『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”

2007/01/08(月)21:41

太地喜和子RETURNS!其ノ壱『近松心中物語』■後編■

ART<千年の愉楽>(58)

太地喜和子RETURNS!其ノ壱『近松心中物語』■後編■ 特集:太地喜和子 第一弾『いい女列伝 伝説の名女優!太地喜和子』も合わせてご覧ください。 Katteni Special Thanks ! To Kishin Shinoyama. 美しい。彼女こそは「役者という病気」なのだ。 ~和田勉「女優誕生」より。 <アートディレクター 辻村寿三郎(ジュサブロー)> 1933年11月、満州、錦州省朝陽に生まれる。 人形師、着物デザイン、舞台、映画等の衣裳デザイン、演出、脚本、アートディレクター等多岐に渡り活躍。22歳で上京、前進座の河原崎国太郎氏の紹介で小道具制作の会社に就職。26歳で独立し、幼い頃よりの趣味であった創作人形を一生の仕事と決意。1974年NHK総合テレビ「新八犬伝」の人形美術を担当、一躍注目を浴びる。その活動は国内のみならず、数回に及ぶ海外公演、様々な作品でヨーロッパ、アメリカ等、海外での評価も非常に高い。ロックミュージシャンや他のアーティスト達にも大きな影響を与え、総合的なアーティストとして各方面より大きな注目を集めている。   ■装置 朝倉摂■舞台美術家 1922年東京生まれ。伊藤深水に師事し「働く人」で、1942年上村松園賞受賞。その後舞台美術を中心に活動。彼女の独創性と表現力は海外でも高く評価され、これまでに五百本以上の芝居の舞台美術を手がけてきた。 彫刻家朝倉文夫の長女。幼時より才能教育を受け、父朝倉文夫の方針で学校には行かずに全部家庭教師で通した。 昭和16年第4回新文展に初入選。17年新美術人協会に参加。戦後26年第15回新制作展に入選して同会会員となり、以後同展に「求める人々」などの人物群像を発表するが、のち抽象的作風に転じる。この間、28年に伊東深水の門下として日本画で第3回上村松園賞受賞。日本国際美術展、現代日本美術展に毎回出品。45年新制作協会退会、ロックフェラー財団の招きで渡米。また60年代より舞台美術の仕事を始め、以後、前衛劇からオペラまで幅広く活躍。55年「近松心中物語」「盟三五大切」などでテアトロ演劇賞を、61年「にごり江」で芸術祭賞受賞。平成15年東京・北千住に16年秋開館予定の劇場"シアター1010"の芸術監督に就任。その他の代表作に「明治の柩」「リア王」「越前竹人形」「ヤマトタケル」など。著書に「朝倉摂のステージ・ワーク」(全2巻)、「朝倉摂舞台空間のすべて」「朝倉摂のステージワーク1991-2002」がある。イラストレーター、装丁家としても活躍。桑沢デザイン研究所教授もつとめた。 ■世界のニナガワ■ 「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」 1935年10月15日、埼玉県川口市生まれ。 55年に劇団青俳に入団し、67年に劇団現代人劇場を創立。俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り演出家に転向し、アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビュー。69年『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。72年演劇集団「櫻社」結成、74年同劇団を解散後、『ロミオとジュリエット』で大劇場演出を手掛けるようになった。70年代半ばから商業演劇に活動の場を移し、大劇場でのダイナミックな演出で話題作を次々と発表。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を舞台の世界に惹きこむことを得意とする、現代日本を代表する演出家のひとり。その演出作品は国内外で評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる。また、短気であり、妥協と甘えを一切許さない俳優指導の厳しさでも知られ、世間一般的には「灰皿を投げる演出家」と厳しいスパルタ指導のイメージが強い(現在は煙草を吸わないため、灰皿は投げないが、怒号は飛ぶ)。以来、名実共に演劇界の第一人者として活動し続け、近年も、98年から始まったシェークスピアの全作品上演計画、上演時間が10時間半という昨年の『グリークス』の公演など話題に事欠かない。 また、83年の『王女メディア』ギリシャ・ローマ公演を皮切りに、毎年海外遠征を行い、ヨーロッパをはじめアメリカ、カナダなどで高い評価を得ている。 ことに近年では、96年『夏の夜の夢』、97年『身毒丸』、98年『ハムレット』と、連続したロンドンでの公演が話題を呼び、さらに99年から2000年にかけてはロンドンとストラッドフォードで、ロイヤルシェークスピアカンパニーと共に、『リア王』を長期上演した。 88年『近松心中物語』の第38回芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞歴多数。 92年には、英国エジンバラ大学名誉博士号を授与された。 また、84年に始めた「蜷川スタジオ(ニナガワカンパニー)」では、若手の演劇人たちと共に、積極的に実験的な演劇作品を生み出し続けている。 2006年彩の国さいたま芸術劇場で55才以上の演劇集団「さいたまゴールドシアター」創設。  「蜷川の舞台には強烈な色彩、強烈な舞台造形、強烈な人物描写、そして信じられぬほどの優しさ、繊細さ、ここにはヨーロッパ・アメリカ演劇が失ってしまったすべてがあります。あななたたちの演劇には真の世界性を獲得しています。・・・。」 (「別冊太陽 現代演劇60’s~90’s」) 【受賞歴】 1978(S53) 第4回菊田一夫演劇賞 1982(S57) 第37回芸術祭大賞 1986(S61) 第14回テアトロ演劇賞 1988(S63) 第38回芸術選奨文部大臣賞 1988(S63) 英国エディンバラ大学・名誉博士号 1997(H09) 第4回読売演劇大賞最優秀演出家賞 1999(H11) 第20回松尾芸能賞 2000(H12) 第41回毎日芸術賞 2000(H12) 第70回朝日賞 2000(H12) 第35回紀伊國屋演劇賞『グリークス』の演出に対して 2001(H13) 第8回読売演劇大賞最優秀演出家賞『グリークス』『テンペスト』 2001(H13) 紫綬褒章 2002(H14) 名誉大英勲章第三位(CBE) 2004(H16) 第3回朝日舞台芸術賞グランプリ『ペリクリーズ』 2004(H16) 文化功労者 2005(H17) Walpoleメダル受賞 2005(H17) 第53回菊池寛賞 歌舞伎座7月公演「NINAGAWA十二夜」において、シェイクスピアと歌舞伎を見事に融合させた画期的な舞台を創造。歌舞伎の可能性を飛躍させた演出に対して。 2006(H18) 埼玉県芸術文化振興財団芸術監督就任 2006(H18) 第5回朝日舞台芸術賞特別大賞 2006(H18) 第13回読売演劇大賞 大賞・最優秀演出家賞『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』『メディア』『NINAGAWA十二夜』『天保十二年のシェイクスピア』 【映画監督作品】 1980(S55) 『海よ、お前が-帆船日本丸の青春』 1981(S56) 『魔性の夏』 松竹 2003(H15) 『青の炎』 東宝 2004(H16) 『嗤う伊右衛門』 東宝 【テレビドラマ監督作品】 1990(H2) 『水の女』 テレビ朝日 1990(H2) 『風ものがたり』 関西テレビ 1997(H9) 『三番テーブルの客』 フジテレビ 【著書】 1982(S57) 『BGMはあなたまかせ』 サンケイ出版 1989(H1) 『Note 1969-1988』        河出書房新社 1993(H5) 『千のナイフ、千の目』 紀伊國屋書店 1998(H10) 『蜷川幸雄の子連れ狼伝説』   小池書院 1999(H11) 『蜷川幸雄・闘う劇場』      NHKライブラリー 2002(H14) 『Note 1969-2001』増補完全版  河出書房新社 2002(H14) 『演出術』 紀伊國屋書店 2002(H14) 『反逆とクリエイション』 紀伊國屋書店 それは恋 近松心中物語より (歌 森進一 作詩 秋元松代 作曲 猪俣公章) 朝霧の 深い道から 訪れて 私をとらえ 夕もやの 遠い果てから 呼びかけて 私をとらえ あふれさせたもの それは恋 わたしの恋 逢う時は 姿も見せず うつつなく けれど確かに 言葉なく 名前も告げず ひそやかに けれど確かに よみがえる 愛のまこと あふれさせたもの それは恋 わたしの恋 ある時は 心許なく 疑いに 思い乱れて ある時は おそれにゆらぎ 悲しみに 我を忘れて その故に 愛の祈りを あふれさせたもの それは恋 わたしの恋 流水落花、変転定めなき世とは申しながら、名女優、太地喜和子さんの死を心より悼みここに哀悼の意を表し御冥福をお祈りいたします。君の在りし日を偲びつつ、御霊の安らかならんことをお祈り致します。 太地喜和子RETURNS!其ノ壱『近松心中物語』■前編■は1/8に■中編■は、1/7にございます。

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