『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

茂田井武


伝説の童画家、茂田井武


「竹取物語(1936)」



茂田井武 <1908.9.29~1956.11.2>

茂田井武(もたい たけし)は、昭和の童画画家。
「記憶にひっかかって抜けないもの、過去の印象の鮮明なものー駄菓子屋の景、学校の出来事、水呑場風景、蝗やトンボとり、汽車ゴッコ、幼稚園の楽隊、あちこちの縁日、一銭蒸気、百花園、靖国神社大祭の見世物、お神楽、能舞台、川開きの花火、迷子、火事、遠足、矢場、角力、寄席、菊人形、べったら市、クリスマスの活人画、その他大雪や大雨の印象、婚礼、葬式、墓参りなど、大概のものは画材として取り上げられた。安油絵具をはじめとし水彩、色鉛筆、パラフィンの入った色チョークやスタンプインク、ペンキ、染粉、染料等、駆使混用した。ギリシャ神話や日本の伝説などを装飾画風に描いたシリーズを作った。そうこうしているうち、海外の新興美術の紹介が次々と、未来派、表現派、立体派、野獣派という形の大津波となって押しよせてきて、私達はそれに巻かれてフラフラになった。そこへ大正の大震災がきた。地震と火事は家もろとも過去の諸物を焼払ってしまった。」

    

埋もれていた幼年時代の懐かしい光景、忘れえぬ人々、夢の数々・・・素朴で滋味あふれる大胆なデフォルメが特徴で、あたたかなユーモアとやわらかなかなしみ・・・茂田井武を知る人は少なくない。彼は、あくまで独学で自己の画風を追求した作家であり、ちゃんとした油絵も描いているが、画壇には目を向けず、たくさんの子どもたちに話しかけられる雑誌や絵本のほうが好きだったのだろう。「良しも悪しくも版下画工だ」と印刷美術に徹した、ほんとうの大衆画家であった。
谷内六郎は当時その影響を最も受けたものの一人。谷内六郎は、「雲の上の人のようです。”素晴らしい”と思ってるだけです」と敬愛を込めて語っている。彼は日本の絵本の開花期を待たずに、四十八歳でこの世を去った。1950年から亡くなるまで、絵雑誌「キンダーブック」(フレーベル館)に見開きの作品を多く発表し続けた。



「セロひきのゴーシュ(1956)」
茂田井は宮沢賢治を愛読し、絵の中に彼の詩が描き込まれたりする。この「セロひきのゴーシュ」が、茂田井武最後の絵本となった。
児童文学者・瀬田貞二が「三十年を夢とへだてて、同じ波長の、ことなる名器の合奏が成就したと」絶賛した。









1956年3月48歳の時に、茂田井武は、戦後日本の絵本における名作の一つと目される、「セロひきのゴーシュ」を病状をおして一週間ばかりで描き上げた。依頼に訪ねて行った編集者を病気の為断ろうとした夫人を隣の寝床の部屋から引き止めて「賢治のゴーシュでしょう。それが出来るならぼくは死んでもいいですよ」と言ったエピソードとともに伝説の一冊となった。描いた後、全身のしびれ、頭痛、疲労、高熱に襲われ数日間の日記は文字が乱れて判読不可能になり、ぎりぎりまで命を燃焼し尽くして描いた名作である。



「とりよせ(1956)」(キンダーブック)



「土のかまどより(1936)」



「茂田井武の童画なのですが、その本質は、幾分のペーソスとユーモアをまじえつつ仄かに匂って来る<父性の愛情>ーとでも言ったらよいでしょうか。彼の童画は、岡本帰一のような描写もせず初山滋のような装飾化にも進まぬかわり、児童画のように素朴で大胆なデフォルメを敢えてして、そこで存分に自分の歌を歌っています。論理的な言葉で言えば、自然を忠実に再現しようという考えは最初から捨てており、自分の心に映ったままを表現した絵なのだと言ったら良いのかも知れません。そして内容はと眺めるなら、小さなもの・弱いもの・哀れなものへの父性的な愛の視線が行き届いていて、見る者はその心を洗われ、しみじみとあたたかな思いを味わうのです。」(「日本の童画7」解説 上笙一郎)



小川未明「月夜とめがね(1954)」(キンダーブック)



「ホフマンのくるみわりにんぎょう(1953)」(キンダーブック)



「おめでとう(1956)」

茂田井武の画業がいちばん盛んだったのは昭和21年から31年ぐらいのほぼ十年の間で、新聞・雑誌社に引っ張りだこであったという。その流行画家・茂田井武をいま知るものは少ないのは画集がないからである。残念ながら、当時の新聞・雑誌社には原稿を返す習慣が無く、編集者が奪い合って自分のものにしていた。したがって茂田井の挿絵やカットは散逸し茂田井武の画集を編もうとしてもできず、出来ても不完全というしかない。また1920年代の絵本作家の制作情況には大きな制約があった。絵本の原画は下手くそな印刷職工の敷き写しによって版がつくられ、平板印刷にまわされ、原画に微妙な表現をこころみてもそれが再現されることは非常に困難だった。したがって、当時の絵本作家は印刷職工の拙い技術と印刷機械の工程をイメージしながら絵を描いた。童画家は、絵本印刷職工に浮世絵版画の彫り師の技術を望むべくもなかった。そして、浮世絵絵画工が、狩野派の支配する画人社会から疎外されたように、絵本作家は権威となった既成の美術界への反骨心を抱いていた。



「ピアノ ラッパ ゲックゲックウレシクテタマラナイ(1947)」

1954年には絵雑誌「キンダーブック」に発表の作品に対して、小学館児童文化賞児童絵画賞を受賞。賞金全額を童画会に寄付しようとして説得され、半額を寄付。その基金により57年「茂田井武記念賞」が制定された。1960年頃から始まる現代児童文化のルネッサンス到来前に亡くなり、現代の優れた児童文学作家のすぐれた作品に絵をつける事ができず、児童出版美術にたずさわっている人のあいだでは抜群に評価の高い作家でありながら、伝説のというと大袈裟かもしれませんが一般にはあまり知られていない童画作家という結果を招いています。



 
「赤いろうそくと人魚」

童画の仕事が生活の中心になってから、新制作協会から展覧会に出品するよう誘われたが、茂田井は「額縁絵描きではないから」と断ったという。その後も公募団体展には一度も出品しなかった。



<放浪時代>

「全身ヲユスブル涙禁ジ能ハヌ美シサ 世界中ノ中ノ何処カニハ必ラズヤ信ジ難イ光景ガ展開サレテヰタシコレカラモ展開シテユクニチガイナイ。空想トハソノ中カラ美シサヲ捕ヘル唯一ノ方法ノ事デアッタ。」

1908年9月29日、東京・日本橋の「越喜」という大きな旅館に生まれる。23年関東大震災で生家が全焼。療養中の母の病状が悪化し、1924年に亡くなる。25年中学を卒業し、東京美術学校を受験するが不合格となり、太平洋画会研究所、川端画学校などで油絵を学び、傍らアテネ・フランセに通う。そこで中原中也と知り合う。父の再婚、入試の失敗、家庭環境の変化などが重なり、精神的に不安定になる。30年、22歳のときに、継母と折合いが悪かった武は、一文無しで家出。アルバイトで旅費の半ばを作り、写生旅行に行くと称して家を出たまま大阪、福岡、京城(今のソウル)へ向かった。ハルビンで映画看板などを描いて資金を作り、シベリア鉄道の切符を買った。シベリア鉄道では、車中のつれづれに向いの人を写生した。評判になり、客の似顔絵をかいてポケットいっぱいの金を得、パリへ向かった。何者かに追われるような気持ちで、地図も、時刻表も、金も持たない旅だった。

  

茂田井武の絵日記風画集「トン・パリ(ton paris)」絶版



パリでポケットいっぱいの金を使い果たし、パリ17区の日本人会食堂で働きながら街の人々の暮らしにまぎれて絵を描いた。世界中の芸術家たちがパリに憧れて集まっていた時代であるが、茂田井は美術学校には行かず、主に水彩の画帳、絵日記などを独学で気儘に描いていた。一貫してアカデミックな画学生のあり方にはなびかず、一度だけ藤田嗣治を訪ねたきりだった。美術館巡りよりも、パリの市井の人々の集まる、市場、遊園地、ギニョールの怪奇劇、シネマ、サーカス、安酒場といったところに足を向けパリの庶民の哀歓を見つめていた。夜になって仕事が終わるとアパートの一室で一日一枚だけ描く絵が何よりも楽しい勉強となった。この頃、山本夏彦と知り合う。パリで画帳『ton paris』(大川美術館蔵)、『Parisの破片(かけら)』(全79点、うち8点は不明)を残した。32年にはパリ日本人会食堂部としてジュネーヴへ長期出張し画帳『続・白い十字架(全70点うち5点不明)を残す。ヨーロッパ滞在中に描いた画帳のほとんどは人の手に渡ったり、戦災で消失してしまい、現在確認されているのは上記の三冊のみです。



「子供われを観察し わが異形より 何ものかを 汲みとらんとす」

画集「トン・パリ(ton paris)」~青春の破片(カケラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「続 白い十字架」

















33年、25歳、パリを離れ、ベルギーへ行く。手違いでパスポートを取り上げられ、ロンドンを経て強制送還、帰国する。職を転々とした後、「新青年」の小栗虫太郎のの挿し絵を描き、その独特の画風はすぐに認められた。42年結婚。絵本、童画へ本格的に取り組むべく猛勉強を始める。44年、北京派遣軍に招集され入隊。45年東京大空襲で家や作品を焼失、北京で終戦を迎える。46年復員、出版の自由化とともに装丁、挿絵、絵本の依頼がくるようになる。日本童画会入会。52年、もともと喘息持ちであり、持病の気管支喘息と肺結核が悪化し自宅療養の闘病生活に入る。仕事は寝床で腹這になっても続けられた。54年小学館児童出版文化賞受賞。1956年11月2日死去。享年48歳。

「友人たちのこぞって記しているところですが、武は非常に傷つきやすいハートの持主で、それだからか大変な飲酒家で、ボヘミアンで、つまりは破滅型の人であったということです。そういう彼のもっとも親しむことのできたのは<子ども>であって、そこで彼は、<子どものための絵>を描くときだけみずからの心の窓をあけはなち、自分の嬉しいと思うこと悲しいと思うことを正直に告白することができたのでしたー」。」(「日本の童画7」解説 上笙一郎)


「ギニュール(1932)」



「チルチルミチル青い鳥(1946)」



「駄菓子屋(1947)」



「ヘンゼルとグレエテル(1946)」



「ジャックと豆の木」「ガリバー旅行記」



「ピノキオ」「ユメ(小人国)」



「釈迦誕生(1946)」「ARAJIN(1946)」



「マッチ売り(1946)」「凍て月と襟巻鼠(1947)」



「HIDE PIPER(1950)」



絵物語「宝船」(1939年)*八点連作(うち一点不明)

「カビクサイ本堂ノ空気。雨ノ日ノ宇宙ノ果テノヨウナ静ケサ。
梵妻(オバ)サンノ焚クネブタゲナ蚊ヤリノ煙。池ノ鯉トノ禅問答。
雨トフル蝉シグレ。草群ノ草イキレ。何々廟ノ裏手ノ松林ヲカラカラト、トブ宝船の幻覚。



「神社ノ裏ノ朽葉ノ下ノミミズヤムカデ、セミノヌケ殻。
農家ノ庭ノ梨ヤ菖蒲。土橋ノ下ノヒキガエル、児雷也デモ乗ッテソウナ。
小川ノ飛ビ石ハグラグラ、石ノスキ間カラ蛇ノ尻尾ガノゾク。」

 

 



「無限なるおどろきのよろこびの必要・子供のために」(1947.12.2)

「友人たちのこぞって記しているところですが、武は非常に傷つきやすいハートの持主で、それだからか大変な飲酒家で、ボヘミアンで、つまりは破滅型の人であったということです。そういう彼のもっとも親しむことのできたのは<子ども>であって、そこで彼は、<子どものための絵>を描くときだけみずからの心の窓をあけはなち、自分の嬉しいと思うこと悲しいと思うことを正直に告白することができたのでしたー」。」(「日本の童画7」解説 上笙一郎)

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「子供たちのいるところこそ黄金時代がある」(ノヴァーリス)



 






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