『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

佐伯祐三


『巴里に死す』佐伯祐三併映は!『悲喜劇 佐伯祐三真贋事件』




<郵便配達夫(1928)>

パリのうらぶれた裏町を憑かれたように描き続け、結核とともに狂気の淵に立ち、わずか30歳の若さで逝った天性の画家・佐伯祐三。パリでヴラマンク、ユトリロらの野獣派の巨匠の影響を受けながらも、パリ裏街の店先や広告などを素材に選び、量感あふれる、激情的な作風を確立。ヴラマンクとの邂逅は日本から持ち込んだアカデミスムとの訣別でもあった。
しかし、画家としての純粋さを追及してやまない壮絶な生きざまの裏面に隠された秘密があった?!
(中河与一『形式主義芸術論』昭和五年)
「赤い色を愛した、多少黒ずんだ。黄い色を愛した、毛糸のような。そして彼は、何よりも東洋人の強い黒を愛した。私は彼の絵を思ふと、彼が生きてゐる事をハッキリと感じる。彼はあの情熱にみちた赤と黄と黒の画面で私達に話しかける」



<カフェ・レストラン(1928)>

私が初めて佐伯祐三を識ったのは、大学を卒業して就職活動も就職もせずモノ書きの真似事のような事をしてた時代のことでした。アンダーグラウンドに身をおいていて長髪、挑発的なことばかりしていました。(笑)アルバイトのビラ配りをしていて偶然、佐伯祐三のアトリエを見つけた時からです。現在の新宿区中落合にアトリエ付の家はありました。目白駅の近くで、磯崎新の豪邸も近くにあったと思います。佐伯祐三がは大正から昭和初期に活躍した日本洋画界を代表する画家であることは知っていましたが、どんな絵を描く人なのか興味をそそられて図書館へ足を運び、大きな画集のページを捲りました。私が初めに好きになった佐伯祐三の絵が上の<郵便配達夫(1928)>です。まずは鮮明な赤と黒にうたれ、見開らかれた眼の強さに惹かれました。後に佐伯祐三が結核で病床にあり、喀血し完全に病床に就く直前の絵だということを知り、郵便配達夫は崩れかける体勢を懸命にもちこたえるように見えたのも頷けました。郵便配達夫というより老人の見開かれた眼には、佐伯祐三の生にたいする欲求、叫びが込められているかのようです。



<広告(ヴェルダン)(1927)>

佐伯祐三の描く巴里の裏街の絵は、まさに”巴里の絵”そのもの!
(横光利一)
「佐伯祐三の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違う違ふことの事実は、分かりきったことである。誰もそれに気付かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気付いた画家の一人である。
(中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」



<自画像 22歳 1920年>

【佐伯祐三】(さえき・ゆうぞう1898-1928)
1898年(明治31年) 大阪に生まれる。中学在学中から赤松麟作の画塾に通う。
1917年(大正6年)上京して川端画学校で藤島武二の指導を受けた。翌7年東京美術学校西洋画科予備科に入学。



<佐伯祐三のライフマスク 1925年>
163cmの身長、体重50キロほど。静かで蒼白な表情のなかに沈んだような眼をしていたという。

在学中にのちの妻となる池田米子(のちの画家、佐伯米子)を知り、1920年(大正9年)二十二歳で結婚。現在の新宿区中落合にアトリエ付の家を新築。
1923年(大正12年)美術学校卒業後、兄事する里見勝蔵を頼って渡仏。
ヴラマンクを訪ねて強い刺激を受ける。1924年(大正13年) パリ、オーヴェール・シュル・オワーズに<裸婦>を持ってヴラマンクを訪ねる。
「アカデミスム!」と批判を受け、この時の衝撃は生涯の指針となる。



<自画像(1917年 19歳)>

滞欧中の1925年(大正14年) 第18回サロン・ドートンヌに「コルヌドリ(靴屋)」「煉瓦屋」などを出品して入選。



<下落合風景 1926年>

昭和元(1926)年に帰国後、アトリエを設けた下落合周辺。
V字に交わる坂道の交差地点から広い空を背景に奥へと続く家並みが描かれ、空に向かって突き出す電信柱、垂直のラインを意識した構図が採用されており、新しい様式を見出そうとする意欲が感じられる。1926年(大正15年、昭和元)帰国。里見勝蔵、前田寛治らと「1930年協会」を結成。第1回展を開催。
同年第13回二科展に滞欧作を発表、「レ・ジュ・ド・ノエル」などで二科賞を受賞。 しかし、日本の風土が自己の画風に合わず、1927年(昭和2年)再度渡仏。1927年 第20回サロン・ドートンヌに入選。



『立てる自画像』



eastern youth 『旅路ニ季節ガ燃エ落チル』
世界一のオヤジ風袋バンド!坊主・角刈りで、ロッカーという風貌からは程遠い彼らの傑作アルバムのジャケ写にもなったぞ!



<ラ・クロッシユ 1927年>

パリに渡った佐伯を待ち受けていたのは、野獣派(フォーヴィズム)の巨匠ヴラマンクの「このアカデミック!」という一喝でした。その批判を受けた直後に描かれたという自画像。苦悶する佐伯はパレットを持って立ちつくす。ヴラマンクに「このアカデミック!」と一喝された夜、佐伯が泊った部屋は奇しくも狂気の画家ヴァン・ゴッホが34年前に息を引き取ったまさにその部屋であった。
以後パリ郊外に激しい心情表現を求めて彷徨し、やがてユトリロの街景の影響も受け、佐伯が見い出すのはパリの古い街並みやパリ庶民の生活の醸し出す哀愁でした。 結核の悪化に体力も弱まり、死の影におびえつつも描きあげたパリの場末の街景のなかに見られる沈鬱な叙情性には、その色彩の調和の美しさとあいまってわれわれ日本人の心に洗練された<パリの憂鬱>を歌い上げてくれるかのようです。



<ATGET>

佐伯祐三は明治期に西欧から伝わった洋画を完成した画家のひとりとして位置づけられている。パリで過ごし、パリをモティーフにした完成度の高い作品を描きながら夭折した。若くして異境の地で病死した悲劇的な短い生涯、激情的で、メランコリックな感情あふれる画風でパリの街景に独自の絵画世界を求めて描きつづけた。



<カフェのテラス(1927)>

(芹沢光治良「巴里に死す」~最も早く佐伯の画業を評価した文人)
「ああ、しかし、巴里とは何と魅惑的な都会でせう。(中略)ホテルの窓側に掛けて、ぼんやり外を眺めてゐると、巴里にゐるのだといふだけで目頭が熱くなった。雪も降ってはゐないし、霧もおりてはゐないが、垂れ込めた空に黄昏のやうにけむった街に、街路樹が枯れて形骸を寒々しくさらして、佐伯祐三の絵になっているのに、この和らぎは何処から感じられるのかしら。」



<ガス灯と広告 1927年>



<広告(ヴェルダン)1927年>



<人形(1925)>



<ロシアの少女 1928年>

室内での最後の作品のひとつが、トップの《郵便配達夫》であるが、佐伯にはもはや絵にサインをいれる気力すら残ってはいなかった。
「郵便配達夫」を書き上げてから、寝たり起きたりの日が続き写生に出るのもかなわぬようになっていた佐伯を訪れたロシア人のモデルは色鮮やかなロシアの祭りの衣装を着てきた。鮮やかな色彩に触発されたのか直裁で明快な力強い筆致が見られる。ロシア人のモデルはロシア革命で母と亡命した身の上を語り、この荒いタッチの絵を見て「悪いときには悪いことが続くものだ」と呟いたという。この言葉に暗示されたかのように間もなく佐伯の病状は日増しに悪化していった。肺結核に加えて、精神錯乱に陥ることがたびたび見られるようになっていた。



そのような重い病状をおして、佐伯はブーローニュの森で行き倒れるという失踪事件を起こしパリ郊外のエブラ-ル精神病院に収容されてしまう。病院に送られるとき、佐伯は米子に「さようなら。日本の皆さんによろしく。絵を持って帰り、悪いのは焼いてください」と言ったという。それが最後に妻と交わした言葉だった。
1928年(昭和3年) パリ郊外にて客死。享年30才。
6歳の娘、弥智子も2週間後、同じ結核で父の後を追う。




堂々内緒で公開!『悲喜劇 佐伯祐三真贋事件』
事実は映画より奇なり~ィ?イメージ画像ですので文章と相関関係はあれど直接の関係はございません。

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残念ながら佐伯祐三の絵には、美術史上に残る贋作騒ぎがありました。これは、岩手県で、佐伯祐三の180点もの未発見の絵が出てきたことからこの事件は始まります。これらは、仕上げられた絵ではなく、初期の段階あるいは未完成の絵と見られる油絵でした。佐伯祐三は元来速筆の人で作画が非常に早く、いわゆる素描やデッサン、下絵といったものが今まで少なく不思議がられていましたが、今回がそれにあたる物であったようです。故に、今までの佐伯作品とは全く印象が異なるものであることからの疑義だったようです。(修復して、枠に固定しなければ、たとえ名画であってもゆがんで見えるそうです。)それでも市場に出れば数億円の値がつく天才画家の作品が大量に出現したわけです。
私の好きな「郵便配達人」はこの中の一枚です。

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重要な疑惑は、夫より上手かったと言われる米子夫人が佐伯の絵に筆を加えていたのではないかという疑惑です。



【佐伯米子】(さえき・よねこ)

「....米子夫人がこの人の傍で、哀しいまでに美しいことが、心を揺すった。この人は若い画家らしく、無造作に粗末な黒い服を着て疲れた労働者そっくりだが、米子は貴婦人のように絹物の和服に美しい被服を着て、白足袋に草履をはき、左足が少し不自由なためか、黒塗りの杖で左脇を支えて歩いていた。それにエロチックな美がこぼれるようで、往きこうフランス人が目を見張り、必ず振り返って見たものだ。」(芹沢光治良)

「秀丸(佐伯の幼名)そのままの絵では誰も買って下さらないので私が手をいれておりますのよ。秀丸もそれをのぞんでおりましたし。 あなたもそのことをよくご存知でしょう。秀丸そのままの絵に一寸手をくわえるだけのことですのよ。こつがありますから私、苦労致しましたがのみこみましたのよ。それは見違えるほどになりますから。画づらの絵の具や下地が厚いものにはガッシュというものをつかい画づらをととのへ、また秀丸の絵の具で書き加えますでしょう。すこしもかわりなく、よくなりますのよ。.....秀丸(佐伯の幼名)はほとんど仕上げまで出来なかったのです。.....私が仕上げればすぐに売れる画になりますのよ。すべての絵を手直ししてきちんと画会をしたいのです。...。」
と、画家でもあった米子夫人本人が手紙で自分が加筆したことを何回も書いた手紙があり、この手紙は筆跡鑑定では米子夫人の真筆とされています。要は、売れるように妻の加筆した絵が真作で、米子と別居中に米子に知らせずに日本に送られ、70年以上も放置され、額装も修復されていない汚れた祐三自身の描いた絵が贋作とされているわけです。妻米子の加筆問題が明白となれば今まで佐伯作品として各地の美術館に収められていたものが疑惑品として美術館から画商に返却を求められる可能性があり、画商にとってこれは死活問題となりかねません。

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「今日朝、俺は離別を決めました。米子サンに リベツの事 云いました。  
俺のリベツは、俺の画を もっと良くするためです。米子サンから タブローのこと、口出しされないためです。荻須と千代子サンともへだてた 俺の仕事のためです。俺の命のためです。」
(祐三の千代子への置き手紙)

米子と別居し死期の近づいた佐伯祐三は、薩摩治郎八の妻であり、パリ社交界のアイドルであった千代子に恋をします。モンパルナスの同じアパートに住んでいた佐伯は、米子と暮らす三階から二階にある千代子のアトリエへ降りて独自の画風を模索していました。

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「荻須の事は心配ないと思います。前にパリに来たころの俺の画に良く似た タブロー描くのは米子サンが描いてはるからやけど心配ないです。荻須は頭のええ男やから、その内はっきりさせるでしょう。
自分のもの 描かねばいかん事に 気が付くやろから、そしたら米子サンに 自分でしらすと思う。それ迄 俺は気がつかん事がいいのです。荻須がええもん描いても、心配しないで下さい。荻須に負けたら、それは仕方ない事と思うています。」

そのころ、米子は弥智子を新居に置いたまま、モンマルトルの荻須高徳のアパートへ行ってしまっており佐伯は幼い智弥子の世話や千代子に頼む事になります。

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「郵便配達人」は、佐伯が病身をおしてブールヴアールの二階アトリエに行った時、たまたま郵便を届けに来た、髭の美しい配達夫に出会い、モデルを頼むことができたそうです。この「郵便配達夫」が米子によって絶筆とされていますが、実際は愛する薩摩千代子の肖像画であったようです。

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なんと佐伯、米子夫人、薩摩治郎八、千代子夫人、荻須高徳、藤田嗣治などなど、そうそうたる面々の人間模様というか相関が生々しくてスゴイ。佐伯の絵は米子さんが加筆してたとか、不倫じゅずつなぎ状態だったとか、さらに米子が祐三に毒をもっていたとか、稀代の毒婦だなんてワイドショーまがいのネタみたいで、まあびっくりてんこもりです。 w(゚o゚)w
ekkatosanngurasu
YOKO MY LOVE

「佐伯祐三の生涯は30年と4ヶ月たらずという短いものであり、さらに芸術家としての活動は5年にみたない一瞬の光芒に過ぎなかった。アカデミックなものを放擲してフォーヴィズムへ向かおうとする芸術家の苦闘は、時に闘病しつつ画業にむかい、この短時日に描いた作品数は400点をこえる異様な多作であったものと推定されます。確かに、佐伯祐三の画に対する米子加筆、創作が事実である可能性が高いが、こうした共同作業は佐伯の画業をおとしめるものではないと私は思います。
..........。」

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【芹沢光治良(せりざわ こうじろう1897-1993)】

平成5年3月23日歿 96歳
静岡県沼津市我入道に生まれる。東京大学経済学部を卒業したのちフランスに渡り、ソルボンヌ大学でも経済学を学んだ。1930年、「改造」の懸賞小説に『ブルヂョア』で当選し文壇に登場した。1925(大正14)年5月に農商務省を辞任し、夫妻で渡仏、ソルボンヌ大学に入学する。この渡仏時の船上で佐伯祐三を連れ戻しに行く兄佐伯祐正と知り合い、佐伯祐三夫妻と知り合うこととなった。
代表作に『巴里に死す』『神の微笑』などがある。
1965年に川端康成のあとを受け、第5代日本ペンクラブ会長となった。





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