美に生きる【第2部】/林 武
見えども見えず、存在の真なるものを求めて描きえず、その絶望の果てに、絵描きへの執着を捨て去ったとき、描くべき外界の美をつかんだ。僕は“美を見た”のであった。P117つりあいとは、相反する二つが相半ばして一つになることである。P118このつりあいの究極を求めれば、それは、有と無、あるいは生と死とのつりあいであり、それは宇宙の根元的な力であり法則であり、そして、人生の知恵であり、モラルであり、愛であり、美であった。P119美なるものには、人間の、よりよく生きんとする心がある。P122われわれの一生は欠けの連続であり、それを埋めるのに懸命な毎日である。P130欠けこそが、生きていることの証しとなる。食事をする。恋をする。すべて欠けを充足し、ならす生の営みである。欠けはならしを求める生の姿であるがゆえに、なまなましい美となる。P134生も美の追求も、一つの欠けを満たしならしたあとには、また新しい欠けが現れる。絶えることのない欲求の連続である。生きるとは、永遠に欠けを追う人間の営みである。芸術の対象もまた無限の欠けである。そのゆえに、芸術家の前途は永遠に調和を求める無限軌道である。P135その永久の欠けを、芸術家は作品によってならそうとし、一般の人はそれぞれの職業によってならそうとする。こうして人間は、つりあいという永久の営みを営む。美の追求は、結局、人生をいかによりよく生きるか、ということの追求であった。P136絵画とは結局構図がものをいうのであって、全体の構図によって部分が生きるのである。 P166古人の跡を学ばずそのなしたるところを学べ/松尾芭蕉 P175人間はみな、よさというものを求めている。だから、よさのある絵はこだわりなくよさが打って来るはずなのである。P183なにが描いてあるかをまず気にするのは、ごく初歩の段階の鑑賞であるが、やがて、しだいにつりあいの美を感受するようになり、別な意味で芸術の本体のよさがわかるようになるのが鑑賞の進歩である。わかるのでなくて感受するんである。 P184「いま」は永遠につながる。個が広大無辺の宇宙空間とつながるように、いまは、永遠の時間につながっている。いまは空前絶後である。われ、という存在もまた空前絶後である。「われ」が「いま」ここに在るということは、きのうにもないし、あすもない。P191個性とは、普遍性をつかむひとつの個的才能なのである。個は全体に生きるために、ひじょうな苦しみを通過する。孤独になるということは、周囲を拒否し否定するものではなかった。それはまず、真に個というものを確立するのである。全体への認識は、そうすることによって、はじめてできる。P199人間は、他を生かすこと、全体を生かすことを中心に生きなければ、結局は、自分もほんとうに生きられない。だから、自分という個を全体の中に生かしていく、それが人間の生き方である。P201幸福とは他を生かすことだ。自分一個のことだけ考えるのではなく、自分の周囲や、ひいては全体のためを思うことである。P202努力がまず義務であり、それに従い、それをこえたとき、努力もないし義務もない舞台がひらける。ほんとうの幸福はそのときくる。 P204僕がどんなわがままをしても許せる愛情と僕の絵に対する尊敬―それだけは、日ごとに深くなっていくらしい妻である。そして、妻はそのことを神仏に感謝しているようである。夫が妻から自分の仕事を尊敬される。これは実に、なにものにも増してありがたいことだと僕は思う。P210