2007/07/02(月)02:29
パトリック・ジュースキント『香水』を再読した。
3ヶ月前、これを原作にした映画『パヒューム』を見逃した。
中身はどうあれ、観たい作品である。
小説が発表されて20年、ジュースキントには、絶えず映画化の話があったらしいが、
絶えず断り続けてきたらしい。
ここに来てなにゆえ?
監督のトム・ティクヴァは『ラン・ローラ・ラン』を撮った人。
確かにこの映画は面白かった。画期的なアイデアがいっぱいだったし。
うーむ、気になるなあ。
原作について言えば、これはアンチキリストがテーマだろう。
キリストがいてこそのアンチキリストであり、その逆もいえる。
アンチキリストの存在あってこそ、キリストの正当性が立派に謳えるわけだ。
だからこそ、主人公グルヌイユも、自身を「神」として、君臨させることができた。
彼の特異な才能によって生まれた香水には、その力がある。
善も悪も常識も孤独もどうでもいい人間が神になって、それでどうなるか。
愛すらも作り出せる力を持ち、その気になれば人類の王として存在することも
できるのだが、最後の最後に、小説は、自己をめぐる究極へとなだれ込んでいく。
誰とも世界を共有していない人間の、愛と悪意が交差する結末。
一体誰が一番のアンチキリストなのかも、考えさせれる。
二元論でありがちな「正義が勝つ」、または「和解」とか「救い」という
落としどころにもっていかないのが、この小説のイイところだ。
人によってはあれが「救い」だと思うかもしれないけれど。
生きるために生きる(生き物を殺して食べて自分が生きる)とか、
何かの価値を信じて生きる(なんらかの信念に従って生きる)とか、
人間の本来性として説かれてきたことは色々あるだろう。
いわばこれは、欲望によって生きる、と言い換えてもいい。
『香水』は、自己愛的な極北としての欲望の物語なのだ。
プロセスにおいては、なんら疑問や矛盾を感じずに欲望をまっとうしてきたグルヌイユ。
神とは、欲望の先端なのだ。
ここで示されたおぞましい欲望の姿は、そのまま人間の歴史であろうし、
自分自身の姿ともいえる。
ひとつの側面、ぐらいの言い方が妥当ではあるだろう。
もう一点、この小説の面白さは、舞台となっている18世紀のフランスの描写だ。
ロココの宮廷文化が華咲く世界や、科学・啓蒙の世界が、ちらりちらり見え隠れして、
グルヌイユが闊歩する香りの道程が、大変ににぎやかに艶やかに迫ってくるのだ。
映画のDVDは9月発売らしい。
欲望の先端に私も立っている。