『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

━【ザ・ドアーズ】


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ザ・ドアーズ【知覚の扉】孤高のヴォーカリスト、ジム・モリソン
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If the doors of perception were cleansed, every thing will appear to man as it is, infinite.

ドアーズという名前は「知覚の扉が清められれば、あらゆるものが無限に見えるようになる」
――オルダス・ハクスレーの言葉とウィリアム・ブレイクの詩の一説を引用して命名された。
60年代のサイケデリック・カルチャーに多大な影響を与え、その魔的で官能的なサウンドは時代を超越し、ジム・モリソンの強靭かつ優美なヴォーカルと幻惑的な詩の世界と相俟って、今も世代を越えて高い人気を集めている。



時につぶやくように、時に絶叫するように歌う大曲「ジ・エンド」は映画「地獄の黙示録」のテーマ曲として使われた。



「アブソリュート・ライヴ」

Jim Morrison(Vocals)
 孤高のヴォーカリスト、ジム・モリソン。本名James Douglas Morrison。1943年12月8日フロリダ州メルボルンに海軍軍人の長男として生まれる。少年時代から、ディラン・トーマス、ウィリアム・ブレイク、ボードレール、アルチュール・ランボー、ジャック・ケルアックそしてニーチェ、ルソー、サルトル、カフカといった作家たちの文学に耽溺。IQ149だったというジム・モリソンは高校に入る頃には教師をはるかに上回る知識を身に付け、みんなが知らないような詩や小説の一節を口にして人をはぐらかすのを得意としていたという。フロリダ州立大学をドロップアウトしたあと、UCLAの演劇家に学ぶ。当時の同級生には後にバンドを組む相棒、レイ・マンザレクや、映画監督のフランシス・フォード・コッポラがいた。UCLAの演劇科に学んだジムは早くから詩作に才能を発揮し、ヴォーカリストとしてよりも「詩人」として音楽に取り組んでいた。だからこそ、一つ一つの言葉を語るように歌い、その説得力を強めていった。



その神秘的なサウンドと幻想的な詩、そして演劇の手法を取り入れたステージ演出で評判を呼びついには、1967年、シングル「ハートに火をつけて:LIGHT MY FIRE」のメガ・ヒットで、一躍トップ・ロッカーの仲間入りを果たした。



「ハートに火を付けて」

ジム・モリソンはその端正な容姿とステージでの破天荒な振る舞いによってエルヴィス・プレスリー以来のアメリカ最大のロック・スターに祭り上げられた。







人気が出て巨大な会場に大人数を収容してのコンサートが多くなると、観客たちは自己主張を始め、ヒット曲ばかりを要求するようになっていた。



「まぼろしの世界(STRANGE DAYS)」

元来詩人として認められたいと願っていたジム・モリソンは、ロック界の反逆児、セックス・シンボルといったイメージが一人歩きを始め肥大化するにつれて、そういった役割を演じることに嫌気がさしてくる。シャーマンが祭儀をとり行うかのように会場全体をコントロールしていたドアーズだったが、次第にジム・モリソンは観客とうまくコミュニケーションを取れなくなってゆく。



ツアーを続けながら限られた時間で新しいアルバムを作らなければならないというプレッシャーからジム・モリソンはどんどん酒にのめり込んでいきステージ上での振る舞いは過激になっていった。警備の警官をからかい、観客を罵倒し、まともにレコーディングに姿を現さなくなってもいた。



「水晶の舟」

あなたの意識が無の中に沈む前に
もう一度だけくちづけさせてくれ
もう一度目くるめく至福の時を
もう一度だけくちづけさせてくれ ねえ もう一度だけ

日々は眩しすぎて その上苦痛に満ちていて
おまえのやさしい雨の中に 包まれていたい
おまえの生きてる時間は 狂気に満ちる
もう一度会える 会える



告げておくれおまえの自由は どこに存在するのか
街のざわめきは絶える事がないね
なぜという問いから 俺を自由にしてくれ
それよりも おまえは泣くほうがいい
おれは 飛ぶほうがいい



水晶の舟は 満たされている
千人もの女と千もの心踊ることども
あなたが何をしようともう自由だよ
百万ものひまつぶし
戻ったときには 手紙をかくよ



「太陽を待ちながら」

パリへの在住は、ジム・モリソンが音楽ビジネスの世界からは距離を置くことを考えていた為で、1970年11月8日、27歳の誕生日を迎えたジム・モリソンは、自作の詩を朗読するというアルバム「アメリカン・プレイヤー」をレコーディングしていた。しかし、このアルバムはその後長い間、日の目を見ることはなく「オクラ入り」にされてしまっていた(79年になってようやく発表)。



カリスマ・ロック・スターと呼ばれるよりも「詩人」として音楽に取り組んでいたジム・モリソンはパリにこもって詩作に没頭しようとし、バンド・メイトや音楽マスコミを遠ざけてパリにアパートを借りて、詩人としての活動を始めた。



しかし、ジム・モリソンは1971年7月3日、パリの自宅の風呂場で心臓発作のため27歳で他界。薬物使用がとやかく言われていたジム・モリソンだけに、当時は様々な憶測が流れたが検死官はアルコールの摂り過ぎが彼の心臓病の悪化を早めたと報告した。

詩人としての活動を始めた、その矢先の早すぎる死であった。
ジム・モリソンは常に更なる高みを目指していた。



ジム・モリソンは徹底的に反体制であり続けた。自分自身にも自分の芸術にも妥協しようとはしなかったし、できなかったし、その術も知らなかった。シングル「名もなき兵士」のビデオ・クリップで、ジム・モリソン自身が銃殺されるシーンを挿入したり、「父を殺し母を強姦する」と歌ってみたり、ステージ上でマスターベーションし、逮捕されたり、警官を侮辱して連行されたり。こういった商業主義の尻馬を蹂躙するお騒がせ事件のどれもが「不良のいたずら」ではなく、狂気にまみれたトリックスターの「確信犯的な美しさ」を持っていた。ドアーズはいかなるムーブメントからも超然としていた。自らの実存的な詩に陶酔しほとんど病的なまでにセクシャルなアクションは、ランボーの「あらゆる感覚の理理的な錯乱によって未知なるものを実現すること」をまるで錬金術のように実現した。



ジム・モリソンはコンサートのたびに聴衆に「目をさませ!」と叫んでいた!
「ドアーズのコンサートは、我々が特別に劇的な議論をするために召集した集会のようなものだ。我々が演奏する時、我々は一つの世界の創造に参加していて、我々も聴衆とともにそれを祝福しているのさ」。もちろんジム・モリソンはジム・モリソンの「死」そのものによって伝説化されていった過程はあるだろうが、それを差し引いても、あまりある存在感がジム・モリソンにはあったのだ。
ジム・モリソンは次のような言葉を残している。
「俺にとって、あれは演技なんかじゃなかった。パフォーマンスとかいうものじゃなかったんだ。それは生きるか死ぬかの問題だったんだ。何とかコミュニケーションをとって、たくさんの人たちを一つの私的な世界に巻き込みたかったんだよ.....」。



ジム・モリソンが眠るパリのペール・ラシェーズ墓地の墓はOscar WildeやFrederic Chopinをはじめ、数百人の著名人が葬られており、霊園の中でも訪れる人が最も多い。世界中から若者や中高年者が絶え間なく訪れ、この世を去った彼に敬意を表している。



[カバーより]
ロック・ヴォーカリストとして最大のカリスマ。ステージでの逮捕、
暴動と扇動。伝説的な存在として現在もなお年間数百万枚のアルバム
を売り上げるモリソン/ドアーズの、詩と狂気と動乱の生涯、その
悲劇的な愛と死を描く、圧倒的迫力の評伝。







ekato


「これで終わりさ、美しき友よ」

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