『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

━『灰とダイヤモンド』



アンジェイ・ワイダ 監督作品 『灰とダイヤモンド(1958年 ポーランド)』

松明のごとくわれの身より火花の飛び散るとき
われ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
もてるものは失わるべきさだめにあるを
残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを
  
永遠の勝利の暁に、灰の底深く
  
  燦然たるダイヤモンドの残らんことを

チプリアン・カミユ・ノルヴィッド「舞台裏にて」

マチェクとクリスチーナが雨宿りのために飛び込んだ教会の墓碑名に刻まれていた弔詩。

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虫ケラのように弾丸を浴び、真っ白なシーツに血が滲んで、自分の血の臭いを嗅ぐ・・・ラスト、路傍の巨大なゴミ捨て場の中で、喘ぎながら息絶えるマチェク。ゴミ捨て場で胎児のように身体をまるめての壮絶な悶死……。その克明に描かれるマチェクの空しい死に様は、崇高な悲劇のようであり、観る者を絶句させずにはおかないほどの鮮烈な記憶を残した。フレームのすみずみまで配慮のいきとどいたモノクロームのスタンダード画面が美しく映え、光と影のコントラストが実に鮮やか!祖国ポーランドへの愛国心に燃えて生きた若者たちの魂に捧げられた金字塔的傑作!
「灰とダイヤモンド」のテーマ曲、オギンスキの「ポロネーズ」の物哀しい旋律が私の頭を駆け巡る。



アンジェイ・ワイダ 監督作品 『灰とダイヤモンド(1958年 ポーランド)』

監督・脚本:アンジェイ・ワイダ
原作・脚本:イエジー・アンジェイエフスキ
出演:ズビグニェフ・チブルスキ、エヴァ・クジジェフスカ

イエジー・アンジェイエフスキーの同名小説を彼自身とアンジェイ・ワイダが共同で脚色し映画化。二十八歳で監督デビューし、三十歳で映画史上に残る名作「灰とダイヤモンド」をものした。青年の孤独な生と死を通して、戦後ポーランドが辿った過酷な運命を描いた、アンジェイ・ワイダによる戦争3部作の一作。ベネチア映画祭国際批評家連盟賞受賞。1950~70年代にかけ、その社会性と芸術性の高さで欧州映画の中でも異彩を放っていたポーランド映画の傑作群の中でももっとも忘れがたい作品。フランスのヌーヴェルヴァーグ勢同様、世界の映画界に強烈な新風を吹き込んだポーランド映画。アンジェイ・ワイダ、イエジー・カワレロヴィッチ、アンジェイ・ムンク、ロマン・ポランスキーらが著名だが、その中でも、祖国ポーランドにとどまり、徹底してポーランド社会にこだわった作品を産み出し続けた監督が、アンジェイ・ワイダである。
アンジェイ・ワイダ 監督はこの映画を彼が青春時代を過ごした「戦争時代を後世に語り継ぐ事」であり、「生き残ったものが死者に対して送るレクイェムであり、責務でもある。」とも語っている。



主人公のマチェクを演じたズビグニェフ・チブルスキー!
その黒い眼鏡に細いズボンは一世を風靡し「東欧のジェームス・ディーン」と呼ばれた!

舞台は、1945年。終戦直後の焦土と化したポーランドのとある町。ナチス・ドイツが撤退した直後のポーランド。まだソ連系共産党の支配を受けていない混沌とした時期である。大戦中は対ナチスレジスタンス運動をしていた主人公マチェク(ズビグニェフ・チブルスキー)は、ワルシャワ蜂起で多くの仲間を失っていた。マチェクは、祖国の自主独立を目指し、ソ連傀儡政府に抵抗する組織の活動員として、政府側の要人シチュカの暗殺という任務を遂行しようとしていた。その一日の午後から次の朝までの時間....一気に語られる悲劇的な愛と暴力の物語。



第2次世界大戦末期、右派主導のワルシャワ武装蜂起は失敗に終わった。その挫折感からサングラスをはずさないマチェックは戦後、反共テロの殺し屋に身を持ち崩していた。



ところがマチェックは、かつての同志でソ連系共産党地区委員長(労働者党書記)シチュウカの暗殺を実行するが、誤って別の男2人を殺してしまう。マチェックの属する地下組織はさらにシチュウカの暗殺指令を発する。



党書記が泊まるホテルの隣室を借り、機会を窺うマチェクは、ホテルのウェイトレスのクリスティナ(エバ・クジジェフスカ)と恋におち、あわただしく、思いもかけない情事をもつ。マチェクははじめて、生まれ変わり、暗殺指令を放棄しようとまで思う愛を発見する。



 「生き方を変えたい。今から普通に生きたい。今わかったことが昨日わかっていたら..... 人殺しはもういやだ。生きたいんだ。」



マチェクは、クリスティナと夜の町を彷徨います。地下墓地の入り口で雨宿りをする。クリスチーナが木版に彫られた詩を読みあげます。

「先が読めないわ」

「‐永遠の勝利のあかつきに 灰の底深く さんさんたる ダイヤモンドの残らんことを‐」

 マチェックは、続きを暗誦する。

「きれいね。灰の底深く、ダイヤモンドの残らんことを。……私たちは何?」

「君か? ダイヤモンドさ」



地下墓地の奥には天井から逆さづりになった十字架が、わずかに揺れてる。十字架の向こう側には、十字架といっしょに逆さづりになったキリストの頭や手が垣間見える。

逆さ吊りのキリストを前にして、マチェクは言います。

「あのね。変えてみたいものがある。生き方を変えたい。うまく言えないけど」

「いいわ。大体わかる」

しかしマチェクには時間がなかった。明朝までに、共産党幹部を暗殺しなければならなかったのだ。



<映画の背景となったワルシャワ蜂起>

ワルシャワ蜂起とは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起こった武装蜂起である。
1944年、ソビエト軍によるバグラチオン作戦の成功によりナチス・ドイツは
敗走を重ねた。解放地域がワルシャワ付近に及びそれに呼応するような形で8月1日、ワルシャワで武装蜂起が行われた。しかしながらソビエト軍はその進軍を止め、イギリスの度重なる要請にも関わらず蜂起を援助する姿勢を見せず、イギリスによる支援も妨害した。その妨害が除かれた時はすでに手遅れな状態であり、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、レジスタンス・市民約22万人が虐殺され、10月3日鎮圧された。死亡者数の推定は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。
生き残った少数のレジスタンスは地下水道に逃げ込み、ソ連軍進駐後は裏切ったソ連を攻撃目標とするようになり、共産政府樹立後も、要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。
ワルシャワ蜂起を題材とした作品は、アンジェイ・ワイダ監督の三部作『世代』『地下水道』『灰とダイヤモンド』をはじめ、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス映画)などが知られる。



<Andrzej Wajda>

「私が何故この二本の映画(『地下水道』『灰とダイヤモンド』)を作り、何故これらの作品が私の最初の映画でなければならなかったのか……という質問を、私自身にも発しているのですよ。(中略)私はワルシャワ蜂起に参加しませんでした。戦後、私はクラクフの美術学校に入学しましたが、そこでの人々は、戦争体験はなく、美術に熱中していました。
一方で、私と同じ世代のある人々は、戦争という状況を生き、戦争という悪を見、恐怖の中で苦しみました。私は何も体験していません。そこで私は、何とかして償いをしようと決心しました。私は、私のかたわらを通り過ぎて行った戦争という歴史的事件の体験を、他の人々と共有出来ないことで深く恥じ入っていたのです。私は映画で戦争を追体験することにより、私の個人史の中での空白のページを埋めようと考えました」(アンジェイ・ワイダ)



「彼(マチェク)は、例えそれが苦渋に満ちた決断であろうとも、武器を捨てるよりは殺人を選ぶのだ。自分自身を、そして人目につかぬよう隠し持たれた必殺必中のピストルだけを頼りにした世代に典型的な振る舞いだ。私は彼らのような不撓不屈の若者達を愛する。彼らを理解する。私のささやかな映画は、彼らの世代(私もそこに属する)が生きた複雑で困難な世界を、観客の前に開示しようとするものである」(アンジェイ・ワイダ、1958年)



1926年3月6日、ポーランド北東部のスワルキに生まれたワイダ氏は、13歳でドイツ軍の祖国侵略にあい、16歳のころから反ナチズム抵抗運動に参加した。
解放後はクラフクの美術アカデミーで絵画を学び、ウッジの国立映画大学で演出を学んだ。ワイダ監督をはじめ、アンジェイ・ムンク、ロマン・ポランスキーら、
世界的な映画作家を次々と輩出してきた。1954年卒業後、『世代』、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』の抵抗3部作とよばれる連作で、戦中戦後の祖国同胞の悲惨な体験に題材をとり、戦うこと、生きることが人間をどのように動かしてゆくかを鮮烈な映像に刻み、世界的な反響をよんだ。これらをリアリズム系列とよぶならば、ワイダ氏はまたロマンティシズムの系列とよぶべき作品があって、『夜の終わりに』、『白樺の林』、『ヴィルコの娘たち』などで青春の傷みや安らぎをうたった。さらにまた、『灰』、『天国の門』、『約束の土地』、『ダントン』等では、時代をさかのぼって人間の欲望と挫折を描いた。以後は文学の映画化や虚空の世界を描くようになるが、81年の戒厳令で映画人協会会長の座を追われ、祖国での映画製作ができなくなり、フランスやドイツの協力で作品を撮りつつ、86年の「愛の記録」でポーランド映画界に復活した。一方、59年から始めた舞台演出も、映画監督と同等の比重を占めている。日本でも、88年にドストエフスキーの『白痴』を舞台化した「ナスターシャ」を坂東玉三郎主演で、90年秋にはクラクフ・スターリー劇場の「ハムレット」が上演されている。
87年に京都稲盛財団の第3回京都賞を受賞したワイダ監督は、ポーランドの若者たちに芸術的な刺激を与えたいと賞金4500万円を全額基金にして、クラクフに眠る約一万点の日本美術品の展示場をつくることを提案。その熱い思いに打たれて、日本でも募金に13万人以上が参加し、94年11月、クラクフ日本美術技術センターが完成した。京都賞の他にも世界の多くの賞を受けている。95年日本政府より勲三等旭日中綬章、96年、高松宮殿下記念世界文化賞。98年には、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(名誉賞)を受賞。2000年のアメリカ・アカデミー賞特別名誉賞の受賞は記憶に新しい。



【フィルモグラフィー】
1954年 「世代」
1957年 「地下水道」(カンヌ国際映画祭審査員特別賞)
1958年 「灰とダイヤモンド」(ヴェネチア国際映画祭国際批評家連盟賞)
1959年 「ロトナ」
1961年 「夜の終りに」「サムソン」
1962年 「シベリアのマクベス夫人」「二十歳の恋」
1965年 「灰」
1967年 「天国への門」
1968年 「部品の寄せ集め」
1969年 「すべて売り物」「蝿取り紙」
1970年 「戦いのあとの風景」「白樺の林」(モスクワ国際映画祭金メダル賞)
1972年 「ピラトと他の人たち」
1973年 「婚礼」
1975年 「約束の土地」(モスクワ国際映画祭金賞)
1976年 「境なす影」
1977年 「大理石の男」(カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞)
1978年 「麻酔なし」
1979年 「ヴィルコの娘たち」
1980年 「ザ・コンダクター」
1981年 「鉄の男」(カンヌ国際映画祭パルム・ドール)
1982年 「ダントン」(ルイ・デリュク賞、セザール賞監督賞)
1983年 「ドイツの恋」
1986年 「愛の記録」
1987年 「悪霊」
1990年 「コルチャック先生」
1992年 「鷲の指輪」
1994年 「ナスターシャ」
1995年 「聖週間」(ベルリン国際映画祭銀熊賞)
1996年 「ミス・ノーボディ」
1999年 「パン・タデウシュ物語」



<Zbigniew Cybulski> 1927/11/03 - 1967/01/08

マチェクを演じたチブルスキーは、1967年、四十歳の若さで早逝。ワルシャワ行きの列車に飛び乗ろうとして、ホームとの間にはさまれた末の轢死であった。

■  愛する(1964)
■  二十歳の恋(1962)
■  夜の終りに(1961)
■  夜行列車(1959)
■  灰とダイヤモンド(1957)
■  世代(1954)

 

 


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