洗礼までの不思議な体験
こんにちは今日はぼくがクリスチャンになった時のとっても不思議な体験について書きますフリーページでも書きましたが、ぼくは中学3年生の冬にイエス・キリストを自分の救い主として受け入れました。そしてその翌年の4月から教会に通うようになりました。毎週教会に行くことはぼくにとって心からの喜びでした。そしていろんなキリスト教のテレビ番組を捜して見ていました。これも不思議なんですが、当時はキリスト教の番組がけっこうやっていたのです。そしてそういう番組を通していろんなクリスチャンのお話を聞き、学んでいました。それはとっても幸せでした☆★☆★☆★☆★☆★ さて、教会に通うようになってから数ヵ月後の事です。その日も教会に行き、礼拝をささげていました。そして牧師の説教も終り、お祈りをされていたとき、「お祈りの途中ですがそのまま目を閉じたまま聞いてください。もし今日イエス様を信じたいという方は手をあげてください」と言われました。ぼくはその質問を聞きながらあのテレビの前での出来事を思い出していました。そして質問は続きました。「もしイエス様を信じて洗礼を受けたいという方は手をあげてください」と言われたのでした。ぼくはクリスチャンとなるきっかけとなったキリスト教のテレビ番組やそこから出版されている本、またその他のキリスト教番組を通して洗礼の意味は知っていましたし、受けたいと思っていました。そしてぼくは直ぐに手をあげたのです ビックリしたのは教会の人たちでした。大人の人たちを対象に質問したそうで、まさか高校1年生の男の子が手をあげるとは思わなかったそうです。しかも間髪入れずにです。 でもぼく自身は真剣そのものでした☆それから洗礼を受けるための勉強会が始まりました。その時から大変な経験をしたのです。☆★☆★☆★☆★☆★「洗礼を受ける」という決心をしてからというもの、ぼくの内側で何か変な思いというか声というか、そういうものが聞こえてきたのです。それはこういう思いでした。「お前は本当にクリスチャンだと思ってるのか?お前がこれまでしたことを思い出してみろ。中学生のくせにタバコを吸っただろう。お酒も飲んだろう。キセルをしただろう。万引きもしただろう。。。。うぬぼれるのもいいかげんにしろ!クリスチャンになるというのはもっと普通の人のなることだ。自分の立場をよく考えてみろ!」ぼくはその思いがくるたびに落ち込みました。まったくそのとおりだと思い、その度にへ込みました。でもそれと同時に「いや、違う!ぼくはイエスさまを信じたんだ。救われたんだ!」っと思いました。その連続でした。☆★☆★☆★☆★☆★その年の秋、キリスト教のテレビ番組で「キリスト教の伝道集会が東京であるから来てください」というような案内をしていました。ぼくは「これは大変だ!行かなくちゃ!!!!!!」って思い、電車で行きました。そしてそのお話しを聞き、その中で「イエスさまを信じる人は手をあげてください」とその講師の先生が言われたので、ぼくは手をあげました。そして「信じた人は前に来てください」と言われたので前に行きました。そしてそこでクリスチャンの方からカウンセリングを受けました。その帰りは嬉しくてウキウキしながら帰りました。ところがその喜びの帰りの電車の中でまた声と言うか思いが来ました。「何をうぬぼれているんだ!自分のこれまでやってきたことをわきまえろ。」途端にシュンとなってしまいました。。。☆★☆★☆★☆★☆★さていよいよ洗礼の日です。それは12月のクリスマスの前の日曜日です。当時その年一番の寒さと言われていました。その朝も救われたきっかけのキリスト教の番組を見ていました。それはエルサレムからの放映で、クリスマスの意味についてわかりやすく話されていました。そして礼拝に行きました。説教も終り、いよいよ洗礼式です!白いガウンみたいのを着て、まず簡単な洗礼を受けるまでの事を話し、賛美をし、洗礼を受けるための水槽に入りました。「うっ、冷たい。。。」でも水の冷たさ(もちろんお湯交じりです)も慣れてきました。そして洗礼がほどこされました。☆★☆★☆★☆★☆★牧師がまず「イエス・キリストの御名によって洗礼を施す」と言って、そして水槽の水の中にぼくを沈めました。その時、今でも忘れられない不思議な経験をしたのです。水の中に沈められて水から出た瞬間です。体中が暖かくなり震えてきたのです。そして内側から喜びというか嬉しさがこみ上げてきました。その瞬間「救われた~!!!」っていう思いが全身を駆け抜けたのです。それ以来、「うぬぼれるのもいいかげんにしろ!」という声も全く聞こえなくなりました。そしてイエス様によって救われたことに対する疑いや不安も全くなくなったのです。この時からもうずいぶん年月がたっていますが、今も全く無いです。今振り返ると明らかに「サタンの声」でした。でもサタンがどんなにイエス様を信じることを止めさせようとしてもそれは無駄な足掻きでした。それはイエス様は決してぼくを見放されるお方ではないからです。ぼくの友人で今は牧師になっている人がいて、その人が大学時代聖書研究会のリーダーをされていた時にこういうことを言っていました。「来る者は拒まず。去る者は追うよ!」イエス様ってまさにこれだなって思わされています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(新約聖書ローマ人への手紙8章1節)今、自分のこれからの事を祈っていて、そういう中でこのことを思い出し、イエス様は素晴らしいお方だなぁってしみじみと思わされています。ではでは