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カテゴリ:憂我なる<J-POP&FOLK>
○o。女ディランと呼ばれた女!中山ラビ■前編■ 。o○ 「ディランの歌とか、ビート派の詩とか、私のまったく知らない世界をぱっと見せてくれたの。すごくカルチャーショックだった。何かよく分からないまま、恋に突っ込んでいった」(中山ラビ 特集【OnGen Music Lounge】より) 「人は少しづつ変わる」(中山ラビ) 人は少しづつ変わる これはたしかでしょう 私を育てた季節が 変わるよに 春には芽がふいて 夏にはこんもりみどり濃く 秋は枯葉舞い 冬は化石のよう そして あなたの心も変わったね 石のように冷たいのです 人は少しづつ変わる これはたしかでしょう ふたりが建てた家が 変わるよに きしむタタミの裏表 にぎやかな茶の間 つぎはぎの窓ガラス 雨漏りのトタン屋根 そして あなたの心も変わったね 訪れる人も とだえたのです 人は少しづつ変わる これはたしかでしょう 月にうつす川が 変わるよに 道ばたに水がわき 岩をまわって流れ よどみは泡立ち ひでりの川原 そして あなたの心も変わったね 「ボブ・ディランは高校の先生が授業で聞かせてくれた。衝撃だった。今まで聞いたことのない歌で、自分のことをちゃんと歌っている人だと思った。ビートルズの来日公演とかも見に行ってるんですけど、そんなにのめりこまなかった。この後、岡林信康を聞いて、ディラン以上の衝撃を受けるんです。なんせ日本語で歌ってるし」(中山ラビ 特集【OnGen Music Lounge】より) 1969年8月、最後のフォーク・キャンプ・コンサートが円山公園音楽堂(京都市東山区)で開かれた。このコンサートに東京から駆けつけ、初参加したのが、女性シンガーソングライターの草分け的存在とされる中山ラビ。日本語に訳されたボブ・ディランの歌などを披露した。東京の高校卒業後中山容氏を追って京都に移り住み、関西のフォークソングコンサートの常連として活躍、岡林信康、加川良等と京都でフォークを歌っていた。ディランのものを中山容の詞でよくうたい、硬派の女性シンガーソングライターとして注目される。中山と言う名前は中山容さんからのもの。 <BLOWIN'IN THE WIND /風に吹かれて> どれだけ道をあるいたら 一人前の男としてみとめられるのか? いくつの海をとびこえたら 白いハトは 砂でやすらぐことができるのか? 何回弾丸の雨がふったなら 武器は永遠に禁止されるのか? そのこたえは、友よ、風に舞っている こたえは風に舞っている 何度見上げたら 青い空が見えるのか? いくつの耳をつけたら偽善者は 民衆の叫びがきこえるのか? 何人が死んだら わかるのか あまりにも多く死にすぎたと? そのこたえは、友よ、風に舞っている こたえは風に舞っている 幾年月 山は存在しつづけるのか 海に洗い流されてしまう前に? 幾年月 ある種のひとびとは存在しつづけるのか 自由をゆるされるまでに? 何度ひとは顔をそむけ 見ないふりをしつづけるのか? そのこたえは、友よ、風に舞っている こたえは風に舞っている これはボブ・ディランが1963年に発表したセカンドアルバム「フリーホイーリン」で、21歳のディランが当時の恋人スージー・ロトロと冬のグリニッジビレッジ西4丁目を歩く姿を撮影した写真です。 『ボブ・ディラン全詩集/1974年版』・『ボブ・ディラン全詩302篇/1993年版』片桐ユズル・中山容 訳 <中山 容> 1931~1997 翻訳家、詩人。所謂「関西フォーク」と呼ばれた、民衆の歌としてのフォークムーブメントの意志を熱心に説き、日本におけるフォークソング運動の陰の立役者のひとりだった。晶文社からオルタナティブなフィクション、ノンフィクションを多数、翻訳し、(『よい戦争』『仕事!』『ホーボー アメリカの放浪者たち』『就職しないで生きるには』)また、片桐ユズルと二人で、ボブ・ディランの全作品の訳詞集を完成させ、中山ラビをはじめとするフォークシンガーたちに提供したことで知られる。米国の「ビート詩人(Beatnik)」達による自作詩朗読運動の影響を受け、有名な「ビート詩人」達の詩を翻訳したり、また日本で朗読会を企画したりしていた。自身も詩を書く詩人でもあった。 1972年、ポリドールよりアルバム「私ってこんな」(細野晴臣・林立夫・岡林信康という豪華なアーティストが参加)にてデビュー以来、「ラビ ひらひら」(1974年)、「ラビ 女です」(1975年)など、名盤と呼ばれる作品を次々にリリース。 “トランザム”をバック に全国25本のコンサートツァーをこなすなど、発表する作品はもちろん、意欲的なライブ活動においても熱狂的なファンに支持される。永遠性、普遍性を持った数々の作品は当時の音楽シーンにおいて高い評価を受けた。 以降、加藤和彦をプロデューサーに迎えた「MUZAN」(1982年キティ)「SUKI」(1983年キティ)「甘い薬を口にふくんで」(1983年キティ<イタリア・ローマ録音>)など注目作品を発表すると同時に、桃井かおり、梅沢富美男、増田けい子、桂木良子などのアーティストにも楽曲を提供し話題となる。 ラビをビッグネームに、、、と、加藤和彦のプロデュースのもと、今迄のイメージを大きく変えるためスタイリスト、メイキャップアーティストをたて女流カメラマンによるジャケット撮影を行ったり、朝倉摂演出のPARCO劇場でのコンサートや、イタリア録音など大掛かりなプロジェクトが実現されたが、結果がついてこなかった。ラビも後戻り出来なかったのだろうか、歌う事をやめた。1987年11枚目のアルバムとなた「BALANCIN'」(CBSソニー)を発表直後、活動を停止、長期に渡る活動休止期間に入る。 「挫折したのよ。何の未練もなく、きっちりやめた。やり切ってはないけど、激動の時代、せいいっぱい生きたもの。それが、10年くらいたって、自分が歌うきっかけになった中山容さんが亡くなって、追悼会で1曲歌わざるをえない状況になって、周りから‘昔よりいいじゃない’って言われて・・・。自分でも、アラ、いいじゃないって(笑)。また時代が変わったなって、歌って感じたの。80年代って、私みたいな歌って、逆に現実感がなかったのよ。 挫折があっての今、頭に身体がついたって気がする。今、やっと自 分の歌になったんだって思う」(中山ラビ 特集【OnGen Music Lounge】より) そして97年、彼女に絶大な影響を与えて来た詩人中山容の死去。その追悼コンサートに姿を現わした。 女ディランと呼ばれた女!中山ラビ■後編■は前のページ(6/9)にあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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実は意外かも知れないのですがちゃんと聞いた事がないのです。いろいろ勉強になります。
(2007年07月15日 07時12分23秒)
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