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憂我なる<FRENCH LIFE>

2008年02月15日
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Henri Salvador & Boris Vian

【追悼】フランス・シャンソン界の大御所アンリ・サルヴァドール逝去
2008年2月13日、動脈瘤破裂の為パリの自宅で逝去。享年90歳。心よりご冥福をお祈り致します。遺作となってしまった2007年の「Reverence レヴェランス~音楽よ、ありがとう!」のリリース後、9月に最後の来日公演を行い、12月にはパリで現役最後を告げるコンサートを開いていた。



”フランスの国民的エンタティナー!
フランス・シャンソン界の長老、巨匠アンリ・サルバドール89歳!”
粋、伊達、色男、ダンディ、ヒップ…。いまもなを艶やかな“声”!アンリ・サルヴァドールは太陽のような人。「ひゃーひゃっひゃっひゃっ」笑いで幸福を振り撒くおフランスの花咲爺!
世界でいちばんハッピーでラブリーでチャーミングなじいちゃん歌手!



フランスの国民的歌手、アンリ・サルヴァドールは1917年7月18 日、ブラジルの北隣フランス領ギアナ・カイエンヌに生まれの89歳の現役歌手。その歌声は常に甘美で、軽やかで、しかしながらしっかりと聴き手の心をつかんで離さない。父親はスペイン系フランス人でフランスの収税官吏、母親は現地人のグァドループ人という、クレオ-ル(混血)として生まれる。7歳のときに一家揃ってパリへ移住。それを知るとなるほど、彼の音楽から感じられる大らかなラテンの血とパリの洗練の融合ぶりに納得させられるものがある。



11歳のとき、デューク・ エリントンとルイ・アームストロングに夢中になり、若くしてドラムとギターをマスター。16歳にしてキャバレーで初舞台を決めた後は、ジミーズ・バーのレギュラー・メンバーにプロの道に入る。アンリはここでジャズヴォーカルを歌いながら、持ち時間のなかにスケッチ(寸劇)を挟むことを思いつく。(例えば、彼の笑い芸のレパートリーの一つ「ジン」は、アメリカ人のアナウンサーがジンを飲んで、どんどん酔っぱらっていくにしたがって、ろれつが廻らなくなる様子を演じたもの。客席の方に向かって吐き出すという絶品芸。)



そしてここで、あのギターの名手ジャンゴ・ラインハルト(1910年生まれのジプシー・ギタリスト。)と出会い、雷に打たれたような衝撃を受ける。すぐさま、独学でジャンゴ・ラインハルトのギタ-奏法(ポジション・コードプログレッション・ハーモニーetc)を盗みまくってその奏法をマスターした。彼のグループへ誘われたこともあったという。



『リゴロ』
個性派ぞろいのフランス音楽界で異彩を放つ国民的歌手,アンリ・サルヴァドール。彼が若かりしころに発表した迷曲・珍曲集。冗談なのかマジなのか!?エスプリをはるかに通り越したラブリーな笑いが満載。「リゴロ/Rigolo」たは「滑稽」とか、「オモシロ」という意味。フランス本国でも未CD化の多い"Disque Salvador"~"Rigolo"時代のレア曲をギッチリと詰め込んだ日本独自の編集によるコンピレーション・アルバム。

 

 

1941 兵役を終了、再び音楽の道へ 。レイ・ヴァンチュラの招聘を受けて彼のオーケストラにギタリストとして加入し、そのまま南米へのツアーに旅立つ。しかし、第二次世界大戦は激化し、ナチス・ドイツによるフランス占領の影響で、楽団は3年間もの間、南米に留まる事になった。その間に、アンリはマンボ・カリプソなどのラテンリズムを自分のものとしていった。1945 帰国 。そんな経緯でフランスへのサンバの紹介者となったのも彼だった……。



非常に多芸なサルヴァドールだけに、タップダンサー→歌手→作曲家→ギタリストと活躍の場は広いが、彼の作る曲、そして歌声はどれも一貫してロマンティックで慈愛に満ちている。ジャズの基本とボサ・ノヴァの清らかな色香が織り成す、どこか懐かしく深呼吸のできるサウンド。御年80歳を軽く超えていながら(だからこそ?)、惚れ惚れするほどの男っぷりで聴き手を抱擁してくれるのだから、嬉しいではありませんか。



1950年、パリのア・ベ・ゼ劇場でのレヴュー "Paris S'amuse"で出演中のある夜、アンリは最前列に座っていたうっとりするほど美しい白い服を着た女性に心惹かれる。彼女ジャクリーヌ・ガラバディアンは毎晩欠かさずやって来た。しかし、一向にサインを求めに楽屋を訪れる気配がない。一週間後、アンリはドアマンのフランソワに、彼女を楽屋に連れてくるよう頼んだ。二人きりになった時、アンリは言った。「あなたを32年間待っていたんですよ」。ジャクリーヌ・ガラバディアンとアンリは1950年1月24日に結婚をする。
1976年、四半世紀の長きに渡って公私共に苦楽を供にして来た最愛の妻、ジャクリーヌを亡くす。



『ジャズ! ベスト・オブ・バークレイ・イヤーズ』
オリジナル曲の大半を、当時交流の深かったボリスヴィアンが作詩している。



1946年当時のパリのダンス・ミュージックは、いわゆるニューオリンズ・スタイルのジャズで、戦後、パリの解放とともにアメリカ軍がどっと入ってきて、それと同時にアメリカのポップ・ソング/ダンス・ミュージックが流れ込み60年代はR&Bでもってダンスをしていた。アンリは歌手転向後の50年代中頃には詩人でアメリカのハードボイルド小説、SF、ジャズをこよなく愛するボリス・ヴィアンやミッシェル・ルグランらとコミカルなフランス産R&Rを作り、話題を集める。1956年に発表された、フランスで初めて”ロック・アンド・ロール”を冠した「ロック・アンド・ロール・モップス」を発表。バンド名は、ヘンリー・コーディング(アンリ・サルヴァドール)&ヒズ・オリジナル・ロック・アンド・ロールボーイズ!作詞のヴァーノン・シンクレアはボリスヴィアン、作曲のミグ・バイクはミッシェル・ルグラン。

 

ボリス・ヴィアンはその後も、フィリップス社で音楽ディレクターの職に就き、あからさまな反戦歌「脱走兵」をリリースし、放送禁止にされながらもヒットさせ、また自らも作曲・作詞、しまいにはアンリ・サルヴァドールとのデュオで自作のロックンロール「強烈往復ビンタ」をヒットさせ二人の本格的なコラボレーションが始まる。とにかくフランスにおけるジャズを語るにとってボリス・ヴィアンという存在をぬきにしては語れない。「きれいな女の子との恋愛・・それとニュー・オルリンズかデューク・エリントンの音楽だ。その他のものはみんな消えちまえばいい」(『うたかたの日々』より)という有名な言葉も、ヴィアンのジャズへの憧れを表している。彼はトランペット奏者としてジャズの支持し、またフランスにおいてジャズの鑑定人・紹介者として活発な活動を行なった。アメリカからやって来たジャズは当時最新先鋭なる思想、実存主義によく似合った。ディキシーランド・ジャズからビーパップ、さらにハードバップへと、モダンへの革命期をたどるジャズはフランスのパリ、サンジェルマンでその完熟を果たした。ジャズの持つフリーでヒッピーなパワーがナチスによるパリ占領やその解放のレジスタンスの精神とジャズのインプロヴィゼーションとが根源的に結びついた。

Boris Vian



ボリス・ヴィアン (Boris Vian)

『人間、生活の心配がなければ創作するのはやさしいことだ。だが利子生活者でもない以上、精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるものではない。それがいやならほかの仕事をすることだ。しかしそうなるとまた、いろいろ不都合が出てくる。数種の職業を持っていると、アマチュアというレッテルがつく。だがしかし、その世間でいうところのアマチュアが、数種の職業においてそれぞれプロであるとこいうこともありえるのだ。』



ボリス・ヴィアン(1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの作家、詩人である。ヴィアンは1946年からの約十年間、当時フランスを代表するジャズ雑誌だった“JAZZ HOT”誌に無償で評論、ニュース記事、エッセイ等を書き続けた。セミプロのジャズトランペット奏者としても名をはせ、余技として歌手活動も行った。少女クロエの肺に睡蓮の花が咲いてしまう『日々の泡(L'Écume des Jours 曽根元吉訳)』(または『うたかたの日々』伊東守男訳)は、「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品」(レイモン・クノーの言葉)と言われて読み継がれている永遠の幻想青春小説、砂漠に鉄道を通す物語『北京の秋』は、ヴィアンによれば「北京」にも「秋」にも関係ないから『北京の秋(L'automne a Pekin)』というタイトルで、前衛的な作風の小説で知られる。1940年代後半に、脱走兵の黒人作家と称してヴァーノン・サリヴァンのペンネームで通俗的で暴力的なハードボイルド小説を執筆していたことでも有名である。ジャズ批評やアメリカ文学の紹介などの分野においても顕著な功績を残した。彼は400曲にものぼるシャンソンを残した。「Le Déserter/脱走兵」という反戦歌を歌って放送禁止になった。ヴィアン自身は、心臓疾患(心臓大動脈弁閉鎖不全症を抱えた病人であった。)のため徴兵を免れる。さすがにセルジュ・ゲンズブールの師匠である。







最終更新日  2008年02月15日 17時47分51秒
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Henri Salvador & Boris Vian


CD『ジャズ・ア・サンジェルマン』廃盤
フランスVIRGIN制作のクラシック・ジャズのカヴァー集だが、タイトルにサンジェルマン・デ・プレとある如く、50年代のサンジェルマンの実存主義者、ザズー(フランスのビートニク)達が愛好した当時のオールド・ジャズを中心に選曲されている。なんと!ボリス・ヴィアンの歌う「僕はスノッブ」が収録されている!他、曲目リストをじっくりご覧あれ!
<曲目リスト>
1. サマータイム(アンジェリック・キジョ)
2. 陽気なブッチャーたち(キャサリン・リンガー&レネゲイド・ブラス・バンド)
3. ラヴァー・マン(CHINA)
4. ウォーターメロン・マン(ディー・ディー・ブリッジウォーター)
5. アイル・ビー・シーイング・ユー(フランソワーズ・アルディ&イギー・ポップ)
6. あとには何もない(ザ・ジャズ・パッセンジャーズwithデボラ・ハリー)
7. ジャヴァネーズ(ジャッキー・テラソン)
8. ブラック・コーヒー(パトリシア・カース)
9. ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド(プリンセス・エリカ)
10. ラウンド・ミッドナイト(レ・ニュビアン)
11. 悩みのたね~愚かなり、わが恋(ジェーン・バーキンwithジミー・ロウルズ)
12. キャラヴァン(ブリジット・フォンテーヌ)
13. ソフィスティケイテッド・レイディ(エリ・メデイロス)
14. 僕はスノッブ(ボリス・ヴィアン)





 『サルヴァドールからの手紙』

アンリ・サルヴァドール2000年の現役復帰作!なんと!このアルバム『サルヴァドールからの手紙Chambre Avec Vue』はフランス国内では50万枚を超える売上を記録、全世界で200万枚のセールスを記録する大ヒットに!同時に『Victoires de La Musiques(←フランスにおけるグラミー賞)』で、「アルバム・オブ・ジ・イヤー」と「アーティスト・オブ・ジ・イヤー」の2つを獲得している。
フランスには“バカンス・ミュージック”というジャンルがあるそうな。 まさにそんな余裕綽々な、ウイットに富んだ名作。聴くものを抱きしめ優しく愛撫するかのような、艶やかな声!かのカエターノ・ベローゾさえもオマージュを捧げている。トゥーツ・シールマンス、フランソワーズ・アルディ(アルディ自身もアンリの大ファン!)も参加。



 

(左)『PERFORMANCE!~ライヴ・アルバム』
 2003年3月にCanal+というフランスのテレビ局のスタジオで行われたライブ録音盤!84歳のアンリが放つライヴ・アルバム。ジャズ、ボサ・ノヴァ、ソウルを渡り歩いた男の歴史がこの1枚に凝縮、楽園のフレンチ・ヴォーカルを聴かせる。ビレリ・ラグレーン、ロラン・ヴルジー、リサ・エクダールがゲスト参加。
 
(右)『愛しい君との愛しい時間』

「私も敬愛するアンリさんの新作は、なんて軽やかでロマンティックなんでしょう。愛とユーモアに満ちた本当に素晴らしい作品です。」小野リサ



アンリ・サルヴァドールが86歳にして放つアルバム。アンリさん小野リサのアルバム『DANS MON ILE(ダン モニール) 』にもデュエット参加して本国フランスでも話題になりました。





2002年、9月27日~29日渋谷・シアター・コクーンで奇跡の来日公演!
85歳とは思えないほどの軽快で伸びのある、優しい声。まさに”魔法の粉”をふり掛けられたみたいに観客は魅了されました。







輸入DVD『BONSOIR AMIS』
2004年11月16日、パレ・デ・コングレで行われたライヴを収録したDVDです。特典として、舞台裏映像、ビデオクリップ収録のお宝盤!







































「メドラノ劇場に出演していたラムというコメディアンが大好きで、毎日のように通って、客席で他の誰よりも大声を出して笑っていたんだ。そしたらある日、そのラムが私に目をつけて楽屋に呼んでくれた。そして、キミの笑い声は素晴らしい、キミには人を幸せにする才能がある、って言ってくれたのさ」







最終更新日  2008年02月15日 16時59分38秒
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Henri Salvador & Boris Vian



DVD『想い出のサンジェルマン』
【原案】 ボリス・ヴィアン「サンジェルマン・デ・プレ入門」 【監督】:ジャック・バラティエ【撮影】:エチエンヌ・ベッケル

ジャズとシャンソンが出会う街、サンジェルマン・デ・プレに過ぎし日々ー

ナチスによるパリ占領やその開放により、戦争から解放された人々が自由を謳歌した40年代のパリ6区のサンジェルマン・デ・プレ。ジャズにわき、ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュら実存主義者たちがナチス占領下のパリでサンジェルマン・デ・プレに避難場所を求め地下酒場で気炎をあげ、多くの知識人、文化人、ジャーナリストたちを巻き込んで、打倒ファシズムの原動力になっていた。サンジェルマン・デ・プレは自由を愛する者の集まる聖地であった!



サンジェルマン・デ・プレ40年代の「うたかたの日々」。その中心地は穴蔵酒場「タブー」。その仕掛け人は”ルネッサンス・マン(万能の人)”ボリス・ヴィアン!1947年、17世紀に造られた地下貯蔵庫(カーブ)を改造して、プライベート・クラブを開店しサンジェルマン・デ・プレを流行の街に仕立てあげたのであった。この店には当時の有名人たちが毎晩のように集まり、飲めや歌えの大騒ぎがくりひろげられていた。タブーには、支配人もいなければ、部屋に敷き詰められた高級絨毯も、夜会服もなかった。ダンスホール全盛の時代。ジャズが聴けるというだけでも珍しく、しけた椅子と机だけがおかれた、がらんとした穴蔵だったけれどもそのそっけなさが受けた。タータン・チェックのシャツにバスケット・シューズといういでたちのエクジスタンシャリスト(実存主義者)と呼ばれる若者(穴蔵のどぶネズミとよばれていた)ばかりが、毎夜、ボリスヴィアンのトランペットに浮かれて踊っていた。


-エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」

ヴィアンは十代の頃から熱烈なジャズ・フリークであり、兄弟たちとジャズ・バンドをはじめ、トランペットに夢中になった。22歳の頃にはクロード・リュテというクラリネット奏者の楽団に入ってジャズに興じた。彼の演奏は十分プロとしてやっていけるくらいでこの映画でも再三、トランペットの演奏シーンが観られる。1949年さらにヴィアンは、もう一つのカーブ「クラブ・サン・ジェルマン」を開店、チャーリーパーカー、マイルスディヴィス、シドニー・ベシェらが素晴らしい演奏を繰り広げられていたのだった。こんな、カーブの喧騒に満ちた風景と、ロックに取って代わられた60年代の同地区と対比させながらつづったジャック・バラティエ監督のドキュメンタリー作品です。戦後のパリの穴倉で、飲んで、踊って、愛し合う…パリの才人、芸術家が集まるサンジェルマン・デ・プレの最も活気に溢れていた時代の当時の映像で構成された貴重なドキュメンタリー。サルトル、ボーヴォワール、カミュ、メルロ=ポンティ、コクトー、ピカソ、クノー、プレヴェール、ツァラ、ブルトン、アルトー、ジュネ、グレコ、バディム、エリントン、マイルス…そしてヴィアン!ジュリエット・グレコは、マイルス・デイヴィスのロマンスも、サンジェルマン・デ・プレ、それは魂の村。戦後のパリを彩ったサン=ジェルマン=デ=プレの狂躁の日々が甦る。


-エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」



「脱走兵」

大統領閣下 お手紙を差上げます
時間があれば 読んでいただけるでしょう

私は今 令状を受取りました
水曜日の夜までに 戦地に発て、と

大統領閣下 私は 戦争はしたくありません
可哀相な人たちを殺すために 生まれてきたからではないからです

閣下を 怒らすつもりはありません 閣下に 申し上げなければなりません
私は決心しました 脱走しよう、と

生まれてから 私は 父の死をみて
兄弟たちが出征するのをみて 子供たちが泣いているのをみました

私の母は ひどく苦しみ 今では墓の下にいます
爆撃も気にせずに ウジ虫も気にせずに

私が捕虜だったとき 私の妻を盗まれ
私の魂を盗まれました それに 私のいとしい過去のすペてを

明日の朝早く死んでしまった歳月に
門前払いをくわせるつもりです 私は旅に出ます

フランスの道端で 物乞いをして暮します
ブルターニュ地方からプロヴァンス地方まで 私は人々に訴えます

服従を拒むんだ 戦争を拒むんだ
戦争にいってはいけない 出征を拒むんだ

血を流さなければいけないのなら あなたの血をどうぞ
閣下は 偽善者ですね 大統領閣下

私を追跡するのなら 憲兵たちに伝えて下さい
私は何の武器ももっていないことを
そして 撃ち殺して構わないということを

 

『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』(1946年)
監督:ミシェル・ガスト 脚本:ボリス・ヴィアン 撮影:マルク・フォサール 音楽:アラン・ゴラゲール 
出演:アントネラ・ルアルディ/クリスチャン・マルカン/ポール・ゲール/フェルナン・ルドー/ルナート・ウエール

ボリス・ヴィアンがアメリカ人黒人作家ヴァーノン・サリバン作として発表した小説が原作。この偽名で売れる小説としてアメリカンポルノを3週間で書き上げる。外見は白人にしか見えないが、その実は黒人の子である主人公の無軌道な日々と、白人のセックス・フレンドたちに自らのルーツがばれてしまい、殺人を犯すまでを描いたスキャンダラスな物語。これが爆発的に売れ、スキャンダルとなり発禁。訴訟にまでなり、公然猥褻罪により10万フランの罰金刑。
ボリス・ヴィアンの肩書きを並べてみると…
エンジニア技師、家具デザイナー、自動車修理工、自動車レーサー、映画俳優、画家、ナレーター、ジャズ・トランペッター、音楽評論家、文芸評論家、ジャーナリスト、SF研究家、DJ、イベント・オーガナイザー、音楽プロデューサー、レコード会社のディレクター、作詞作曲家、歌手、詩人、小説家、映画監督、オペラ・バレエ・演劇・映画の脚本家、翻訳家、ペテン師、遊び人(サンジェルマン・デ・プレのプリンス)、反権力思想煽動家。数多くの顔を持った男ボリス・ヴィアン。彼が動き回った軌跡はジャンルの壁を越えていた。ただ、ヴィアンは、「私は実存主義者ではない。事実、実存主義者であれば実存は本質に先立つ。私にはその本質がないのだ」という発言にもあるように、サルトルの実存主義とは一線を引き、あらゆる主義、運動から自由であろうとしていたのです。

 

ルイ・マルは、映画「死刑台のエレベーター」が完成し、さて音楽をどうしようかというその時に、自身のクインテットを一旦解散したマイルス・デヴィスが単身パリに来ているという事を知り、友人であるボリス・ヴィアンに紹介を頼んだのでした。マイルスは49年5月に初めてパリへ渡り、ジュリエット・グレコと激しい恋に落ち同棲生活を送っていた。マイルスは映画の試写を見て「やる気」になり、当時「クラブ・サンジェルマン」で演奏していたヴァルネ・ウィラン以下4人をピックアップして録音する事になったのです。その録音もまた画期的なものでした、スタジオで映画の画面を流し、その画面を見ながら即興演奏し、録音していったのです。映画「死刑台のエレベーター」とマイルスの音楽との完璧なる一体化はこうして実現したのです。マイルスはこの時ジャンヌ・モローにひとめ惚れしてしまったという話です。



ヴィアンは長年心臓に欠陥を抱え、不整脈に苦しんでいた。トランペットを吹くことは心臓病を抱えたヴィアンには危険なことだったが、彼本人は意に介していなかった。むしろ自分で「40になる前に死ぬよ」と常々語っており、短命を予感していたようである。1959年6月23日の朝、論争の的になっていた『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』の映画試写会のため、ヴィアンはシネマ・マルブッフの館内にいた。ヴィアンはプロデューサーと作品の解釈を巡り、何度も衝突してきた。そして、その日もエンドロールで流れる制作関係者名から自分の名を外したがったヴィアンは、この映画を公然と非難した。映画が始まって数分後、伝えられるところによると、ヴィアンはこのように口を滑らせたと言われている。「こいつらはアメリカ人になったつもりなんだろうか?馬鹿にしやがって!」



その直後、急な心臓発作に見舞われたヴィアンは座席に倒れ込み、病院へ搬送される途中に息を引き取った。彼は当時僅かに39歳であった。『日々の泡』、『北京の秋』などすぐれた作品を数多く書くが、アメリカ小説の翻訳と称する『墓に唾をかけろ』(46)を公表したことが筆禍をまねき、結局正当な評価を得ることなく短い一生を終えなければならなかった。しかし、死後数年して彼の文学はコクトー、サルトル、ボーヴォアールらによって再評価され、すべての作品が復刊されるとともに、戯曲の上演、劇作集、詩集、の刊行が相次ぎ、若い読者層から圧倒的人気を受けている。そして、この悲劇のヒーロー像が受け、68年に起きた「五月革命」の時に、若者たちに熱狂的に迎えられた。



「ぼくはスノッブ J'suis snob」

ぼくはスノッブ  ぼくはスノッブ  
ぼくの気に入っている 唯一の欠点
みがきあげるのに何ヶ月  らくな稼業じゃないけれど ハイデガルドと出かけると  人目をひくのは ぼくの方
ぼくはスノッブ  ぼくはスノッブ
ぼくの友達も みんなそうさ  ぼくらは スノッブいいもんだぜ
オーディガンのシャツ  ゼビュウ皮のくつ  イタリア製のネクタイ
虫のくった古めかしい背広  指にはルビー  足の指だぜ!
そいつがちがう  爪はまっ黒  小さくて イカしたハンカチ
スウェーデン映画をみに  映画館にでかける ビストロに寄る
ウィスキーもたんまりのめる  肝臓なんか悪くない  そんなのは もう時代おくれ
ぼくのは 潰瘍さ  こいつは ザラにないし 高くつく
ぼくはスノッブ  ぼくはスノッブ
名前はパトリックだけど みんなにボブと呼ばれてる  毎朝 乗馬に通う
あの馬糞のにおいがたまらない  トロンボーンみたいな名前の  男爵夫人としかつきあわない
ぼくはスノッブ  とびきりのスノッブ
女を抱くときも  中庭ですっ裸 毎週 金曜日になると  友達みんなが集まって
スノビズム・パーティ  コーラもあるけど みんな大きらい
カマンベール・チーズも  小さなスプーンで食べるんだ
ぼくのマンションは  サイコーに イカしてる  ダイヤで暖房
これ以上の夢はない  テレビもあるけど あんなのは退屈
後ろ向きにする  後ろなら夢中になれる
ぼくはスノッブ ぼくはスノッブ
その菌にすっかりイカれてる  ジャガーで 事故をおこす  8月はベッドですごす
こういう厳密なことで  スノッブかどうかが きまるんだ
ぼくはスノッブ  さっきよりずっとスノッブ  ぼくが死んだら  ディオールの屍衣をかけてくれ







最終更新日  2008年02月15日 17時00分07秒
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2006年12月21日
Henri Salvador & Boris Vian



”フランスの国民的エンタティナー!
フランス・シャンソン界の長老、巨匠アンリ・サルバドール89歳!”
粋、伊達、色男、ダンディ、ヒップ…。いまもなを艶やかな“声”!アンリ・サルヴァドールは太陽のような人。「ひゃーひゃっひゃっひゃっ」笑いで幸福を振り撒くおフランスの花咲爺!
世界でいちばんハッピーでラブリーでチャーミングなじいちゃん歌手!



フランスの国民的歌手、アンリ・サルヴァドールは1917年7月18 日、ブラジルの北隣フランス領ギアナ・カイエンヌに生まれの89歳の現役歌手。その歌声は常に甘美で、軽やかで、しかしながらしっかりと聴き手の心をつかんで離さない。父親はスペイン系フランス人でフランスの収税官吏、母親は現地人のグァドループ人という、クレオ-ル(混血)として生まれる。7歳のときに一家揃ってパリへ移住。それを知るとなるほど、彼の音楽から感じられる大らかなラテンの血とパリの洗練の融合ぶりに納得させられるものがある。



11歳のとき、デューク・ エリントンとルイ・アームストロングに夢中になり、若くしてドラムとギターをマスター。16歳にしてキャバレーで初舞台を決めた後は、ジミーズ・バーのレギュラー・メンバーにプロの道に入る。アンリはここでジャズヴォーカルを歌いながら、持ち時間のなかにスケッチ(寸劇)を挟むことを思いつく。(例えば、彼の笑い芸のレパートリーの一つ「ジン」は、アメリカ人のアナウンサーがジンを飲んで、どんどん酔っぱらっていくにしたがって、ろれつが廻らなくなる様子を演じたもの。客席の方に向かって吐き出すという絶品芸。)


■なんとアンリ・サルヴァドールの絶品芸!『Pubblicità americana』がYouTubeの動画でご覧いただけます!


■抱腹絶倒のアンリ・サルヴァドールの絶品芸!『Juanita Banana』がYouTubeの動画でご覧いただけます!


■アンリ・サルヴァドールがミニーに扮する絶品芸!『Minnie Petite Souris』がYouTubeの動画でご覧いただけます!

■アンリ・サルヴァドールがジリオラチンクエッティのギター伴奏!『Gigliola Cinquetti - Il Povero Soldato』がYouTubeの動画でご覧いただけます!




そしてここで、あのギターの名手ジャンゴ・ラインハルト(1910年生まれのジプシー・ギタリスト。)と出会い、雷に打たれたような衝撃を受ける。すぐさま、独学でジャンゴ・ラインハルトのギタ-奏法(ポジション・コードプログレッション・ハーモニーetc)を盗みまくってその奏法をマスターした。彼のグループへ誘われたこともあったという。



『リゴロ』
個性派ぞろいのフランス音楽界で異彩を放つ国民的歌手,アンリ・サルヴァドール。彼が若かりしころに発表した迷曲・珍曲集。冗談なのかマジなのか!?エスプリをはるかに通り越したラブリーな笑いが満載。「リゴロ/Rigolo」たは「滑稽」とか、「オモシロ」という意味。フランス本国でも未CD化の多い"Disque Salvador"~"Rigolo"時代のレア曲をギッチリと詰め込んだ日本独自の編集によるコンピレーション・アルバム。

 

 

1941 兵役を終了、再び音楽の道へ 。レイ・ヴァンチュラの招聘を受けて彼のオーケストラにギタリストとして加入し、そのまま南米へのツアーに旅立つ。しかし、第二次世界大戦は激化し、ナチス・ドイツによるフランス占領の影響で、楽団は3年間もの間、南米に留まる事になった。その間に、アンリはマンボ・カリプソなどのラテンリズムを自分のものとしていった。1945 帰国 。そんな経緯でフランスへのサンバの紹介者となったのも彼だった……。



非常に多芸なサルヴァドールだけに、タップダンサー→歌手→作曲家→ギタリストと活躍の場は広いが、彼の作る曲、そして歌声はどれも一貫してロマンティックで慈愛に満ちている。ジャズの基本とボサ・ノヴァの清らかな色香が織り成す、どこか懐かしく深呼吸のできるサウンド。御年80歳を軽く超えていながら(だからこそ?)、惚れ惚れするほどの男っぷりで聴き手を抱擁してくれるのだから、嬉しいではありませんか。



1950年、パリのア・ベ・ゼ劇場でのレヴュー "Paris S'amuse"で出演中のある夜、アンリは最前列に座っていたうっとりするほど美しい白い服を着た女性に心惹かれる。彼女ジャクリーヌ・ガラバディアンは毎晩欠かさずやって来た。しかし、一向にサインを求めに楽屋を訪れる気配がない。一週間後、アンリはドアマンのフランソワに、彼女を楽屋に連れてくるよう頼んだ。二人きりになった時、アンリは言った。「あなたを32年間待っていたんですよ」。ジャクリーヌ・ガラバディアンとアンリは1950年1月24日に結婚をする。
1976年、四半世紀の長きに渡って公私共に苦楽を供にして来た最愛の妻、ジャクリーヌを亡くす。



『ジャズ! ベスト・オブ・バークレイ・イヤーズ』
オリジナル曲の大半を、当時交流の深かったボリスヴィアンが作詩している。



1946年当時のパリのダンス・ミュージックは、いわゆるニューオリンズ・スタイルのジャズで、戦後、パリの解放とともにアメリカ軍がどっと入ってきて、それと同時にアメリカのポップ・ソング/ダンス・ミュージックが流れ込み60年代はR&Bでもってダンスをしていた。アンリは歌手転向後の50年代中頃には詩人でアメリカのハードボイルド小説、SF、ジャズをこよなく愛するボリス・ヴィアンやミッシェル・ルグランらとコミカルなフランス産R&Rを作り、話題を集める。1956年に発表された、フランスで初めて”ロック・アンド・ロール”を冠した「ロック・アンド・ロール・モップス」を発表。バンド名は、ヘンリー・コーディング(アンリ・サルヴァドール)&ヒズ・オリジナル・ロック・アンド・ロールボーイズ!作詞のヴァーノン・シンクレアはボリスヴィアン、作曲のミグ・バイクはミッシェル・ルグラン。

 

ボリス・ヴィアンはその後も、フィリップス社で音楽ディレクターの職に就き、あからさまな反戦歌「脱走兵」をリリースし、放送禁止にされながらもヒットさせ、また自らも作曲・作詞、しまいにはアンリ・サルヴァドールとのデュオで自作のロックンロール「強烈往復ビンタ」をヒットさせ二人の本格的なコラボレーションが始まる。とにかくフランスにおけるジャズを語るにとってボリス・ヴィアンという存在をぬきにしては語れない。「きれいな女の子との恋愛・・それとニュー・オルリンズかデューク・エリントンの音楽だ。その他のものはみんな消えちまえばいい」(『うたかたの日々』より)という有名な言葉も、ヴィアンのジャズへの憧れを表している。彼はトランペット奏者としてジャズの支持し、またフランスにおいてジャズの鑑定人・紹介者として活発な活動を行なった。アメリカからやって来たジャズは当時最新先鋭なる思想、実存主義によく似合った。ディキシーランド・ジャズからビーパップ、さらにハードバップへと、モダンへの革命期をたどるジャズはフランスのパリ、サンジェルマンでその完熟を果たした。ジャズの持つフリーでヒッピーなパワーがナチスによるパリ占領やその解放のレジスタンスの精神とジャズのインプロヴィゼーションとが根源的に結びついた。



YouTubeでアンリ・サルヴァドールの動画『Dorothee & Henri Salvador Vive le vent』がご覧いただけます。合わせてご覧ください。


■続きは、前の日12月20日にあります、続いてご覧ください。

アンリ・サルバドールとボリス・ヴィアン特集その2『アンリ・サルヴァドールとボリス・ヴィアン 』

アンリ・サルバドールとボリス・ヴィアン特集その3『ボリス・ヴィアンとアンリ・サルヴァドールと 』






最終更新日  2006年12月21日 15時46分29秒
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2006年12月20日
Boris Vian




ボリス・ヴィアン (Boris Vian)

『人間、生活の心配がなければ創作するのはやさしいことだ。だが利子生活者でもない以上、精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるものではない。それがいやならほかの仕事をすることだ。しかしそうなるとまた、いろいろ不都合が出てくる。数種の職業を持っていると、アマチュアというレッテルがつく。だがしかし、その世間でいうところのアマチュアが、数種の職業においてそれぞれプロであるとこいうこともありえるのだ。』



ボリス・ヴィアン(1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの作家、詩人である。ヴィアンは1946年からの約十年間、当時フランスを代表するジャズ雑誌だった“JAZZ HOT”誌に無償で評論、ニュース記事、エッセイ等を書き続けた。セミプロのジャズトランペット奏者としても名をはせ、余技として歌手活動も行った。少女クロエの肺に睡蓮の花が咲いてしまう『日々の泡(L'Écume des Jours 曽根元吉訳)』(または『うたかたの日々』伊東守男訳)は、「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品」(レイモン・クノーの言葉)と言われて読み継がれている永遠の幻想青春小説、砂漠に鉄道を通す物語『北京の秋』は、ヴィアンによれば「北京」にも「秋」にも関係ないから『北京の秋(L'automne a Pekin)』というタイトルで、前衛的な作風の小説で知られる。1940年代後半に、脱走兵の黒人作家と称してヴァーノン・サリヴァンのペンネームで通俗的で暴力的なハードボイルド小説を執筆していたことでも有名である。ジャズ批評やアメリカ文学の紹介などの分野においても顕著な功績を残した。彼は400曲にものぼるシャンソンを残した。「Le Déserter/脱走兵」という反戦歌を歌って放送禁止になった。ヴィアン自身は、心臓疾患(心臓大動脈弁閉鎖不全症を抱えた病人であった。)のため徴兵を免れる。さすがにセルジュ・ゲンズブールの師匠である。



DVD『想い出のサンジェルマン』
【原案】 ボリス・ヴィアン「サンジェルマン・デ・プレ入門」 【監督】:ジャック・バラティエ【撮影】:エチエンヌ・ベッケル

ジャズとシャンソンが出会う街、サンジェルマン・デ・プレに過ぎし日々ー

ナチスによるパリ占領やその開放により、戦争から解放された人々が自由を謳歌した40年代のパリ6区のサンジェルマン・デ・プレ。ジャズにわき、ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュら実存主義者たちがナチス占領下のパリでサンジェルマン・デ・プレに避難場所を求め地下酒場で気炎をあげ、多くの知識人、文化人、ジャーナリストたちを巻き込んで、打倒ファシズムの原動力になっていた。サンジェルマン・デ・プレは自由を愛する者の集まる聖地であった!



サンジェルマン・デ・プレ40年代の「うたかたの日々」。その中心地は穴蔵酒場「タブー」。その仕掛け人は”ルネッサンス・マン(万能の人)”ボリス・ヴィアン!1947年、17世紀に造られた地下貯蔵庫(カーブ)を改造して、プライベート・クラブを開店しサンジェルマン・デ・プレを流行の街に仕立てあげたのであった。この店には当時の有名人たちが毎晩のように集まり、飲めや歌えの大騒ぎがくりひろげられていた。タブーには、支配人もいなければ、部屋に敷き詰められた高級絨毯も、夜会服もなかった。ダンスホール全盛の時代。ジャズが聴けるというだけでも珍しく、しけた椅子と机だけがおかれた、がらんとした穴蔵だったけれどもそのそっけなさが受けた。タータン・チェックのシャツにバスケット・シューズといういでたちのエクジスタンシャリスト(実存主義者)と呼ばれる若者(穴蔵のどぶネズミとよばれていた)ばかりが、毎夜、ボリスヴィアンのトランペットに浮かれて踊っていた。


-エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」

ヴィアンは十代の頃から熱烈なジャズ・フリークであり、兄弟たちとジャズ・バンドをはじめ、トランペットに夢中になった。22歳の頃にはクロード・リュテというクラリネット奏者の楽団に入ってジャズに興じた。彼の演奏は十分プロとしてやっていけるくらいでこの映画でも再三、トランペットの演奏シーンが観られる。1949年さらにヴィアンは、もう一つのカーブ「クラブ・サン・ジェルマン」を開店、チャーリーパーカー、マイルスディヴィス、シドニー・ベシェらが素晴らしい演奏を繰り広げられていたのだった。こんな、カーブの喧騒に満ちた風景と、ロックに取って代わられた60年代の同地区と対比させながらつづったジャック・バラティエ監督のドキュメンタリー作品です。戦後のパリの穴倉で、飲んで、踊って、愛し合う…パリの才人、芸術家が集まるサンジェルマン・デ・プレの最も活気に溢れていた時代の当時の映像で構成された貴重なドキュメンタリー。サルトル、ボーヴォワール、カミュ、メルロ=ポンティ、コクトー、ピカソ、クノー、プレヴェール、ツァラ、ブルトン、アルトー、ジュネ、グレコ、バディム、エリントン、マイルス…そしてヴィアン!ジュリエット・グレコは、マイルス・デイヴィスのロマンスも、サンジェルマン・デ・プレ、それは魂の村。戦後のパリを彩ったサン=ジェルマン=デ=プレの狂躁の日々が甦る。


-エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」



「脱走兵」

大統領閣下 お手紙を差上げます
時間があれば 読んでいただけるでしょう

私は今 令状を受取りました
水曜日の夜までに 戦地に発て、と

大統領閣下 私は 戦争はしたくありません
可哀相な人たちを殺すために 生まれてきたからではないからです

閣下を 怒らすつもりはありません 閣下に 申し上げなければなりません
私は決心しました 脱走しよう、と

生まれてから 私は 父の死をみて
兄弟たちが出征するのをみて 子供たちが泣いているのをみました

私の母は ひどく苦しみ 今では墓の下にいます
爆撃も気にせずに ウジ虫も気にせずに

私が捕虜だったとき 私の妻を盗まれ
私の魂を盗まれました それに 私のいとしい過去のすペてを

明日の朝早く死んでしまった歳月に
門前払いをくわせるつもりです 私は旅に出ます

フランスの道端で 物乞いをして暮します
ブルターニュ地方からプロヴァンス地方まで 私は人々に訴えます

服従を拒むんだ 戦争を拒むんだ
戦争にいってはいけない 出征を拒むんだ

血を流さなければいけないのなら あなたの血をどうぞ
閣下は 偽善者ですね 大統領閣下

私を追跡するのなら 憲兵たちに伝えて下さい
私は何の武器ももっていないことを
そして 撃ち殺して構わないということを

 

『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』(1946年)
監督:ミシェル・ガスト 脚本:ボリス・ヴィアン 撮影:マルク・フォサール 音楽:アラン・ゴラゲール 
出演:アントネラ・ルアルディ/クリスチャン・マルカン/ポール・ゲール/フェルナン・ルドー/ルナート・ウエール/マリナ・ペトローバ

ボリス・ヴィアンがアメリカ人黒人作家ヴァーノン・サリバン作として発表した小説が原作。この偽名で売れる小説としてアメリカンポルノを3週間で書き上げる。外見は白人にしか見えないが、その実は黒人の子である主人公の無軌道な日々と、白人のセックス・フレンドたちに自らのルーツがばれてしまい、殺人を犯すまでを描いたスキャンダラスな物語。これが爆発的に売れ、スキャンダルとなり発禁。訴訟にまでなり、公然猥褻罪により10万フランの罰金刑。
ボリス・ヴィアンの肩書きを並べてみると…
エンジニア技師、家具デザイナー、自動車修理工、自動車レーサー、映画俳優、画家、ナレーター、ジャズ・トランペッター、音楽評論家、文芸評論家、ジャーナリスト、SF研究家、DJ、イベント・オーガナイザー、音楽プロデューサー、レコード会社のディレクター、作詞作曲家、歌手、詩人、小説家、映画監督、オペラ・バレエ・演劇・映画の脚本家、翻訳家、ペテン師、遊び人(サンジェルマン・デ・プレのプリンス)、反権力思想煽動家。数多くの顔を持った男ボリス・ヴィアン。彼が動き回った軌跡はジャンルの壁を越えていた。ただ、ヴィアンは、「私は実存主義者ではない。事実、実存主義者であれば実存は本質に先立つ。私にはその本質がないのだ」という発言にもあるように、サルトルの実存主義とは一線を引き、あらゆる主義、運動から自由であろうとしていたのです。

 

ルイ・マルは、映画「死刑台のエレベーター」が完成し、さて音楽をどうしようかというその時に、自身のクインテットを一旦解散したマイルス・デヴィスが単身パリに来ているという事を知り、友人であるボリス・ヴィアンに紹介を頼んだのでした。マイルスは49年5月に初めてパリへ渡り、ジュリエット・グレコと激しい恋に落ち同棲生活を送っていた。マイルスは映画の試写を見て「やる気」になり、当時「クラブ・サンジェルマン」で演奏していたヴァルネ・ウィラン以下4人をピックアップして録音する事になったのです。その録音もまた画期的なものでした、スタジオで映画の画面を流し、その画面を見ながら即興演奏し、録音していったのです。映画「死刑台のエレベーター」とマイルスの音楽との完璧なる一体化はこうして実現したのです。マイルスはこの時ジャンヌ・モローにひとめ惚れしてしまったという話です。



ヴィアンは長年心臓に欠陥を抱え、不整脈に苦しんでいた。トランペットを吹くことは心臓病を抱えたヴィアンには危険なことだったが、彼本人は意に介していなかった。むしろ自分で「40になる前に死ぬよ」と常々語っており、短命を予感していたようである。1959年6月23日の朝、論争の的になっていた『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』の映画試写会のため、ヴィアンはシネマ・マルブッフの館内にいた。ヴィアンはプロデューサーと作品の解釈を巡り、何度も衝突してきた。そして、その日もエンドロールで流れる制作関係者名から自分の名を外したがったヴィアンは、この映画を公然と非難した。映画が始まって数分後、伝えられるところによると、ヴィアンはこのように口を滑らせたと言われている。「こいつらはアメリカ人になったつもりなんだろうか?馬鹿にしやがって!」


■続きは、前のページ12月20日にございます。続けてご覧ください。

アンリ・サルバドールとボリス・ヴィアン特集その1『フランス・シャンソン界の長老、巨匠アンリ・サルバドール 』

アンリ・サルバドールとボリス・ヴィアン特集その3『ボリス・ヴィアンとアンリ・サルヴァドールと 』






最終更新日  2006年12月21日 15時51分43秒
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2005年04月11日
 
○o。愛しかないとき☆クミコ☆.....それで、ボクもふるえた。o○



名盤!『愛しかないとき』日本語詩:クミコ 作曲:J・ブレル




「わが麗しき恋物語」  日本語詞:覚和歌子 作曲:バルバラ



日本語詩はオリジナル詩で、映画「千と千尋の神隠し」主題歌「いつも何度でも」の作詞で2001年レコード大賞金賞を受賞した覚和歌子さんが作詞してます。私は、この覚版「わが麗しき恋物語」の詩がバルバラの原詩とはあまりにかけ離れている為、頑迷にもクミコを暫くの間聴きませんでした。バルバラの最高傑作である「わが麗しき恋物語」を冒涜するものとさえ思っていたんですね?!
でも今は、大丈夫!クミコにひれ惚れはれ惚れ単純明快なので、もうクミコさんの素晴らしい「うた」のひとつとしてカラオケに挑戦したいものと思っています。U^ェ^U

五年がたったら あたしはやめてた 煙草をまたはじめ♪
あなたの浮気が 七回目 数え あたしも三回目♪
視線そらして 会話も減ったけど どこでもそんなもんでしょ♪
人生って そうよ 退屈だったって 思いだしながら♪



クミコ名義での1stアルバム『AURA(アウラ)』

私がクミコを聴き始めたのは、プロデューサーの名前に敬愛する鈴木慶一(ムーンライダーズ)と松本隆の名前があったから。松本隆が惚れ込んだ、稀代の女性シンガーという触れ込みでした。他に細野晴臣や筒見京平の名前も気になったし、ジャケも高野文子さんということで購入しました。今では廃盤でクミコさんも珍しいのよ~♪とニコニコでした。U^ェ^U

『茶目子劇場』- クミコ公式ページ。



[DVD]『わたしは青空-クミコ、コクーン・ライヴ』  IOBD-21019 \5,040(税込)

東京・渋谷Bunkamuraシアターコクーン(04年11月3日)で行なわれたライヴ。NHK・BSで一部がオンエアされ、絶賛を呼んだライヴ待望のDVD化!

● 放送されなかった楽曲を含んだ全公演曲目、MC、さらに特典映像も収録!!
わたしは青空-2004コクーン・ライヴ
ちょっとおたずねします/接吻/お帰りなさい/イカルスの星/愛の追憶/織田一枝/明日があるさ/愛しかないとき/黒い鷲/ジジ・ラモローゾ/I LOVE YOU/UNO-誰が悲しみのバンドネオン/オギヨ・ディオラ/こころ/さいごの抱擁/わが麗しき恋物語/わたしは青空/幽霊/愛の讃歌/ラストダンスは私に(計約120分)
特典映像 1.開幕まで――楽屋風景 2.幕間ロビー・インタヴュー (覚和歌子さんもお顔だしてます)



[CD]『わたしは青空-クミコ、コクーン・ライヴ』

*ボーナス・トラックに武満徹さんの名作「小さな空」が収録されています。このテイクはリハーサルでのみ披露されたものです。



◇クミコ コンサートTOUR 2005 桐生市立中央公民館◇

4月 9日(土) 桐生市立中央公会館市民ホールで、念願のクミコのLIVEを観てきました。渋谷の小劇場「ジャンジャン」などの舞台で行われたコンサートで「音楽を“あきらめていた”大人たち」から絶大な支持を得たというクミコの待望のLIVEです!気合のピアノは上條泉、まさに歌うヴァイオリン・胡弓は土屋玲子、ベース・リコーダーは大坪寛彦と意気のあったトリオ編成で"大人のポップス"を熱演し場内を感動の渦に巻き込みました。本当に、素晴らしい表現力で魂を揺さぶらずにはおかない感動で、もう感無量!終演後のサイン会ではクミコさんにバラバラ初来日にいったという話をしたら止まらなくなりそうなので、また最後尾に並びなおしお話してきたのでサインいっぱいもらっちゃいました。オイ!オヤジ~!クミコにひれ惚れはれ惚れ!バラバラ初来日の私の顛末は下記をお読みくださいU^ェ^U

2004年02月04日の楽天日記.....『♪フランス最後のディーバ、バルバラを偲んで.....♪』も合わせてご覧ください。

クミコさんは勿論シャンソン歌手ですから敬愛するバルバラや越路吹雪さんの歌も歌いますが、美空ひばりも日本の古い歌も、時には演歌さえ歌います。50歳のクミコさん、自らを「窓際シャンソン歌手」「居候シャンソン歌手」「自転車操業シャンソン歌手」「隙間シャンソン歌手」と自己紹介して場内を笑わせますが、MCも素晴らしい。苦節30年の味出てます!さらに「サントワマミー」しか知らないのにシャンソンを唄い始めたというクミコさん、今日のコンサートは、いわゆるチャンプルー状態、ごった煮状態、もしくは筑前煮状態でのコンサートになると宣言されました。確かに彼女の歌にはジャンルなどないかのように多彩です。それにしてもなんて素晴らしい選曲なんでしょうか!カバー曲を歌ってもオリジナル歌手以上の感動を与えてくれる稀有な歌手ですね。まさに「大人のポップス」!これだけ濃密な世界観を持つ歌を次から次えと歌いこなし、ジャンルと時代を超えた“歌”を心に響かせてくれるクミコ・ワールドを現出させていくのは比類ない表現力がないとできない至難の技だと思います。クミコさんの微笑みは本当に可愛らしく素敵です。

---ジャンルを問わず、自分の本当に唄いたいものだけを唄うという姿勢のもと、単なる「唄い手」の枠を越えて「新時代の芸人」「シンガー・ソング・パフォーマー」などという、新しい"像"をクリエイト。「音楽を"あきらめていた"大人たち」
から絶大な支持を得る。---



◇クミコ コンサートTOUR 2005 ~桐生市立中央公民館~ セットリスト◇
《1部》
乙女のワルツ/接吻/イカルスの星/愛の追憶/ありがとう命/わたしは青空/明日があるさ/満鉄小唄(なんと春歌!)/満州娘

一曲目は、胡弓にのせて「乙女のワルツ」。本当に歌のうまかった伊藤咲子の名歌ですね。四曲目の「ありがとう命(人生)」はチリのヴィオレッタ・パラ(Violeta Parra)の名作です。タイトルを聴いてビックリしました。坂田甚内先生と風美先生が探していた、まさにその歌だったんです。とても素晴らしい感動的な歌ですので末尾に歌詞を掲載させていただきました。「明日があるさ」は坂本九さんの代表作!「満鉄小唄(作詞者不詳、曲・藤原義江、元歌は軍歌「討匪行」)」は、なんと春歌です。山谷初男さんが映画の中で歌いパックインミュージックの林美男さんがよく流してましたね。これも歌詞を末尾に掲載いたしちゃいましょう。



《2部》
愛の讃歌/I Love You/こころ/一本の鉛筆/さいごの抱擁/わが麗しき恋物語/幽霊

2部一曲目、「愛の賛歌」は岩谷時子歌詞バージョンでした。覚和歌子ヴァージョンで聴きたかった!尾崎の「I Love You」、これは名唱です!そして「こころ」。アンサリーでもおなじみの名曲、名唱です。末尾に歌詞掲載!お次は美空ひばりの「一本の鉛筆」は松山善三作詞の大感動作!...嗚呼!涙、涙!凄い!凄い!で、ようは二部は圧巻!驚喜の名曲、名唱のオンパレードなのさ!Oh!KUMIKO! MY BEST LOVE!

<<アンコール>>
ラストダンスは私に/わたしは青空(2回歌いました!)



「わたしは青空」は歌謡界の名曲を多数手がける作曲家・三木たかしが、クミコに「ぜひ歌ってもらいたい」と書き下ろした新作で、覚和歌子が作詞。「生」と「死」を超えた永遠の愛を歌った名曲が誕生!

━(覚和 歌子)━

「長崎の小学校で起きた事件の報道に接したとき、気丈にふるまう貴族の悲しみの深さに打ちのめされてた。
簡単に人が死んでいく事件が立て続けに起こる時代に、そしてこんな時代を作っている人の心に、いったい歌で何かできることがあるのだろうかと考える。何にもできないとも考える。
肉体は滅びても魂は死なないと信じたい。死者の言葉を、クミコさんに歌ってもらえたら、と思った。愛する者に突然先立たれてなお、生きていかねばならない人たちへ、せめて力づけにならないものか。失われたいのちへの、せめて静かな祈りにならないものかと。」

━(三木 たかし)━

「今回の新曲「わたしの青空」には何かとても不思議な縁を感じます。僕の番組に初めてゲストで出演して頂いて、クミコさんの唄を聴き衝動的に曲を書きたいと想い、すぐにお互い意気投合したのを覚えています。
そして打合せの日は大型台風上陸寸前というどしゃ降りで、作詞家の覚さんに頂いた詩が「わたしは青空」…。
末永く唄って頂けるよう願っています。」

━(クミコ)━

「大切な人を失う悲しみは耐えがたく癒しようがありません。
ですから、亡くなった人は青空となっていつても自分のそばにいると思うことで納得するしかないのです。
けれども、この歌は悲しみの歌ではありません。連綿と続く大きな生命(いのち)のつながり、新しい出発への希望の歌なのです。」



2005年4月30日(土)サントリーホールの「クミコとN響の仲間たち」のチケットも残席わずかだそうです。



普段着のTシャツにジーパン。アンコールにクミコさんはこの格好で出てきました。たっぷり陽を浴びた洗いざらしのTシャツやジーンズのように流行にとらわれずに、ひとの気持ちに寄りそって気楽に温かく、ほんとうの豊かさを知っているひとのための「うた」がここにはあります。

「小さな空」(詩・曲 武満徹)

青空みたら 綿のような雲が
悲しみをのせて 飛んでいった

いたずらが過ぎて
叱られて泣いた
こどもの頃を憶いだした

夕空みたら 教会の窓の
ステンドグラスが 眞赤に燃えていた

いたずらが過ぎて
叱られて泣いた
こどもの頃を憶いだした

夜空を見たら 小さな星が
涙のように 光っていた

いたずらが過ぎて
叱られて泣いた
こどもの頃を憶いだした



『愛の讃歌』

クミコ2nd。プロデューサーに谷川賢作(谷川俊太郎さんのご子息)を迎え、作詞陣もサンプラザ中野、江國香織、谷川俊太郎、覚和歌子(愛の讃歌、枯葉、わが麗しき恋物語はオリジナル詩)など、多才な顔ぶれがそろった。シングル曲「わが麗しき恋物語」を始め、「ノワイエ」では少女のように、また「幽霊」では守護神のようにその歌声を自在に扱いながら、リラックスした中にも歌詞がダイレクトに迫ってくる作品に仕上がっている。


ekato

Oh!KUMIKO! MY BEST LOVE!
 U^ェ^U

前の頁、2005年04月10日の日記
○o。愛しかないとき☆クミコ☆.....それで、ボクもふるえた。o○■後編■ に続きます。






最終更新日  2005年04月12日 05時47分59秒
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2005年04月10日
 
○o。愛しかないとき☆クミコ☆.....それで、ボクもふるえた。o○



名盤!『愛しかないとき』日本語詩:クミコ 作曲:J・ブレル




沢知恵『一期一会』 

■「こころ」(キム・ドンミョン:詩/キム・ソウン:訳/沢知恵:曲)■
*アン・サリーも歌っています!

わたしのこころは湖水です どうぞ 漕いでお出でなさい
あなたの白い影を抱き 玉と砕けて 船べりへ散りませう

わたしのこころは灯火です あの扉を閉めてください
あなたの綾衣の裾にふるへて こころ静かに 燃えつきてあげませう

わたしのこころは旅人です あなたは笛をお吹きなさい
月の下に耳傾けて こころ愉しく 夜を明かしませう

わたしのこころは落ち葉です しばし お庭にとどめてください
やがて風吹けば さすらい人 またもや あなたを離れませう

<ヴィオレッタ・パラ略歴>
チリにおけるヌエバ・カンシオン運動の先駆者とされる民衆芸術家。1917年、チリ南部サン・カルロスの貧しい家庭に生まれ、10代の頃には姉イルダとともに首都サンティアゴの酒場で流行歌を歌い生計をたてる。21歳で結婚し、長女イサベル、3年後に長男アンヘルを出産。35歳(1952年)頃から、ギターと録音機を携え、チリ各地を巡っては民俗音楽を採譜。こうして聴き覚えた伝承曲を再現するかたわら、社会的内容や愛を歌った自作曲の作詞作曲をはじめる。また詩集や絵画、針金細工などの分野でも才能を発揮。1960年代にはラテンアメリカならびにヨーロッパ各国で演奏ならびに展示などの活動を活発に行う。1967年、神経症を病みピストル自殺。享年49歳。

■ありがとういのち(作詞/作曲:ヴィオレータ・パラ・訳詞/高橋悠治)■

ありがとういのち おまえがくれた
ふたつの瞳がひらくときは
見分けられる 黒と白を
遥か空の彼方、星まで
人ごみのなか あの人も

ありがとういのち おまえがくれた
耳はいつも働き続け
きざみこむ コオロギ、カナリヤ、
ハンマー、タービン、犬や時雨も
やさしいあの人の声も

ありがとういのち おまえがくれた
音や文字を また、言葉を
考えたこと言える言葉
母や友や兄弟や
輝くあなたの魂のみちすじ

ありがとういのち おまえがくれた
足は疲れ、歩き続ける
町並みを、水溜まりを
海や砂漠や山、野原、
あなたの住む家や庭も

ありがとういのち おまえがくれた
心は震え、押さえきれない
人の考えが創り出すもの
良いものと悪いものの隔たり
あなたの明るい瞳を見て

ありがとういのち おまえがくれた
笑いと涙で見分けられる
幸せと不幸せを
私のうたがそこで生まれる
あなたと私を結ぶうたが
みんなと私を結ぶうたが

■『満鉄小唄』(作詞:作者不詳/作曲:藤原義江)■
雨のしょぼしょぼ降る晩に
ガラスの窓からのぞいてる
満鉄の金ボタンのばかやろう

上るの帰るのどうするの
はやく精神きめなさい
きめたらゲタ持って上がりなさい

お客さんこの頃紙高い
帳場の手前もあるでしょう
五十銭祝儀をはずみなさい

ああ騙された 騙された
五十銭金貨と 思うたに
ビール瓶の栓だよ 騙された

雨のしょぼしょぼ降る晩に
ガラスの窓からのぞいてる
満鉄の金ボタンのばかやろう

■「一本の鉛筆」(松山善三:詩/佐藤勝:曲)■

あなたに聞いてもらいたい あなたに読んでもらいたい
あなたに歌ってもらいたい あなたに信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛をかく
一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと書く

あなたに夢をおくりたい あなたに愛をおくりたい
あなたに春をおくりたい あなたに世界をおくいたい
一枚のザラ紙があれば 私は子供が欲しいとかく
一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと私は書く

一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く

2004年08月06日の楽天日記.....■8/6「広島原爆記念日」~さとうきび畑(作詞:寺島尚彦/作曲:寺島尚彦)■

2004年08月19日の楽天日記.....■8/15「終戦記念日)~加藤登紀子コンサート :群馬 第6回「21世紀の森」野外音楽祭■







最終更新日  2005年04月11日 23時00分16秒
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2005年04月09日

■私のフランソワーズ!フランソワーズ・アルディに愛を込めて!■前編■



フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)
 
1944年1月17日パリの9区生まれで生粋のパリ・ジェンヌ。14歳のころからバルザックやロマン・ロランなどを読みあさり、16歳の頃から両親に買ってもらったギターでシャンソンを書き始め、ミレイユの「シャンソン小学院」に学んだという文学少女だった。ソルボンヌ大学では政治学を勉強、同時にファッション雑誌《エル》のトップ・モデルとしても活躍した。他の同時代のロックエイジの歌手たちとはひと味もふた味も違ったインテリジェンスとポエジーがあった。



60年代のフランスでは従来のシャンソンにロックンロールをかけあわせた音楽、いわゆる「イエイエ」が流行したが、アルディも最初はイエイエを歌うアイドル歌手としてスタートした。2枚目のアルバム「青春時代」ではフランス語なまりの英語でプレスリー、キャロル・キング、クリフ・リチャード、キンクスの曲を歌っている。彼女はブリジット・バルドーやフランス・ギャルとは違った、アンニュイで中性的な魅力が持ち味で、自分で曲作りもするアーティスティックな面も備えていた。

 

1メートル72センチの長身、55キロという痩身。サラサラのロングヘアー、クールでけだるくさりげない歌い方だがモノ・トーン的な優しさがある。静かに現実を見つめ、内省的で淡々とした態度で、隠そうともせずに孤独と対峙した詩を多く書いている。無表情とも思える顔の中で遠くを見つめるような視線、寂しさと哀しさを秘めるブルーの瞳。その瞳の奥にはしなやかで強い感性もしっかり確かめられる。「アンニュイ」っていう言葉で表現される事がよく似合っていた。



『フランソワーズ』記念すべきデビュー・アルバム!

70年代前半に「さよならを教えて(Comment Te Dire Adieu)」「もう森へなんか行かない(Ma jeunesse fout l'camp)」で一大ブームを巻き起こしたフランソワーズ・アルディ。「さよならを教えて」は、 言わずと知れたセルジュ・ゲンズブール作。以降、アイドルから脱皮し、シンガー・ソングライターとしてより充実した音楽活動をするようになるが、フォトジェニックなルックスに加えて大人の女としてのカッコよさを体現するようになっていく。



『アルディのおとぎ話』
タイトルがまさに暗示しているとおり、全編幻想的なおとぎ話の世界。
恋人だったジャン・マリー・ペリエによるシュールなジャケが秀逸!



1970年代の終わりごろ、山田太一のテレビ・ドラマ「沿線地図」で、フランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」が起用され、一時期ブームになったこともありました。



 

『私生活』
知的でアンニュイなアルディの名作!夫君ジャック・デュトロンとの共作「おやすみなさいは言わない」収録。

 

『夜のフランソワーズ』              『私小説』

 

『魔法をとめないで』            『時の旅人たちへ』





『スエーデンの城(1962)』

監督 :ロジェ・ヴァディム 原作 :フランソワーズ・サガン
出演:モニカ・ヴィッティ、ジャン・クロード・ブリアリ、ジャン・ルイ・トランティニャン、フランソワーズ・アルディ

フランソワーズ・アルディの映画出演は『スエーデンの城(1962)』『何かいいことないか子猫チャン(1965)』『男性・女性(1965)』『グラン・プリ(1966)』。



「友情」  フランソワーズ・アルディ

雲の向こうから友達がやってくる  太陽と雨をカバンに詰めて
彼らが創り出す優しい友情の季節 四季のなかで一番美しい季節
友達の優しさは美しい風景に似ている
渡り鳥のように舞い戻る人々 彼らの心に刻まれる無限の優しさ
でもその瞳には悲しみの色が宿る 
だから彼らは私の家に温もりにやってくる あなたも来てくれるきっと必ず

あなたは再び雲の彼方に立ち去る 別の表情でもう一度微笑みながら
あなたの周囲に優しさを与える 仲間が悲しみを隠したい時も
人生の意味が分からない時も 自分が何者なのか分からない時も
理解してくれる友が一人でもいたら そんな時はあなたの家に行こう
私の心が温まる あなたの燃やす炎で ........

・ジャン・マックス・リヴィエール(詞)ジェラール・ブルジョワ(曲)




『みなさん、さようなら』(2003年カナダ=フランス)
監督・脚本: ドゥニ・アルカン
出演: レミ・ジラール、ステファン・ルソー、マリー=ジョゼ・クローズ、マリナ・ハンズ、ドロテ・ベリマン
2003年のカンヌ映画祭では脚本賞、主演女優賞を受賞し、第76回アカデミー賞では外国語映画賞に輝いた。
この映画のラスト、フランソワーズ・アルディの名曲「友情」が流れてきます。古い友人の声のように懐かしく温かな声で語りかけるように歌いいつまでもこの映画の感動の余韻をかみ締めさせてくれます。他には、フランソワ・オゾンの『焼け石に水』(2000)に使われた"TRAUME"、『8人の女たち』(2002)でイザベル・ユペールが歌った"Message Personnel"などに使われています。



’67年アルディは華やかなショウ・ビジネスの世界に嫌気がさしたのか突然ステージ活動を初め、一切の活動を止めてしまいます。デビュー以来のヴォーグ・レコードを離れ、翌’68年には「ヒポポタン」(河馬)という自分のプロダクションを設立、以後レコード制作に専念していくようになった。その後、’71年からソノプレスからレコードを出すようになった。





あり余るほどの才能を持ちながら、---いや、余りにも才能がゆたか過ぎるゆえに、世間に迎合することなく、マス・コミにも背をむけて、彼女独自の道を歩んできたのです。私生活でもそのとおりで、彼女には2人の恋人がいました。それはジャン=マリー・ペリエとジャック・デュトロン。最初の恋人、ジャン=マリー・ペリエとはうまくいかず、辛い別れののち、ジャック・デュトロンと恋仲になり1973年にジャック・デュトロンとの間に長男のトマが誕生します。が、女性の自立が盛んに謳われていた当時、フランソワーズは結婚という道を選ばず「未婚の母」であることを選びました。1981年になってようやくジャック・デュトロンと結婚式を挙げました。また二人の息子トマは現在ミュージシャンや俳優として活躍中です。



長い期間にわたってコンスタントにアルバムを作り続けていたアルディだが、88年に歌手引退宣言。アルバム『DECALAGES』以降は一線から退くかたちに--。しかし90年代初頭に「プロフィール」「痛くても」の2曲を新作として発表し、94年にはブラーのデーモンからの熱心なラブコールにより、「To The End」でデュエットを実現。この仕上がりに満足してか、96年にはブリット・ロックの色濃いアルバム『ル・ダンジェ~危険な香り』で本格的なカムバックを果たしている。
ekato

2005年4月4日 17時03分48秒 100000アクセス達成いたしました!ありがとうございました。心より御礼申し上げます。これも皆様のご愛顧の賜物です。有難う御座います。公私とも忙しく日記のUPもままならぬのに来て下さる方々に厚く熱く御礼申し上げます。 U^ェ^U








最終更新日  2005年04月09日 00時41分55秒
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2004年11月13日




♪フランス最後のディーバ、バルバラを偲んで.....♪
1997年の11月25日に亡くなったバルバラに捧ぐ!


人生は美しいか? 
金子由香利リサイタル Vol.25 モンマルトルに帰りて




「金子由香利リサイタル Vol.25 モンマルトルに帰りて」

演出:金子由香利 音楽:美野春樹
 
 Piano:藤原和矢 Bass:井上 眞 Guitar:佐藤風太
 Drums:野口廸生 Accordeon:茂木益行
 1stViolin:福森 隆 2ndViolin:根本進一郎
 Viola:岩間俊也 Cello:堀内茂雄 



バルバラ&ムスタキ

今晩のオープニング曲はムスタキの「時は過ぎ行く」でした。
♪眠りの中で 夢の中で
いつのまにか 時は流れ
遠い昔は 思い出の中
帰らぬ時は 今も過ぎて行く...♪

『ジョルジュ・ムスタキ"私の孤独"』も合わせてご覧ください。




ただよう気品。語りかける愛の歌。
シャンソン界のカリスマ。心に響くシャンソンの数々.....。
男と女、愛、そして人生を謳う金子由香利。時に哀しく、次の瞬間、微笑をうかべ
て見つめてしまう。あゝ、これこそ“ラ・ヴィアン・ローズ”。シャンソンの心、人生の機微。



「詩人の魂/シャルル・トレネ」
♪はるかな昔に 去りし人の唄
今日も 街に流れる
うれしい時にも 悲しい時にも
みんなが唄う あの唄・・・・・♪

1979年にパルコ劇場から始まった彼女のシャンソン・リサイタルはついに2 5
年目を迎えました。黒をモチーフとしたシンプルな舞台と同じくブラックの美しい衣裳。
金子由香利さんの演出ということですが、ほとんど演出らしい演出もなく終始シンプルなステージでwith ストリングスでじっくりシャンソンを聴かせてくれました。マイクはワイアレスでなくコードをしなやかな鞭のように使う場面もあり、上手く感情表現されてました。何時も微笑をたやさぬ美しい歯がキラリと光りお年を感じさせません!金子由香利さんのシャンソンには素晴らしい気品があります。あまり目一杯な感情表現をしない金子由香利さんのシャンソンは、どこか伝統的というか保守的な感じがしてました。確かにシャンソンは深刻な恋や娼婦の唄などが人気で、どうしても豊な人生経験が必要かも知れませんが彼女の気品は人生について考えるというより、人生こうあるべきという存在感を感じさせてくれました。
生きることについて思いめぐらすひと時でした。





アンコールは「聞かせてよ愛の言葉」と「過ぎ去りし青春の日々」でした。



お召し換えは上の写真のような純白の豪華なドレスでした。
バルバラの「いつ帰って来るの」だと思ってたのに。残念!サイン会もありませんでした。



日本のシャンソンのメッカ”銀巴里”



『喝采/銀巴里ライヴ 美輪明宏』



11月12日は、娘の誕生日でした。プレゼントは、デンマークで記録的大ヒットとなった映画『しあわせな孤独』のDVDと写真家、蜷川実花の写真集でした。蜷川実花ガールズフォト決定版写真集!「mika (サイン入り)」販売価格:6,600円(税込6,930円)はHPからオーダーできますよ。
蜷川実花の写真はとにかく色が鮮やか!とてもアナログ写真とは思えないカラフル・ポップな愛らしさは注目というよりか有名!知らないお父さんしっかりね!U^ェ^U キュートで愛らしい、蜷川実花ワールドの写真集は愛人へのご機嫌取りにも最適。サイン入りがプレミアよ!『Smart girls』『NEUT』『装苑』『Olive』などの雑誌掲載のほか撮り下ろしも収録。お父さんの知らない有名タレント・女優・モデルが満載。
『しあわせな孤独』たいした映画じゃないですけど、タイトルはシャンソンポイですね?!「人生は美しいか...?」って、ソンナの自分で考えな!あは!U^ェ^U



『 蜷川実花 オフィシャル・ホーム・ページ』
蜷川実花さんは演出家、蜷川幸雄さんの娘です。








VHS『渡辺歌子/さらば光、風、バラよ 渡辺歌子コンサ-ト1987』


『渡辺歌子 オフィシャル・ホーム・ページ』

正直云ってCAT-Oさんが日本のシャンソン歌手で一番好きなのは渡辺歌子さんです。
このビデオ探しに探しました。コレクターの面子に掛けて!
諦めかけてましたが、でもでて来るものですね!シャンソン歌手の深江ゆかさんのご好意でした。深江さんご自身でお持ちの貴重なビデオを貸していただいちゃったんです。超嬉しかったです。深江さんありがとうございました!
深江さんなんとジム・モリソンファンで私の日記みて凄く喜んでくださいました。渡仏した時に、ピアフのお墓参りより先にモリソンのお墓参りをしたほどのファンだそうです。 こういうのって素敵ですね!でもU^ェ^U内緒よ~!



『夢の続きを/深江ゆか』

『深江ゆか オフィシャル・ホーム・ページ』




『渡辺歌子/遠い道』

1970年代末期より本格的に活動を開始した、個性溢れるシャンソン歌手。人間という存在に対しての大いなる愛を感じさせるジャック・ブレル、一人の女性の狂気ともいえる情念を作品に噴出させるバルバラ、そして希代の詩人ルイ・アラゴン等、シャンソンの巨匠たちの作品を、彼女独自の透明感をたたえて歌うファ-スト・アルバム。



『渡辺歌子/さらば光、風、バラよ 渡辺歌子コンサ-ト1987』

エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコ、シャルル・アズナヴ-ル等のレパ-トリ-に加え、ソ連のウラジ-ミル・ヴィソ-ツキイ、オクジャワの曲も収録、渡辺歌子の魅力が凝縮されたベストライヴ!ある時は波穏やかな南の海のように、あるいは人の訪れることの稀な山奥の神秘な湖の色のように、彼女の声を通じて時を超えて詩人たちの想いがここに歌われる。



『渡辺歌子/小雨降る径』

民衆の夢や望みが託され、人々の心に永遠にしみついてきた黄金の50年代シャンソン。決して軽くはない時代背景と、それだからこそ生まれた美しいメロディ。そんなシャンソンのスタンダ-ド・ナンバ-を渡辺歌子が、満を持して取り組んだサ-ド・アルバム。彼女の個性が、名曲に新しい生命を吹き込んだかのように感じられる素晴らしい作品だ。

1.小雨降る径 2.聞かせてよ愛の言葉 3.モンマルトルの丘 4.巴里祭 5.人の気も知らないで 6.白いバラ 7.暗い日曜日 8.待ちましょう 9.パダム・パダム 10.パリの屋根の下 11.通行人 12.枯葉 13.桜んぼの実る頃 14.三つの小さな音符







最終更新日  2004年11月13日 02時38分40秒
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2004年10月26日

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Bonjour Musique !”都市の伝統音楽”パリ・ミュゼット

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サン・ジェルマン・デ・プレ、モンパルナス界隈、カルチエ・ラタン、シャンゼリゼなどをぶらぶら、ソルボンヌ広場のカフェにやって来ました。この広場にある何軒かのカフェは、私のお気に入りの隠れ家。友達と仕事をしたり、お昼を食べたり、お喋りしたり、議論に花を咲かせたりしたものです。お茶を飲んだら、次は映画。ソルボンヌのすぐそばのシャンポリオン通りに小さな映画館があります。カルチエ・ラタンにはあらゆるジャンルの映画を上映する小さな映画館が、至る所にあるのです。パリではとても気軽に映画を見ることができます。カルチェ・ラタンの文化的で知的な雰囲気がなつかしい……。な~んちゃって!



今日は、石畳のパリの街並みを歩いていて、アコーディオンの懐かしいメロディが聞こえくるといった趣でございま~す。そもそもミュゼットって一体何?よくTVのグルメ番組や旅行番組で、フランスものが紹介される時、お決まりの様にアコーディオンのBGMが流れます。くねくねと動き回る旋律・・・大雑把に言うと、これがまさしくミュゼットです。でもこのミュゼット演奏するとなると超絶テクニックを要する、トンでもないシロモノなのです。この三拍子の音楽が流れてきたとたんにおフランスの大人も子供も踊り出してしまうそう。「フランス人のDNAには三拍子が刻まれている!」らしい?19世紀からオーベル二ュ人やイタリア人、ジプシー達など移民によって発展してきたミュゼット音楽は、ダンスやお酒の場所によく合うんですね。古きよきパリを彷佛させるミュゼット。酒場やカフェでダンスミュージックとして庶民に愛されてきた音楽です。パりに生きる人の喜怒哀楽をそのまま詰め込んだような素晴らしい音楽なんです。



「パリ・ミュゼット」というのは簡単に言うと、パリ下町のダンス音楽。1920年代に入って人気沸騰し、おフランスの国民的音楽へと昇格する。元々は「ミュゼット」というバグパイプの親戚の様な楽器で演奏されていたダンス音楽なのですが、そのうち音の幅の広いアコーディオンが取って変わり、今では「アコーディオンがメイン」のインストルメンタルをミュゼットと呼ぶようになりました。



フランスのオールドファッションな大衆音楽、メリーゴーランドやサーカスを思わせる懐かしい響きがたまりません!アコーディオンを中心にした少人数アンサンブル"ミュゼット"は、今世紀初めからパリの街角の風物詩として知られてきました。その素朴で陽気な雰囲気は世界中でファンを増やしています。



その当時、地方の労働者たちがカフェやバーに集まり、アコーディオンでダンスをするのが慣わしでした。その流れがパリに届いたのは130年ほど前の話。



「バル・ミュゼット」と呼ばれるダンスホールが大流行し、フランスの普通の人々はワルツやタンゴ、スイングのリズムに乗って、踊りまくったのでありました。
バルではスイングが人気でワルツ、ポルカ、タンゴ、ジャヴァと並んで踊られていた。そしてアコーディオンはパリのシックな居住区の人たちを虜にしてカフェの音楽、シャンソンになくてはならない存在となりました。



ミュゼット・バンドの構成は、メンバー5人から6人。中心の楽器はアコーディオン、これは半音階、全音階のどちらもあります。またはアコーディオンの親戚といえる、ボタン操作のバンドネオン。そこにギター、バンジョー、バイオリンが加わってメロディーラインを形づくります。ドラムやベースがリズムを受け持ちます。
リズムの主流は3拍子。ジャズ、ワルツ、スィング、ブルースと、多彩な音楽ジャンルを取り入れたミュゼット演奏。ときには哀愁を帯び、ときには心を癒してくれる、映画のワンシーンのような演奏が次々と繰り広げられます。



ジプシーのギタリストとして名を馳せたジャンゴ・ラインハルトらはギターで三連譜やトリルなどのアコーディオン独特のミュゼット奏法を出そうと工夫し「モンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ」等のミュゼットワルツを作曲。その後彼はジャズへ傾倒しミュゼットとは遠ざかるが、ジャンゴ・ラインハルトはミュゼットに多大な影響をもたらしました。アコーディオンのみならず、ギターやヴァイオリンが大きくフィーチュアされミュゼット・バンドはその魅力を深めていったのです。



大人のためのワールド・ミュージック。すべての芸術の憧れの街、そして音楽をこよなく愛する街、パリ。アコーディオンの音色が情緒たっぷりに響く。「パリ・ミュゼット」こそは本物のカフェ・ミュージック!フランスの庶民的な社交場カフェで生まれたオシャレでエスプリ漂う音楽!



『我等の仲間』

フランスの名匠、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の代表作。
ペンキ屋のジャン、大工のシャルル、 屋根の修理屋のレイモン、スペインの政治犯のマリオは失業中。その4人がお金を出しあって買った宝くじが10万フランの大当たり....。ジャン・ギャバンが二人のアコーディオン奏者をバックにミュゼット・ワルツを歌っています。ミュゼットはパリの下町を舞台にした映画には欠かせない音楽です。ピアフの名唱で知られるルネ・クレール監督「巴里の屋根の下」の主題歌や同監督の「巴里祭」の主題歌もミュゼット・ワルツです。
余談ですが、なんとこの映画のDVDには日本で公開された「悲劇版」の他、「ハッピー版」の2バージョンが収録されてるんですねぇ。あなたはどちらを選びます?CAT-Oさんは勿論、おつむが軽いので「ハッピー版」ですよ!



パリ・ミュゼットはアコーディオン演奏。ミュゼットとは、もともとキャブレットと云う小さなバグパイプしたが、アコーディオンにおされその名前だけが残り、今ではアコーディオンをフューチャーしたストリート感覚の音楽をミュゼットと呼ぶようになりました。



パリ・ミュゼットはモダン・ジャズやサクソフォンも取り入れ新しいスタイルに再生されてます。パリの下町、路地裏の場末のカフェで奏でられてそうな音楽、どこか哀愁を漂わせながら、賑やかなダンス風景が浮かんできます。 



「パリ・ミュゼット Vol.3」

相次いで逝去したミュゼット界の巨匠ジョー・プリヴァ、ディディ・デュプラ、ディディエ・ルッサン、ジョゼフ・ロッシに捧げる追悼盤。パリの裏通りに住む人々が、愛してやまないミュゼットが、モダンな響きを奏でながら今ここに甦る。

【パリ・ミュゼット Vol.3 解説書の一部】
フランス中部のオーヴェルニュのミュゼット(バグパイプ)音楽に起源をもつパリの「ミュゼット」。今ではアコーディオンでパリの下町情緒をかもし出す音色として親しまれている。そのミュゼット界の相次いで逝去した巨星たちに捧げる追悼盤である。



1930年代にパリで流行ったアコーディオンによるダンス音楽、ミュゼット。いわば巷楽、ジャズやらタンゴやら人々の間にうつろいゆく時々の音を取り込み、絡みつく生き様を掬い取る。あまりに典型的なパリの音だがその響きには紋切型の連想を拒む強さがある。
戦前のパリで一世風靡したダンス音楽が、ネグレス・ヴェルトら新世代の登場に伴い再び脚光を浴びる中、その名手たちの新録がリリースされた。おおむね三拍子が支配的だが、アラブ/アフリカに通じる複合リズムも時折り混じる。これがパリ本来の顔かも。



「パリ・ミュゼット Vol.2」

【パリ・ミュゼット・シリーズのコンセプト】

本シリーズは当初、ミュゼットのさまざまなアスペクトを音で体系化するコンセプトだったらしいが、ミュゼットの真髄を知っているベテランの死去で録音の継続がむずかしくなった。そこで、すでに録り溜めてあった音源をまとめて1枚に収録したのがVOL.3というわけだが、そのためここにはトニー・ミュレナやゲリノ、ペギュリ兄弟といった歴史的アコーディオン奏者たちの作品と現代の奏者たちの ネオ・ミ
ュゼッドが混在している。しかしそれは、散漫な印象を与えるよりもミュゼットの多彩な性格を浮き彫りにして、かえって面白い結果を生んだんじゃないかと思う。このアコーディオン音楽は、純粋芸術をむやみにありがたがるフランスで奇蹟的に雑種性を生命とした音楽なのだ。

【下町のローカルな音楽から生まれたミュゼット】

どこかにも書いたが、ミュゼットは100年前のパリのストリート・ミュージックだった。シャンソンやクラシックとちがって、インテリが頭で創り出した音楽ではなかった。なんせミュゼットの黄金時代を支えたアコーディオン奏者たちは、のきなみゴロツキ上がりでしたもんね。リヴァプールやロンドンの不良少年がロックの全盛期を創り出したようなものだ。だからこそミュゼットは妙な先入観や理屈にとらわれず、イタリア人の音楽でもロマ民族のそれでも、気に入ったものをどんどん採り入れた。まあ、アコーディオンがイタリアから入ってきた当初はルーツ・ミュゼットの楽器キャブレット(小型のバグパイプ。アコーディオンに取って代わられるまで、ミュゼット演奏の主要楽器だった。別名をミュゼットといい、音楽ジャンル名のミュゼットはこれに由来する。)の支持派とのあいだで一悶着あったが、そんなのは過渡期のささいなハプニングにすぎない。ミュゼットは大筋において、オープン・マインドな音楽だった。種々雑多な異文化を取り込み、そうして雑草的な力を蓄えたからこそ、パリの下町のローカルな音楽から全仏的な国民音楽にのし上がり、1世紀にわたって生きながらえることができた。







最終更新日  2004年10月26日 10時32分59秒
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