」と謳われ、栄光の道を歩みながらも、キャバレーで歌い踊る、無邪気な少女でありつづけたキキ―。



寝室の裸婦キキ(1922)レオナール・フジタ 



「彼女は華奢な小さな指を赤い口に当て、誇らしげにお尻を振りながら、全くこっそりと、はにかんで入って来た。コ-トを脱ぐと、彼女は真裸だった」

 

ジャック・カトラン監督の映画「怪物たちのギャラリー」(1924)に出演のキキ 

  

派手な衣装に身を包み、カフェを渡り歩いた女王の顔。少しさみしげな、これもキキ。しかし変わらないものがありました。彼女は強烈なインパクトの持ち主でした。誰からも愛され、自由に生きた女性です。キキのエネルギッシュな個性は画家たちの心を揺さぶり、創造の力を引き出していました。

  

私生児、数々の男性遍歴、麻薬中毒…。マン・レイ、キスリング、フジタらを魅了した、陽気でメランコリーでピュアな1920年代のセックス・シンボル、キキは1953年3月23日、内蔵を病んでいたキキは吐血し、その血の中に倒れ込み内出血のためレネック病院で亡くなりました。モンパルナスのすべてのカフェが花輪を贈った。キキがポ-ズをとった高名な画家のなかでフジタとドマンゲだけが、ティエスの墓地まで柩とともに歩いた。生きる喜びを体で表現したキキは、エコール・ド・パリの芸術家の一人として52歳で亡くなるまで生涯モンパルナスに生き、歌い、踊り、恋をしました。



パブロ・ガルガーリョ作「キキの肖像」(1928)

その他にも作家ヘミングウェーがキキの回想記に序文を寄せ、キキの死3ヶ月後にパリを訪れ報道陣をまいて懐かしいモンパルナスに現れ、一人静かにドライ・マティーニを飲みながらキキを偲んだと云います。





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