━【チェット・ベーカー】


クール・ジャズの象徴!悲運のトランペッター、チェット・ベーカー



-Chet Baker-
(1929.12.23-1988.5.13 )
trumpet/vocal
チェット・ベーカーは1929年オクラホマ州に生まれ。1940年南カルフォルニアに移り住み1946年ハイスクールを卒業し、すぐに兵役についた。除隊後、ある晩ロサンゼルスのクラブに出演していたデクスター・ゴードンと一緒にプレイさせてもらったのがプロ・ミュージシャンと競演した最初であった。 1952年、バップの創始者チャーリー・パーカーに見いだされロスで彼のカルテットに1週間参加、今日のモダンジャズの創生の一翼を担った。 その後、ジェリー・マリガンのピアノレス・カルテットに参加、当時のマイルス・デビスを凌ぐ人気を得るまでになった。いわゆるウエスト・コースト・ジャズ全盛時代である。 1953年、自己のバンドを結成しヴォーカルでの評価も高まるなど活発な活動を展開したが、麻薬常習からトラブルが絶えずやむなく活動の大半をヨーロッパで行った。彼のトランペットを聴くに、「努力の人」とか「セッションで鍛え上げた」という汗のにおいが全然しないわけで、歌と同じく持って生まれた才能でたちまちスターになってしまった天才肌の人なんでしょうね。

「LIVE AT RONNIE SCOTT’S」というビデオでは、チェットの故国アメリカのジャズ・シーンを酷く憎んでいるかのごとき発言がインタビューで数多く見受けられ、驚くほどです。この破滅型の天才トランペッターの晩年のその容貌の驚くべき変貌は、どうしても”人間のもつ弱さ”というものを突きつけてくるようです。しかしながら、彼のプレイまでを駄目にしたわけではないことに救いがある。



「チェット・ベーカー・シングス」

『つまりこのレコードは「チェット・ベーカー・シングス」という曲が一曲あって、それが十四楽章に分けられた組曲ふうの大作ということである。第十楽章の「My Funny Valentine」は『ポギーとベス』の「サマータイム」みたいなものだろう』...寺島靖国

『彼の歌は、無邪気な甘ったるさで女の子たちをなぎたおした』...レックス・リード

『歌い方を知らないのに、何かが心に響くヤツの歌って聞いたことあるかい』...オーネット・コールマン



ジャズ界のジェームス・ディーン........。
端正な顔立ちと、甘い歌声で、ジャズ界きってのアイドルと称されたチェット・ベーカーです。1950年代のはじめ頃はマイルス・デイヴィスよりもずっと人気があったのです。ウエスト・コースト・ジャズはロサンジェルスやサンフランシスコなどの西海岸の主に白人ミュージシャンがやる、クールでオシャレなジャズでした。チェット・ベイカーはこのウエスト・コースト・ジャズのスターだったのです。彼がいかにとんでもない人生を送ったかは、彼の死の直前にブルース・ウェーバーという写真家が撮影したドキュメンタリー映画、「レッツ・ゲット・ロスト」を観るとわかります。ぜひご覧ください。



『...10代は、ボビー・ハケットに夢中だったという。これで謎が解けた。ベイカーの軽いサウンドはボビー・ハケットに範を求めていたのだ。ヒックス・バイダーバック~ボビー・ハケット~チェット・ベーカーのラインはウエスト・コーストのトランペット奏者の原点であった、という見方もできる。今にして思えば、全盛期のベーカーは”ウエスト・コーストのビックス・バイダーバック”であったのかも知れない。』...斉木克己



チェットは、生涯にじつに多くのレコーディングをのこしたが、歌う曲はおなじみのスタンダードばかり。しかしチェットが歌うと、そこに独特の世界が広がり、聴く者はついついその霧につつまれてつぶやくような演奏世界に引き込まれてしまいます。中性的と形容されるアンニュイな歌声、その歌声とリリカルなトランペットのハーモニーが絶妙です。そういう意味では、チェットの歌と演奏には麻薬的な魅力が潜んでいます。チェットは音楽理論はダメ、譜面ももちろん読めなかったそうです。それが為か、ジャズ・ヴォーカルにありがちな大胆なフェイクは行なわず、決してメロディを崩さずストレートに歌い上げるスタイルはいたってシンプル、それでいて実に味わい深い。まるで耳元で囁くようなソフトな感触の歌声はロマンティックなダンデイズムを感じさせてくれる。



55年、ディック・トゥワージック(p)を含むカルテットで渡欧したが、ディック・トゥワージックはバークレイ・レーベルで二度目のレコーディングを終えた後、サン・ベノワ通りのホテルの部屋で麻薬のショックで命を落とした。実はツアー中に、チェットに麻薬を教えてのはトゥワージックだった。これがチェットにとってのつまずきの始まりとなった。彼を”本物の天才”と評価していたチェットは悲しみに打ちひしがれた。
60年にMGMから映画「夜が泣いている」の主演を持ちかけられたが、なぜかそれを蹴ってヨーロッパへ行ってしまう。相手役はなんとあのナタリー・ウッドであったという。彼はウエストコーストよりヨーロッパを好んだのだ。



彼の歩み続けた人生は波乱に満ち、まさにジャズそのもの....。麻薬常用のために体をこわして、傷害事件にあったり、収監されたりと、59年後期から60年代はジャズ・シーンから姿を消していたが73年に復帰する。



77年に「ユー・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン」(A&M)を発表し評判になったが、アメリカの風は彼に冷たかった。逃げるような形でヨーロッパへ渡り、各地を転々とする。86年には初来日を果たしている。



My Funny Valentine(1937)

へんてこりんなバレンタイン。可愛くって、可笑しなバレンタイン。
あなたを見ていると、思わず微笑んでしまうわ。
あなたの姿ときたら笑っちゃう。写真向きじゃあないわね。
でも、私好みの芸術作品だわ。
体型はギリシャ彫刻より落ちるし、口元はちょっと締まりがないし、
話し方だってスマートじゃないわ。
でも、髪の毛一本変えちゃダメ。私のこと愛してるんだったらね。
そのままでいてね、可愛いバレンタイン。ずっとそのままでいて!
私には、毎日がバレンタイン・デーなの。



1988年5月13日金曜日午前3時。チェット・ベーカーは宿泊先のアムステルダムのオランダ・ビート・ホテルの2階の窓から転落して謎の死をとげた。部屋には、ヘロインが残されていたという。
チェットのヴォカールはトランペッターの余技などではなく別格の天才シンガーであり、そのヴォーカルの甘さとはかなさの奥底には我が身を滅ぼしてゆく人間独特のアナーキーな退廃感が漂っている。チェットは晩年、トランペット一本を持ってヨーロッパ中をさ迷い歩かねばならなかったが、その枯れ切ったとしか云い様のないトランペットからは技術の巧拙を超えた"Something"が伝わってくる。かつて、ビリー・ホリデー、レスター・ヤング、バド・パウエルが晩年、ボロボロになっても魂の歌を歌っていたように、ジャズの中にすでにある破滅性としてのジャズの本質を生きただけなのではないか...。






ekato


この「My Funny Valentine」を愛し続けたチェット・ベーカーは好んでこの曲を何回もレコーデイングしています。まさに永遠の輝きを放つ素晴しい恋の歌ですね。人生の中で、最小の単位は二人...。恋人同士には、毎日がバレンタイン・デーなんですね?!忘れちゃいませんか?


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