『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

村山槐多



短歌絶叫歌人・福島泰樹VS村山槐多



死者なれば君らは若く降り注ぐ時雨のごときシュプレッヒコール

「悲しみの連帯」さなり高橋よ 五臓六腑の怒りの歌を



「歌の力を信じる。肉声を信じる。
福島泰樹の短歌には、また彼の肉声が奔放に疾駆する絶叫コンサートには、私たちの魂を揺さぶる根源的な力がある。聴くという快楽を導き、同時に現在のの私たちの在りようを暴力的に問い返さずにはすまない無類の力が、いつもいつも彼のまわりには働く。言葉は生きている。昇華された言葉は魂と同じことだ。古来より人はそれを言霊と呼んだ。」(立松和平)




血染めのラツパ吹き鳴らせ
 耽美の風は濃く薄く
 われらが胸にせまるなり
 五月末日日は赤く
 焦げてめぐれりなつかしく

 ああされば
 血染めのラッパ吹き鳴らせ
 われらは武装を終へたれば

1

『尿する裸僧』(1915)

何の夢を追いかけたか、大正画壇に彗星のように登場し、たった22歳と5カ月で夭折。異色の画家であり天才詩人でもあった村山槐多。托鉢に放尿する裸の僧侶を赤を主調として描いた『尿する裸僧』は、彼がその短い生涯をかけて追い求めたガランス(朱)によって彩られ、生々しく、ときに熱すぎて、息苦しい。見る者に異様な情熱を感じさせる、もっとも村山槐多らしい作品として知られている。それは人間の皮がひきむかれ内面がむき出しにされたような、痛々しくも神々しい姿である。
それにしても迸る怒涛の小便は快感であろう。

2

『紙風船をかぶれる自画像』(1914)

ある美少年に贈る書



君よかくの如く

また君に書を贈る者を君はよく知つて居るだらう

彼は惡鬼だ。無力を裝ふに豪惡のマスクを以てし肉を裝ふに靈を以てし絶えず劣惡な繪畫を描いて居る怪物だ。彼がもう二三年來君をつけ覗つて居ることは君がよく承認する處だらうと思ふ

君はそれに對して如何なる感じを持つて居るか恐らく君の心には或る一種不可思議なる恐喝を感じて居るに相違ない。事實恐喝が續いた

西の都にありし日の事の囘想がこの怪物をして醜惡なる微笑に耽らせるに足る

中學校の教室から君に手渡されたラブレター

あの時君は恐ろしく赤くなつた君の昂奮が「恐れ」に關連して居た事を察するに難くない。それから夜毎に乞食の樣ななりをした(いつでもさうだ)かの怪物が君の家のまはりをうろつき始めた彼は近衞坂と呼ぶ君の家の横の坂を上つたり下つたりした

君は確かにその姿を二三度見つけたに相違ない

それから二三度續いたラブレター、怪物が京都を去つて災害が漸やく去つたと思ふと再びラブレターの連續

遂に君は返事を書いたね

怪物が泣いて嬉しがつたのを知つて居るか

ああ其後一年は過ぎた。無難にそして君は東京へやつて來た五月の或る美しい夜君は再び怪物の襲來を受けた始めて二人が打解けて話をしたのだ

君はこの怪物が柄になく美しいナイーブな思を有つて居ることを發見した事と思ふすくなくとも或安堵を得たことと思ふさうありたいと怪物は村山槐多は願つて居るのだ、彼の戀は未だ連續して居るから。彼は君の實に死ぬまで執着してゐる

彼はすつぽんだブルドツグだ君から彼を離すには君は彼に君の「美」を與へるの他はない

君はこの怪物に君を飽きるまで眺めさせなければならない彼が君を口説いたらう

「肖像畫をかゝして呉れ」と

それがとりも直さず彼の戀の言葉なのだ

ああ世にも不運なる君よ

君は恐るべき怪物につかれた彼は君にとりついたが最後君から彼は美を吸ひとらずには居ぬ

彼は「美を吸う惡魔」だ

永遠に生命の限り彼は君につきまとひ君が空になるまで君の美を追求せずには居ぬのであらう

君がそれを憎みそれを厭う事はこの怪物にとつて何等の痛みでもない

この怪物は無神經だ

センチメンタルなき意志のみで出來た人間だから以上の不貞腐れを君に贈る

    一九一五年五月

                  怪物より

994

『自画像』(1914)

村山 槐多(むらやま かいた、1896年9月15日 - 1919年2月20日)

わずか22歳で夭折した画家槐多は、京都府立第一中学校在籍中多数の詩や小説、戯曲などを創作した。何度か日本美術院賞などを受賞するが、物質的困窮と放埓な生活によりもたらされた結核性肺炎に苦しみ、ある風雨の夜、無謀にも家を飛び出しやがて草叢で見つかるが衰弱著しく、「白いコスモス」「飛行船の物憂き光」という謎めいた言葉を残して永眠。満22歳と5ヶ月。桐ヶ谷斎場にで荼毘にふされる。翌年に刊行された山崎省三他編「槐多の歌へる」(アルス社大正9年)により、画業以外の面でも広く認知されることとなった。現在槐多の墓は池袋の雑司ヶ谷墓地にある。(清光院浄譽槐多居士)。墓標番号は「一種二十号六側十番」

3

「あなたはベルサイユ宮殿に住んでいる人か、巴里人か花火か絵か音楽か。・・・ご返事をお暇な時に呉れたまえ」

『稲生像』(1913)
京都府立一中時代、槐多が思慕をよせた一級下の美少年稲生(いのう)きよしの横顔。夜毎、「稲生の君」の家の灯が見える神楽丘にのぼっては、恋焦がれる切ない詩を書いた。上記のラブレターの返事はこなかったという。実際にはその青年とは殆ど話もできず、恋文も人を介して渡してもらうほどの純情ぶり。この頃、すでに槐多はプラトンを言語で読破するほどの秀才だったという。

「にぎやかな夕ぐれ(K.Iに)」(1914年)

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
何がにぎやか、何がにぎやか
薄青い濃い夕ぐれ

美しい空が東山に
紫の珠が雨みたいに東山に
星が血のりめいて酒びたりの春の空に
紫に薄くれなゐに

「ほんまににぎやかやおへんか」
たどりゆくは女の群
宝玉でそろへた様な多情な群
美しいお白粉にきらきらと

燈が燈が燈が加茂川の岸べに
金色に、アークランプも桜色に
「ほんまににぎやかやおへんか
きれいな夕ぐれやおへんかいな」

わたしはたどる紫の貴い薄紫の
神楽岡の裾を浮き浮きとした足どりに
たらりたらりと酒が滴たる
あざみ形の神経から

「にぎやかやおへんかいな」
わたしは答へるうれしさに
「そうどすえなあ」
美しい女の群に会ふや数々

「にぎやかな夕ぐれどすえな
ほんまににぎやかな
あの美しいわたしの思ふ子は
此頃どないに綺麗やろえな」

近衛坂を下れば池の面に
空がうつる薄紫の星の台が
ほのかにもるゝ銀笛の響は
わが思ふ子の美しい家の窓から

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
この時泣いて片恋のわれはつぶやく
「そやけどほんまはさびしおすのえなあ」。




4



横浜市に生まれ、中学校教員であった父の赴任先である京都市で成長する。1909年(明治42)、京都府立第一中学校(現、洛北高校)に入学、在学中にいとこにあたる画家山本鼎から油絵具一式をおくられ、画家になることをすすめられる。また、このころボードレールやランボー、ポーの影響をうけ、友人たちと回覧雑誌をつくって詩、小説、戯曲などを発表した。
1914年(大正3)中学校を卒業し、画家をこころざして上京、山本鼎の斡旋(あっせん)で画家小杉未醒(後の放庵)宅に寄寓し、再興日本美術院の研究生となる。同年第1回二科展(→ 二科会)に水彩画が入選、15年には第2回再興日本美術院展覧会(院展)に「カンナと少女」を出品して院賞を受賞した。このころ、高村光太郎や柳瀬正夢などを知った。

貧苦の生活の中、旺盛な制作をつづける一方、奔放な生活はしだいにデカダンスの色合いが濃くなっていった。16年からは小杉宅をはなれ、失恋の傷などを負いながらも制作に没頭するが、放浪と奇行もくりかえされた。18年4月に突然喀血(かっけつ)し、結核と診断されて療養生活にはいる。翌年2月、雪まじりの雨のふる夜、発作的に戸外にとびだして草むらにたおれているところを友人に発見され、数日後、22歳という若さで死去した。

大正期のリベラルな思潮の中から生まれた早熟多感な芸術家村山槐多の作品は、いずれも強烈な個性とエネルギーにあふれている。絵の代表作に「湖水の女」(1917)など。没後、詩集「槐多の歌へる」(1920)などが刊行された。

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『庭園の少女』
上京した1914年秋の第一回二科展に出品された作品。寄寓していた田畑の小杉未醒(放庵)の末娘、五歳の百合子を描いたもの。槐多の得意色ウルトラマリン(濃い青色)の美しく初々しい作品。

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『小杉氏庭園にて』(1914)

小杉未醒(放庵)宅の邸内にある一軒家で画友の水木伸一、小野憲の二人と共同生活をする。槐多はいつでも裸同然の姿で制作に没頭しており、家は槐多の壁画、落書きでうづめつくされていたという。

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『カンナと少女』(1915)

小杉未醒(放庵)邸で描かれた木彫家吉田白嶺の娘雅子。

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『秋の愁い(回覧雑誌より)』(1911年頃)

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一本のガランス 村山塊多



ためらふな、恥ぢるな
まつすぐにゆけ

汝のガランスのチユーブをとつて
汝のパレツトに直角に突き出し
まつすぐにしぼれ

そのガランスをまつすぐに塗れ
生のみに活々と塗れ
一本のガランスをつくせよ
空もガランスに塗れ
木もガランスに描け
草もガランスにかけ
魔羅をもガランスにて描き奉れ
神をもガランスにて描き奉れ
ためらふな、恥ぢるな
まつすぐにゆけ
汝の貧乏を
一本のガランスにて塗りかくせ。

※ガランス: [(仏語) garance] あかね(茜)。あかね色。油絵の具の赤い色、そのチューブ

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『のらくら者 1916年』

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「祈り」
   神よ
    いましばらく私を生かしておいて下さい
  私は一日の生の為に女に生涯ふれるなと言われればその言葉にもしたがいませう
   生きて居ると云うその事だけでも
   いかなるクレオパトラのにもまさります
   生きて居れば空が見られ木がみられ
   画が描ける
   あすもあの写生がつづけられる



1915年、槐多がほとんど日記をつけていなかった頃です。
その春には小杉未醒宅を離れ根津界隈に引っ越します。モデル女の「お珠さん」や下宿先の「おばさん」など恋愛に燃えた一年間でした。

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『バラと少女 1917年』

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『裸婦 1914-15年』

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『湖水と女 1917年』

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『裸婦と男たち 1914年』

二 月  村山 槐多

君は行く暗く明るき大空のだんだらの
薄明かりこもれる二月
曲玉(まがたま)の一つらのかざられし
美しき空に雪
ふりしきる頃なれど
昼ゆえに消えてわかたず

かし原の泣沢女さへ
その銀の涙を惜しみ
百姓は酒どのの
幽なる明かりを慕う

たそがれか日のただ中か
君は行く大空のものすごきだんだらの
薄明かり
それを見つつ共に行くわれのたのしさ


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