━【ジョルジュ・ムスタキ】


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ジョルジュ・ムスタキ"私の孤独"
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「私の孤独」[作詞・作曲ジョルジュ・ムスタキ (Georges Moustaki)]

私の孤独と一緒に しばしばよく眠ったものだから
私は私の孤独をほとんど友達みたいに
甘美な習慣みたいにしてしまった
彼女は影のように忠実に
私から一歩も離れようとしない
あちこち世界のすみずみまで
私につきまとった

いや私は決してひとりぼっちじゃない 
私の孤独と一緒だから

彼女が私のベットにうずくまる時
場所をひとり占めしてしまう
そして 長い夜な夜なを
二人っきり向いあって過ごす
この共犯者はどこまで行くのか
ほんとうはわからない
こんな興味を持っていくべきか
それとも 逆らうべきか?

いや私は決してひとりぼっちじゃない 
私の孤独と一緒だから

私の孤独からたくさんのことを学んだ
涙を流すことも
時々彼女と別れようとしても
彼女は決して武装を解こうとしない
そしてもし私が他の人と
恋をしたいと思うなら
彼女は私の最後の日に
最後の伴侶となるだろう

いや私は決してひとりぼっちじゃない 
私の孤独と一緒だから



覚えてますね「私の孤独」。覚えていない人は素通りしてくださいませ。
おフランスは街歩いててもレストランに行っても何処に行っても男と女のダバダダダバダバダダバダバダ~♪ 男同士、女同士で行ってるのはあまり見かけない。全ての基本は男と女のカップル。それが夫婦でなくても構わない。スキャンダルもスキャンダルに発展しない。本人同士が勝手にやっているという感じで日本の様に政治家がスキャンダルで失脚というのはまず聞かないですね。パリは大人の社会!40を過ぎて初めて人間として認められるようで決して若者の街ではない。若者は若造でしかない。あはははは。小説にしても中年の恋愛小説が多い。今、恋愛大国おフランスの若者には非常に同棲が多いそうで、都会の若者の3分の1が同棲しているといいます。だからといって、同棲している相手と結婚するとは限らないで同棲で最良の伴侶を見つけて結婚するというのが彼らの生き方らしいです。日本でいうところの、非常に真面目そうな普通の人でも当たり前に同棲する。私も「同棲時代」の経験者。どうしてますRさん?お元気ですか?ま、私のことはさておいて、日本人はおフランスという国が大好きですね。人権宣言、革命、芸術、料理、ワイン、ソムリエ、文学、香水、パリコレクション...そしてシャンソン。そんなおフランスのシャンソン。遠い青春の頃めぐりあったひとつの美しいシャンソンの数々...。一つも無い人は素通り可。



ギリシャ生まれでフランスを代表する吟遊詩人。澄んだ瞳、精悍な顔立ちを隠す髪型で口と顎にたくわえたひげもじゃスタイルはまるでギリシャの哲学者や達観した仙人の様...。アコ-スティックギタ-で奏で淡々と語りかけるようなムスタキの穏やかな声は今も私を懐かしいあの頃に運んでくれます。
私にとっての最高のシャンソンは私が愛を捧げるバルバラの歌う「我が麗しき恋物語」ですが、今回は私の一番の愛聴歌「私の孤独」を歌うジョルジュ・ムスタキを取りあげてみました。バルバラとムスタキは「ブルネットの婦人」をデュエットしてますが恋愛関係にはなかったようです。バルバラは思い入れが強すぎてなかなかUPできませんので後日です。はい。



<Barbara/ バルバラ 9 juin 1930 - 25 novembre 1997>


このギリシャ生まれでフランスを代表する吟遊詩人ジョルジュ・ムスタキは1934年5月3日エジプトのアレキサンドリア生まれのギリシャ人。今年70歳のまだまだ現役ですよ!日本のレコード会社がCD出さないだけ!



<プロフィール>

1934.5.3
エジプトのアレキサンドリアでギリシャ人。生家は書店を経営。現地リセ、フランス人学校で教育を受ける。

1951
フランス人と結婚していた姉を頼って17歳でパリに渡る。義兄は詩人で書店を経営。パリでは下町のような左岸の生活の場としてギタ-の弾き語りや作曲の真似をはじめる。ジョルジュ ブラッサンスの知己を得て、モンパルナス界隈のカフェを流し歩いたり...。

1954
20歳で結婚、まもなく娘のピアが生まれるが破局。バ-テンダ-やエジプト新聞通信員などの仕事につく。

1958
キャバレ-やクラブで歌うようになり、そこで友人の紹介でエディット ピアフとの運命的な出会い。往年のピアフ41歳、若き青年ムスタキが23歳の時。当時のムスタキはアポロさながらのギリシャ美男であった。ピアフは美男に弱かってですからね-。1958年、ムスタキは有名な女帝ピアフに捧げた「ミロ-ル」を作詞し評判になります。ギタリストとしてピアフのアメリカ公演にも同行、しかし二人の仲は長続きせず、自立。ピアフとの悲しい別れの後、失意の時を過ごしたムスタキが、バルバラや、他の友人たちの励ましによってやがて立ち直って、セルジュ・レジニアのために「サラ」など書く。



1969
シャンソン界に歌手として、デビュ-。秋にジョルジュ ブラサンスの前座として「異国の人」が大ヒット。バルバラのオランピア公演にゲスト出演。68年の五月革命や喧騒とした政治の季節が吹き荒れたパリの一角で一転して安らぎを求めていたパリジャンに、そのナイ-ブで淡々とした歌声は、傷んだ心に沁みたに違いない。

1970
パリ、ボリノ座初出演、リサイタル、アフリカ、カナダ等海外公演が始まる。シャンソン界に新しい風を送り込む。

1973
第2回東京音楽祭のゲストとして初来日。1970年代、半年に及ぶワ-ルド ツア-、ドイツ、日本、ベルギ-、オランダ、ニュ-ヨ-ク、カナダ、メキシコを回り、世界の舞台に立つ。フランス国内ツア-やパリ公演など旺盛なライブ活動。

1975
来日公演、日比谷公会堂ほか

1976
「私の孤独-自伝的エッセ-」の邦訳が出版される。



1980年代
パリを拠点に、国内、国外公演約30カ国以上と大活躍。

1998
自伝「思い出の中の女性たち」をパリで出版。



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男は黙って「私の孤独」を噛締めましょうね。

マイ・オークションをごらんください



CAT-O

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♪フランス最後のディーバ、バルバラを偲んで.....♪
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《MA PLUS BELLE HISTOIRE D’AMOUR》日本未発売
Ann’So &Rolland Rmanelli
〈曲目〉
1. Dis, quand reviendras-tu?
2. Ce matin-la
3. A peine
4. Le soleil noir
5. Le mal de vivre
6. Ni belle,ni bonne
7. A chaque fois
8. Le testament
9. La solitude
10. Le sommeil
11. Nantes
12. Cet enfant-la
13. L’aigle noir (instrumental)

<アンソ、ローラン・ロマネリのコンビ、バルバラを偲ぶ>
(11.14 ル フィガロ紙より)

 1997年の11月25日に亡くなったバルバラを偲んで、若手女性歌手アンソとバルバラの伴奏者であったローラン・ロマネリのコンビが11月14日から12月31日までルーロペエンで「マ プリュ ベル イストワール ダムール・・バルバラ/我が麗しき恋物語・・バルバラ」と銘打ったステージに立つ。アンソがロマネリ以外の人と組んだら、人々はこれほど愛されたバルバラの曲を歌うことを許さなかったであろう。ロマネリは1966年から20年以上バルバラの伴奏を務めた。バルバラがミュージカル「リリー パッション」をやる際に彼女を離れその後多くの歌手の伴奏を務めてはいたが「いつかバルバラの曲をインストロメンタルで収録したいと思っていた。ところがある日ラジオで若い歌手が《ル マル ドウ ヴィーヴル/生きる苦しみ》を歌うのを聞き、その歌手に会いたいと思った」。当の若い歌手アンソの方はこの曲を歌って好評だったことから、ステージでバルバラの曲を歌いたいと希望し、「私は5歳のとき初めてバルバラの曲を聞いてからずっとこの歌手が好きだった。だけど、1度も彼女のステージを見たこともないし、《ル マル ドウ ヴィーヴル》以外に全部憶えている曲はなかった。そこで、バルバラを最もよく知るロマネリに会い、彼女がどんなだったか、どんな風に行動し、どんな風に活動したか聞きたかった」。



もちろんロマネリは、このステージでアンソが歌う19曲のシャンソンのアコーデオン又はピアノの伴奏を行うが、バルバラとの思い出を舞台で語る。長年にわたり歌手の後ろに立って伴奏する立場であったロマネリにとって今度のステージは一種表舞台に立つものだ。「これは挑戦。演奏するすべは知っているが、しゃべりは今まで舞台の上でやったことはない。でも、バルバラと回ったツアーの様子、彼女の自宅での作業の様子などバルバラのファンが知りたいと思っていることを話したい。我々は午後2時から朝の2時まで一緒に劇場で過ごすなんてこともあったんだから。20年間彼女の伴奏をしたんだ。20年間。そては一つの人生だ。それが私の人生だった」。



「アンソの声はバルバラの声に似ているという人もいるが、私はそうは思わない。アンソの方が鋭い声をしている。でも観客は何か説明はできないがアンソの声がバルバラのものと似ていると感じるだろう。私はバルバラの無条件の信奉者の反応が怖い。でもその人達は私が何故、どんな思いからこのステージに立っているかは理解してくれると思う。私はその人達を裏切ることはない。私は私がバルバラと舞台に立った時と同じように舞台に立ちたい」。
 


 バルバラが亡くなったのは、1997年11月24日午後4時10分。黙祷。

この《MA PLUS BELLE HISTOIRE D’AMOUR》のCDを寝しなに良く聴きます。上の画像がクリアでないのはコピーだからです。CD-Rでいただいたものでジャケットも作っていただいたものです。私には、バルバラの歌をバルバラ以外の歌唱で聴くとは思いもよらなかったことです。自分でもそう思うほどバルバラの歌に耽溺してきました。バルバラの曲には、流れるように、そっと胸にしみこんでくる美しいメロディーがあり、いまさらながらその美しさに深い感動を覚えます。アンソ(ANN’SO)というまったく無名な歌手が、バルバラの良き盟友でもあるアコーディオニスト、ローマン・ロマネリと共にこの《MA PLUS BELLE HISTOIRE D’AMOUR》というバルバラ作品集を発表したのを私は全く知りませんでした。このCDの事を知ったのは若いフレンチ狂(?)の女性からでした。フレンチのレコードを蒐集しているというその女性は、バルバラのことが一番好きということでこのCDの存在を教えてくれました。さらに、13枚組のCD-BOXをも購入しているとの事で驚きました。それも私の所有している13枚組の物と違いマスタリングされ再発、デジパックでオリジナル版と同じジャケットが用いられ、写真集も来日時のものまであるという夢のような仕様との事。(正式には輸入盤ですが「バルバラ:レーグル ノワール インテグラル ステユデイオ 1964-1996/バルバラ:黒い鷲 1964-1996年スタジオ録音全集」というタイトルで13枚組!勿論、私もオーダー出しました。)彼女のバルバラに対する尊敬の念は若々しくとても美しいものだと思います。優れた芸術家への尊敬の念はとても知的で美しい感情であると思います。私はこうした何年経っても風化することのないというよりますます深まってゆく芸術家への畏敬の念をいくつも持って生きていくことが生きてゆく上での最大の財産であると考えます。最近やっとスタンダードナンバーの本当の良さが判るようになったような気がします。バルバラのレパートリーを歌っている若いアンソはストレートでマイルド、とても澄んだきれいな声で軽めのヴォーカルながら、随所に流麗なオーケストレイションも加わりバルバラへの思いが溢れそうになるほどにしっとりと歌います。さすがロマネリが抜擢しただけのことはあります。



バルバラがずっと大切に歌い続けた「我が麗しき恋物語」《Ma plus belle histoire d’amour》は、私の人生のテーマ曲、このアルバムでは歌われておりませんが、この歌のなかでバルバラが「あなたたち」と呼びかけているのは、変わらぬ支持を寄せてくれている観客たちのことで、私もバルバラの観客の一人であった事をずっと誇りに思って生きてきました。今では正確な年代はさだかではありませんがバルバラの初来日のコンサートを郵便貯金ホールに観に行きました。最初、バルバラを聴き始めたのは隣の兄の部屋から流れてくる美しい声に惹かれてからでした。普段あまり口を利くことをしない兄弟でしたが、この時は素直にレコードを借り、自分の部屋で歌詞カードを見ながら何度も何度も聴きました。時あたかも青い春が深まり行く頃、そこには私の心に深くしみ込んでくる数々の歌がありました。折からバルバラの来日公演があるのを知り、当日郵便貯金ホールへでかけ当日券を買い入場しましたが、自分の席が二階の一番奥でステージから一番遠い所でがっかりしてしまいました。立ち見でもいいから一階で見ようと思い、暗くなるのを待って1階へ移動し開演を待ちました。確か、LIVEアルバム「ボビノ座のバルバラ」の開演を告げる木槌と同様の音が聞えてきた瞬間もう舞い上がっていました。腰をかがめ突進するかのように通路を前の方にどんどん進み舞台から2メートル前あたりで人目もはばからず座り込んでしまいました。自分でも何をしてるのか良くわからなかったように思います。ただもう颯爽と登場してきたバルバラを食い入るように見入ってただけです。黒ずくめの服装に小さな顔が光り輝いて眩しいほどでした。あ~、あ~!バルバラと目が目が目が合ったァ!微笑んでくれてるゥ!ただ、ただ、ただもう感激、没我状態!生涯最高の時を迎えたのです。嗚呼!これが恋というものなのか?いまだ醒めやらぬ恋の渦中にいつCAT-Oさんは幸せ者でっす。あははは。
バルバラの名声を大いに高めることになった「黒い鷲」《L’aigle noir》はインストの大曲に仕上げられこのアルバムの最後を飾ります。「バルバラ:レーグル ノワール インテグラル ステユデイオ 1964-1996/バルバラ:黒い鷲 1964-1996年スタジオ録音全集」を見事入手できましたら画像たっぷり使ってUPいたしましょう。では、チャオ★!

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