━【フランソワーズ・アルディ】





フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)
 
1944年1月17日パリの9区生まれで生粋のパリ・ジェンヌ。14歳のころからバルザックやロマン・ロランなどを読みあさり、16歳の頃から両親に買ってもらったギターでシャンソンを書き始め、ミレイユの「シャンソン小学院」に学んだという文学少女だった。ソルボンヌ大学では政治学を勉強、同時にファッション雑誌《エル》のトップ・モデルとしても活躍した。他の同時代のロックエイジの歌手たちとはひと味もふた味も違ったインテリジェンスとポエジーがあった。



60年代のフランスでは従来のシャンソンにロックンロールをかけあわせた音楽、いわゆる「イエイエ」が流行したが、アルディも最初はイエイエを歌うアイドル歌手としてスタートした。2枚目のアルバム「青春時代」ではフランス語なまりの英語でプレスリー、キャロル・キング、クリフ・リチャード、キンクスの曲を歌っている。彼女はブリジット・バルドーやフランス・ギャルとは違った、アンニュイで中性的な魅力が持ち味で、自分で曲作りもするアーティスティックな面も備えていた。

 

1メートル72センチの長身、55キロという痩身。サラサラのロングヘアー、クールでけだるくさりげない歌い方だがモノ・トーン的な優しさがある。静かに現実を見つめ、内省的で淡々とした態度で、隠そうともせずに孤独と対峙した詩を多く書いている。無表情とも思える顔の中で遠くを見つめるような視線、寂しさと哀しさを秘めるブルーの瞳。その瞳の置くにはしなやかで強い感性もしっかり確かめられる。「アンニュイ」っていう言葉で表現される事がよく似合っていた。



『フランソワーズ』記念すべきデビュー・アルバム!

70年代前半に「さよならを教えて(Comment Te Dire Adieu)」「もう森へなんか行かない(Ma jeunesse fout l'camp)」で一大ブームを巻き起こしたフランソワーズ・アルディ。「さよならを教えて」は、 言わずと知れたセルジュ・ゲンズブール作。以降、アイドルから脱皮し、シンガー・ソングライターとしてより充実した音楽活動をするようになるが、フォトジェニックなルックスに加えて大人の女としてのカッコよさを体現するようになっていく。



『アルディのおとぎ話』
タイトルがまさに暗示しているとおり、全編幻想的なおとぎ話の世界。
恋人だったジャン・マリー・ペリエによるシュールなジャケが秀逸!



1970年代の終わりごろ、山田太一のテレビ・ドラマ「沿線地図」で、フランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」が起用され、一時期ブームになったこともありました。



 

『私生活』
知的でアンニュイなアルディの名作!夫君ジャック・デュトロンとの共作「おやすみなさいは言わない」収録。

 

『夜のフランソワーズ』              『私小説』

 

『魔法をとめないで』            『時の旅人たちへ』





『スエーデンの城(1962)』

監督 :ロジェ・ヴァディム 原作 :フランソワーズ・サガン
出演:モニカ・ヴィッティ、ジャン・クロード・ブリアリ、ジャン・ルイ・トランティニャン、フランソワーズ・アルディ

フランソワーズ・アルディの映画出演は『スエーデンの城(1962)』『何かいいことないか子猫チャン(1965)』『男性・女性(1965)』『グラン・プリ(1966)』。



「友情」  フランソワーズ・アルディ

雲の向こうから友達がやってくる  太陽と雨をカバンに詰めて
彼らが創り出す優しい友情の季節 四季のなかで一番美しい季節
友達の優しさは美しい風景に似ている
渡り鳥のように舞い戻る人々 彼らの心に刻まれる無限の優しさ
でもその瞳には悲しみの色が宿る 
だから彼らは私の家に温もりにやってくる あなたも来てくれるきっと必ず

あなたは再び雲の彼方に立ち去る 別の表情でもう一度微笑みながら
あなたの周囲に優しさを与える 仲間が悲しみを隠したい時も
人生の意味が分からない時も 自分が何者なのか分からない時も
理解してくれる友が一人でもいたら そんな時はあなたの家に行こう
私の心が温まる あなたの燃やす炎で ........

・ジャン・マックス・リヴィエール(詞)ジェラール・ブルジョワ(曲)

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『みなさん、さようなら』(2003年カナダ=フランス)
監督・脚本: ドゥニ・アルカン
出演: レミ・ジラール、ステファン・ルソー、マリー=ジョゼ・クローズ、マリナ・ハンズ、ドロテ・ベリマン
2003年のカンヌ映画祭では脚本賞、主演女優賞を受賞し、第76回アカデミー賞では外国語映画賞に輝いた。
この映画のラスト、フランソワーズ・アルディの名曲「友情」が流れてきます。古い友人の声のように懐かしく温かな声で語りかけるように歌いいつまでもこの映画の感動の余韻をかみ締めさせてくれます。他には、フランソワ・オゾンの『焼け石に水』(2000)に使われた"TRAUME"、『8人の女たち』(2002)でイザベル・ユペールが歌った"Message Personnel"などが使われています。



’67年アルディは華やかなショウ・ビジネスの世界に嫌気がさしたのか突然ステージ活動を初め、一切の活動を止めてしまいます。デビュー以来のヴォーグ・レコードを離れ、翌’68年には「ヒポポタン」(河馬)という自分のプロダクションを設立、以後レコード制作に専念していくようになった。その後、’71年からソノプレスからレコードを出すようになった。





あり余るほどの才能を持ちながら、---いや、余りにも才能がゆたか過ぎるゆえに、世間に迎合することなく、マス・コミにも背をむけて、彼女独自の道を歩んできたのです。私生活でもそのとおりで、彼女には2人の恋人がいました。それはジャン=マリー・ペリエとジャック・デュトロン。最初の恋人、ジャン=マリー・ペリエとはうまくいかず、辛い別れののち、ジャック・デュトロンと恋仲になり1973年にジャック・デュトロンとの間に長男のトマが誕生します。が、女性の自立が盛んに謳われていた当時、フランソワーズは結婚という道を選ばず「未婚の母」であることを選びました。1981年になってようやくジャック・デュトロンと結婚式を挙げました。また二人の息子トマは現在ミュージシャンや俳優として活躍中です。



長い期間にわたってコンスタントにアルバムを作り続けていたアルディだが、88年に歌手引退宣言。アルバム『DECALAGES』以降は一線から退くかたちに--。しかし90年代初頭に「プロフィール」「痛くても」の2曲を新作として発表し、94年にはブラーのデーモンからの熱心なラブコールにより、「To The End」でデュエットを実現。この仕上がりに満足してか、96年にはブリット・ロックの色濃いアルバム『ル・ダンジェ~危険な香り』で本格的なカムバックを果たしている。


 




  

  
 
  

  

 



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