***(;^ω^)ちょっと待ってよ!早すぎるし★パンジ-で春を感じる料理を食す&小鳥たち
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2021年04月10日
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全17件 (17件中 1-10件目) エッセイ
テーマ:クリスチャン・ライフ(704)
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ 昨日から少しずつ寒くなって、今日は朝から肌寒く、夕方過ぎから雨 それにしても不思議な気候ですよね。 気候が不順で、体調を崩さないようにしないと風邪引いちゃいますね。 もう後数週間でGW、せっかくのGWも布団の中で過ごしちゃ悲しいですから、注意して整えていかないとですよね。
さてさて、最近、聖書を読んだりお祈りしている中で、神様から教えられていることがあります。 今日はそのことを分かち合いますね。 それは神様に聞くということです
ここ最近、ずっとそのことが語られているんです メルマガのスィーツバイブルで、ヨハネの福音書5章19~23節まで書いたんですが、その箇所の中で19節でこう書かれています。 それはやっぱり信頼だと思うんです。 ☆父と子との信頼関係☆
今リビングライフのデボーションでヨシュア記を読んでいますが、そこからも同じようなことが教えられています。 モーセを通して神様がユダヤ人たちをエジプトでの奴隷生活から脱出させ、いよいよ神様が導こうとされる約束の地が間近というところまで来たのですが、でもそこに行くにはまずヨルダン川を渡んなくちゃいけないんです。 彼らがヨルダン川に着いた時って、刈り入れの間って聖書に書いてありますが、小麦と大麦を収穫する時期で、その時は春の雨と言われる雨が降り続く時期で、しかもそれプラスヘルモン山の雪解け水が勢いよく流れ出て、ヨルダン川が氾濫する状況でした。 そんな状況の時に、神様はヨシュアに対してこんな約束をしたんです。
この時って状況を考えるとえぇ~?!ってなっちゃうと思うんです。 だって人間的に考えたら氾濫する川を渡るし、目の前できっと凄い勢いで氾濫しそうな川を見てるから。。。
でも彼らは神様の御声に聞き従って、祭司が足の裏を水の中に浸した時、岸いっぱいにあふれていたヨルダン川が突然に上から流れ下る水はつっ立って、「はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられ」(ヨシュア3:16)、そこを渡ったんです。
ぼくはこれを読んで、あぁ、神様は今御自身に信頼して聞き従うことを教えようとされているんだなぁって感じたんです。 ヨシュア記を今4章まで読んでいるんですが、そこで教えられることって神様への信頼と聞き従うことなんですよね。 これがヨシュアのスタンスであり、イエス様のスタンスでもあったんです。 ヨシュアはヨルダン川の川岸に着いてから三日間そこに泊まり、その間は行動しなかったんです。 その間、神様にどうすればよいのかを聞いて、その応答が上のみことばなんですよね。
イエス様もそうです。 イエス様は忠実に父なる神様にどうするかを聞いて、その応答に従って行動されました。 十字架にかかる前もそうでしたよね。
ぼく、思うんですが、そこには命のかよった人格的な交わりがあったんだと思います。 英語でいうと"Personal Relationship"という言葉で表現できます。 残念ながら日本語でどう言えば良いか難しいんですが、愛に満ちて血のかよった命流れる人格的な交わりです。 そういう深くて暖かい関係がヨシュアと神様との間に、そしてイエス様と父なる神様との間にあったんだなって思います。
そういうパーソナルな関係、イエス様と父なる神様との間にあるような関係、そういう関係をイエス様との間でもっともっと持ちたいなって願っています。 その愛で周りの人との間でもパーソナルな関係を持ちたいです。 聖書にも互いに愛し合いなさいって書いてありますからね。
そしてこのイエス様とのパーソナルな関係こそが、イエス様の御声に聞き従う土台だと思うんです。 これって肩に力入れるんじゃなくて、リラックスしてイエス様を楽しむことが鍵だと思うんです。 イエス様は今遠くにいるんじゃなくて、ぼくの内にいてくださっていますからね。 ぼくはただイエス様に依存して信頼して、イエス様の信仰で歩んでいくことなんです。 そしてこのお方とゆっくりと愛の交わりをする。 イエス様~ってイエス様に語りかければ、イエス様は優しく答えてくださいます。 自然体でゆったりとイエス様とのデートを楽しむんです
ここ数日間、実は礼拝のメッセージもヨシュア記からじゃなかったんですが、おんなじような事が語られました。 面白いですね 神様はいろんな形でぼくに語ってくださる。 それだけぼくのことを愛してくださっているんですね~☆
ここ数日間、こんなことを教えられました。 自分の思いとか願いとか、自分の願望とか、そういう自分の手で何とかやろうとするものを降ろして、イエス様が今語られることを聞きたいなって思います。 主がどんなご計画を用意されているんでしょうね~☆ とっても楽しみです 主はぼくが願っているちっぽけなことよりも遙かに優れて偉大な計画を持たれ、用意されているんですよね。 お互いに主に信頼して期待していきましょう!
なんか長々となってしまいましたが、最近感じていることを思いのままに書きました。 ではでは
※いつもありがとうございます。 まぐまぐ! メルマ! めろんぱん カプライト またお友達や教会の方にも紹介してくださるととってもうれしいです。
また同じ内容をスィーツバイブルというブログでもやってます。 ここです。 是非お越しください☆ どうぞよろしくお願いします<(_ _)>
2007年03月03日
テーマ:クリスチャン・ライフ(704)
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ 早いもので3月ですね☆ で3月に入ってまだ3日ですが、このところ暖かかい日 でも花粉が~~~・・・ 最近花粉症の薬のせいで体がダルダルです 眠くて眠くて 何かぽわ~~~っとしています。 でももう春なんですよね~。 何かホッとします
で、今日はテンプレートを変えました。 まだ時期的にはちょっと早いですが、桜 暖冬ということでね それと3月なので気分的にもこっちの方がいいなぁって思って、桜 春っぽいしね
さて今日は最近感じていることを分かち合います☆ それは「時」についてです。 聖書にはこういうみことばがあります。 天の下では、何事にも定まった時期があり、 すべての営みには時がある。(伝道者の書3章1節) 今の時代、インスタント時代で何でも早ければ早い程良いとされてますよね。 食べ物もレンジでチンすれば直ぐに出来るし、手紙もEーメール、荷物だって翌日には届いちゃうっていう具合に早いことが美徳ってされてるように感じます。 だから本当に「待つ」っていうこと、堅い表現をすれば「忍耐」ですね、これって口で言うのは簡単だけど、実際問題、その時になると本当に難しいと思います。 だから神様に聞く前に自分で行動しちゃう。。。 でもそういう時ってうまくいかなかったり、空回りしたりしちゃいます。 ぼく自身何度となくこの失敗をしています。 そのことが本で指摘されていました。 日本には春夏秋冬って四季がありますよね。 どの季節も重要で、冬よりも夏の方が優れてるとか劣ってるとかって無いですよね。 冬には冬の良さが、春には春の良さ、夏には夏ならではの良さがあり、秋もしかりです。 冬の寒さがあるからこそ、春の優しい暖かさを楽しむことが出来ると思います。
私たちの人生の四季も一つ一つが重要なんですよね。 そして農夫がまず種を蒔き、肥料をやって秋に収穫するように、神様もその時々、ご計画を持たれているだと思います。 神様は祈りに必ず答えてくださいます。 でもその間も重要なんだと感じています。 そしてその間って、その祈りに答えられるのに相応しい状態にするために整えていてくださっているんだなって思うんです。 耕しの時期なんですよね。 だから祈りの答えが与えられる間、神様に信頼し、神様との関係を深めて、神様の時を待ち望むことが大切なんです。 でずっとそのことが心に残っていて、思いめぐらしています。 今は待つときなんだなって。 そしてこの待っている間、神様はどのように耕されるのかってね。
今、「待つ」っていうことを神様は教えようとされてるんだなって感じています。 神様は祈りに答えてくださっていることを信じつつ、今待っている間、神様との関係をもっともっと深め、交わりを深めたいです。 主に信頼しつつ。。。。。
明日は教会ですね。 それぞれの礼拝が豊かに祝福されますように☆ ではでは
=================================== ※いつもありがとうございます。 まぐまぐ! メルマ! めろんぱん カプライト またお友達や教会の方にも紹介してくださるととってもうれしいです。 どうぞよろしくお願いします<(_ _)>
2007年02月10日
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ 今日は少し寒い一日でした。でも2月っていう月を考えるとどうなんだろうなぁって感じます。 さて今日は朝から出かけました。で、行きに駅に行くまでの道を周りの景色を見ながら歩いていました。 そうしたらよその家のガーデニングなんですが、菜の花 菜の花が目に入って、もう春に向かってるんだなぁ~とか、このまま冬らしい冬もなく春になるのかなぁって考えました。 それと菜の花ってまだちょっと早いような気もしました。 そんなことをぼんやり考えながら駅に向かい、電車に乗ったんですが、車中、ふっと一つの思いが内側に来ました。 たった一本の菜の花、この花の鮮やかな黄色は神様が創造された色なんだなぁって。 そして可憐な菜の花の美しさは神様の創造の現れなんだなって。 都心に行けば大高層ビルが建ち並んでいます。 そして夜になれば、よく「何万ドルの夜景」っていいますよね、綺麗な夜景とかネオンで光り輝きます。 時にロマンチックな思いになる方もいます。 でもこれら、人工的に人間の最高傑作として作られたものですが、たった一本の菜の花の美しさには適わないって感じたんです。 人間がどんなに神様の創造を超えたことをしようとしても、神様の創造の御業の前には幼い幼児の行動そのものです。 それを知らずに人間は自分のエゴとプライド、神様抜きで自分たちで何でも出来、いくらでも可能性があると信じ込んで行動しています。 約40年前に月に行った宇宙飛行士が月から地球を見て神様を見いだし、後に伝道者となったという事を聞いたことがあります。 神様の創造の御業の前に人間はどんなにはかなくおろかで小さな存在か、電車の中で思わされ、その神様に信頼し、神様を畏れる歩みをしていくことの大切さを感じました。 マタイの福音書の中でイエス様はこう言われていますね、
神様は私たちの必要を全て備えてくださっているんですよね。 そして野の草を、野のゆりを、そして菜の花を装い、そこに命を注がれた神様は、私たちにも主御自身のいのちを注いでくださっています。 この神様のいのちによって生かされているんです。 そしてこのいのちの流れの中で自由に歩んでいきたいです。 ハレルヤ! 明日は礼拝ですね。主がそれぞれの教会の礼拝を豊かに祝福してくださいますように☆ ではでは
=================================== ※いつもありがとうございます。 まぐまぐ! メルマ! めろんぱん カプライト またお友達や教会の方にも紹介してくださるととってもうれしいです。 どうぞよろしくお願いします<(_ _)>
2006年10月13日
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ このところずっとなんですが、一つのことを思わされています。 それは「自分にあって」っていうことと「キリストにあって」っていうこと。 先週、あるきっかけで自分の内側を見せられたっていうことを書きました。 その時、本当に自分の内側にはいいものが全くないなぁ~って痛感させられました。
でもこの一週間、いろいろなことを考えさせられて、自分にあっては確かに駄目だ、でもイエス様にあっては全く違う存在。 イエス様の十字架と共にすでにその駄目駄目な自分は死んでいる。そしてイエス様の復活とともに新しく生かされている。 キリストにあっては勝利だ! そう思うととっても嬉しくなりました。
今、ある本を読んでいます。聖書のベイシックのことをわかりやすく書かれている本です。 「聖書がおもしろいほどわかる本」っていう本です。 まだ読んでる途中ですが、一般の出版社から出されている本で文庫本です。 ある大きな本屋さんの棚の上に沢山平積みされていたので買って読んでるんですが、とってもわかりやすいし読みやすいです。
その本の中で罪についてが書かれています。 罪は私たちを造られた神様との関係が途絶えること、つまり自分の意識から神様を閉め出して、神様ではなく自分の意識だけで判断することというようなことが書かれていました。
神様とのいのちの交わりが薄くなり、内なる霊が神様と結びついていないとき、その時こそが"In mine"(私にあって)なんですよね。 そしてイエス様と一つ結びつけられているときが"In Christ"(キリストにあって)です。
もっともっと深くイエス様を愛し、イエス様の中で休みたいです。イエス様の愛に満ちて優しい優しい御手の中でいのちが通い合う愛の交わりをしていたいです。 そしてイエス様とぼくの霊が一つに綾なされて、イエス様の思いを現す歩みをしたいです。
主の愛の中でね。
早いもので今週も後1日、最後の一日も主の御手の中で休む一日となりますように☆ ではでは
2006年09月30日
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ この9月、いろんなことを考えさせられ、また主から教えられました。 前回の記事もそういう内容でしたね。
今回は別のこと、でも前回のとリンクしてるんですが、神様のご計画っていうことを分かち合います。
さてさて10月はどんな月となるんでしょうね。この10月、ただただ主に信頼し、きたいするばかりです。 どのような道が開かれるのか、どのような人と出会わせてくださるのかってね ハレルヤ!主よ、ただただ感謝します。あなたに心から期待しています。 この10月もあなたの御手の中にあることを感謝します。そして心から期待します。
2006年09月29日
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ 今朝はうちの方はあんまりすっきりしていない天候です。 でも昨日はとっても気持ちのよい一日でした。空も青空。ほっとしました
さて、最近気づいたことがあります。 それは「疲れてる」って言えないっていうことです。 この間教会の祈祷会に行った時のことでした。 ある人が「疲れてますか?」って聞かれたんです。 そうしたらその答えとして「うぅん、大丈夫☆」
でも実際は疲れてるんです。そう、どんなに疲れていても「大丈夫」ってがんばっちゃってるんです。 そんな自分の姿をはっと気づいたんです。 疲れてるのに「疲れてない、大丈夫
これ、もしかしたらイエス様に対してもそうしてるのかなぁ~って考えたら複雑な思いになりました。 イエス様は「すべて疲れている人、重荷のある人はわたしが休ませてあげよう」って言っておられます。 でも無意識に「イエス様、大丈夫ですよ。疲れてないですから。もっともっとあなたの為に出来ますよ~」ってメッセージを送っていたら何か怖いですね。。。。 イエス様は「わたしのために何かをしなさい」じゃなくて「わたしがあなたを休ませてあげるからわたしのところに来なさい」って招いてくださっています。
休むって大切ですよね。イエス様のところに行って休むこと、休めばイエス様が変わりにしてくださる。 まずぼくがやることはイエス様のところに行って休むこと。イエス様の御手の中に落ちることなんです。 もっと深くイエス様の愛の中に落ちたいです。その時、イエス様が全部の重荷をも下ろしてくださいます。
主の山に備えあり。すべては主の御手に 必要のすべては 主が満たしてくれる 心を騒がせず 信頼せよ 必要のすべては 主がなされるから 主の山に備えあり すべては主の御手に 必要のすべては 主が満たしてくれる
今日も主に期待して、主に信頼して、主の御手の中で休む歩みをしていきます。 ハレルヤ
いつもありがとうございます。
2006年08月13日
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ 前回は祝福を受け損ねたエサウについて書きましたが、実はその後もまた罪を犯しちゃったんです。。。 「エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。 エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。」(創世記28章6~9節) お父さんイサクはヤコブを祝福した後、カナン人の娘たちから妻をめとっちゃ駄目だって言いました。 どうしてでしょう? それはカナン人は異邦人だからです。そして偶像礼拝や主が忌み嫌うことを平気でやる民族だからです。 そういう人たちと結婚したらどうなると思いますか? 間違いなく罪の影響をうけるでしょう。 人間の本質を神様はよ~~~~~~~~くご存知です。 だからそのようにイサクを通して命じたんです。 ところがこともあろうにエサウは主が「しちゃいけない!」って言われた行為を腹いせでやっちゃったんです。 こうしてエサウ、後のエドム人は罪の家系に入ってしまったんです。。。。。 そのヤコブとエサウの関係が今日まで続いているんです。 だから中東の人たちは自爆テロをやってまでイスラエルに対して攻撃していきます。 イランはイスラエルが消滅することを願っているそうです。。。
そしてアメリカがどうしてテロの標的にされてるんでしょう??? それはイスラエルを支援しているからです。 もう一つの理由は十字軍との関係です。無論十字軍とアメリカとは直接的な関係はないです。 でも彼らにとっては「十字軍=キリスト教徒=キリスト教国=アメリカ=我々を大迫害した悪魔の国家=悪魔の国家を滅ぼすためには手段を選ばない=この戦いは聖戦だ!」っていう図式が出来てるんだと思います。 ただ十字軍に関しては、はっきり言います。彼らは真のクリスチャンではありません。キリスト教徒と言われていますが、聖書から逸脱していることです。 さてさて、ここまではおわかりになりましたでしょうか? では神様は今のこの中東の問題を果たしてどう見ておられるんでしょう? 決してこれをほくそ笑んで見ておられたり、楽しんでおられることはありません。 逆です。主の心は悲しみでいっぱいだと思います。 かつてイエス様はユダヤ人たちに「まむしの末たちよ」って言われましたが、同じように嘆いておられると思います。 この中東において、イスラエルとアラブ諸国との対立の間に立たれるのはイエス様です。 そのために十字架にかかられたのです。 イエス様はユダヤ人の救い主であられると同時に我々アジア人の救い主であられるし、アラブ人の救い主でもあられるんです。 ぼくが願うことは彼らが罪に目覚め、悔い改めてイエス様の十字架の救いを受け入れれることです。そのために祈っています。 イスラエルも同じです。イエスを信じ受け入れなければ彼らも罪人であり、はっきり言います、祝福は無いです。 聖書には「イスラエルの祝福を祈れ」って書いてあります。でもその祝福は彼らの救い以外無いです。決して戦争を正当化することが祝福を祈ることではないです。 パウロもペテロもヨハネも、そしてなによりも私たちの主イエス様も彼らに対してそのようなことはしていません。 残念ながらテロリストはこれからも消えないでしょう。また中東の因縁も続くでしょう。もっと激化します。またロシアやヨーロッパも巻き込まれていくでしょう。 でも神様はこのまま黙ってはいません。必ず終りが来ます。それは裁きの時です。 そしてこの天と地は滅びます。 それが書かれているのが新約聖書のヨハネの黙示録です。 でも、それは私たちクリスチャンにとっては大きな祝福なんです。 その後、新しい天と新しい地が出来るからです。 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、紙のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。 『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。 また、神ご自身が彼らとともに住み、彼らはその民となる。 また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。 もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。 なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』 すると、御座に着いておられる方が言われた。 『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』 また言われた。 『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』 また言われた。 『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。 これが私たちクリスチャンへの約束なんです。これらのことは真実です。 その日、つまり今の天と地は滅びます。しかしその後に来る新しい天と地は本当に素晴らしいところなんです。 そこには年寄りも若者も、大人も子どもも、男も女も関係ないです。 また戦争も争いも、殺人も盗みも、痴漢行為なども無いです。 差別もないです。肌の色も、言葉も、背の高さ低さも、顔のパーツも、太ってるとか痩せてるとか、体型も全く関係無し。 そこでは永遠に10代のピチピチした肌のままでいられるんですよ。病気だって全くない。 だからアンチエイジングなんていう言葉はもうそこでは死語。記憶にすらないでしょうね。 そこでイエス様ご自身が私たちの涙をぬぐってくださいます。 さて、そこで私たちは何をするんでしょう? 聖書によると、私たちはキリストの花嫁だって書いてあります。そして今は花婿であられるイエス様が戻って来られる日を待っている状態なんです。 でも「えぇぇぇぇえええ、ちょっとまった~ でもね、聖書ははっきりとそう言っているんです。 つまり私たちの肉体的な聖別がたとえ男であっても、霊的には女なんです。これがイエス様から見た立場です。 ところが面白いことに父なる神様から見た立場は逆です。 肉体的な聖別がたとえ女であっても、イエス様が長男で、後は全員弟なんです。 おもしろいでしょ これが中東とイスラエルの関係の意味です。駆け足で大雑把でしたが、 参考になればと願います。 そして私たちに今出来ることは、彼らの救いのために祈ることです。 そしてこれからもっともっと世界は激化していくでしょう。我々日本人も巻き込まれるかもしれません。 でもそういう中でどういう態度を取るべきか、真剣に祈る必要があると思います。 だからとって何か特別なことをやるのではなりません。 今主から与えられていることを淡々と、そして喜びを持ってやることです。 またこれを読まれている方の中には、今日始めてキリスト教のことや中東の歴史について聞いたという方もおられると思います。 いかがでしたでしょうか? 難しいなって思われたかもしれません。でも、これだけは覚えておいてください。 イエス・キリストというお方は現実におられるお方であり、あなたがどうであるかに関係なく愛しておられ、あなたの罪のために十字架にかかられたのです。 罪とはもともとは「的外れ」という意味で、神様が悲しまれる行為や、神様を第一ではなく、自分や人間を第一とする考え、行動です。 また偶像礼拝と言いますが、神様以外のものを崇めたり、礼拝する事も罪です。 そのあなたの罪のためにイエス・キリストは十字架にかかられたのです。 このお方を受け入れてみませんか? その時罪が赦され、神様の前からその罪が無くなり、本当の意味での自由が与えられます。 イエス・キリストの御名で皆さんの祝福を心から祈ります ではでは
2006年08月12日
テーマ:クリスチャン・ライフ(704)
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ さて、前回の続きです ![]() ![]()
イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、リベカはその子ヤコブにこう言った。 「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。 『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』 それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」 しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」 それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。 ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。 ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが、 「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。 すると答えた。「私です。」 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。 「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。 国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。 彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」 すると父イサクは彼に尋ねた。 「おまえはだれだ。」 彼は答えた。 「私はあなたの子、長男のエサウです。」 イサクは激しく身震いして言った。 「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」 エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。 「私を、お父さん、私も祝福してください。」 父は言った。 「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」 エサウは言った。 「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」 イサクは答えてエサウに言った。 「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」 エサウは父に言った。 「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」 エサウは声をあげて泣いた。 父イサクは答えて彼に言った。 「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。 おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」 エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。 「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」」(創世記27章1~41節)
きっと長子の権利を売ったことなんてすっかり忘れちゃってるんだと思います。 でも彼は自分がやらかしたミスを刈り取る必要があったんです。 それだけ長男の権利は現実味を帯びていることだったんです。 だから彼は自分のやったことの刈り取りをここでしています。 私たちも神様の前にどうであるかをいつも思いながら歩む必要があると思います。 「罪の報酬は死である」 って新約聖書のローマ人への手紙には書かれています。 また人は「蒔いたものを刈り取らなければならない」とも書いてあるんです。 だからエサウはここで刈り取ってるんです。 ここでお仕舞。次回をおたのしみに~ ではでは
最終更新日
2006年08月13日 02時07分33秒
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テーマ:クリスチャン・ライフ(704)
カテゴリ:エッセイ
こんにちは~ 昨日はビックリしましたねぇ~ 真相はよくわかりません。余りにも事前に情報がうまく入ってきてて、なんとなくきな臭さも感じないわけではないです。。。。 何人かの方のブログでもこの問題について書かれていたので、今回はこの問題はどこから来ているのかを簡単に、本当に簡単にですが書きたいと思います。
中東と言われている国、いわゆるイスラム国と言われている国のルーツってどこにあるかご存知でしょうか? これがわかんないから、「中東問題はわけなかんな~~~い このドロドロ、昨日今日に始まったんじゃないっていうことはわかりますよね。 じゃぁ、いつからなんでしょ~ 実はず~~っとず~~~~っと前からなんです。 それは遡る事何千年も前のこと、気が遠くなるほどの昔からの事なんです。 具体的に言うと旧約聖書の創世記の時代にまで遡ります。 「アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、40歳であった。イサクは自分の妻のために主に祈願した。 彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカは身ごもった。 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は『こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は』と言った。そして主のみこころを求めに行った。 すると主は彼女に仰せられた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民よりも強く、兄が弟に仕える。』 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。」 (創世記25章19~26節) これはアブラハムの子であるイサクとリベカの結婚、そしてその二人から双子の赤ちゃんが生まれるという内容の記事です。 その双子の赤ちゃん、一人はエサウ、そうとうに毛深い人だったようですね。また彼は後に巧みな猟師となったと聖書には書かれています。 もう一人はヤコブ。彼はおだやかな人だったようです。でもこのヤコブ、凄いです。二人が生まれるとき、お兄さんのエサウの足のかかとを掴んでいたんんです! 実はこのエサウとヤコブ。これが全ての中東問題のルーツなんです。 えぇ~~~ このエサウの末裔が今のイスラム国と言われている地域に住んでいる人たちであり、アッラーはエサウの末裔です。 そしてヤコブ、彼の末裔が今のユダヤ人なんです。そしてその国が1948年に何千年も前に滅んでしまい、バラバラになったイスラエルが、何千年振りに再び建国したんです。実はこの常識を逸脱した出来事(常識で考えたら、何千年も前に滅んだ国が再建国するなんて考えられません。。。)、これが聖書で預言してあることだったんです!で、その先祖がヤコブなんです。 だからこの時代まで遡らなくちゃ中東の問題がわかんないんです。 では、この二人からあのようなドロドロになっちゃったんでしょう???
「さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。 エサウはヤコブに言った。『どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。』それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。 するとヤコブは、『今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい』と言った。 エサウは、『見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう』と言った。 それでヤコブは、『まず、私に誓いなさい』と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。 ヤコブはエサウにレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。 こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」(創世記25章29~34節)
エサウ、やっちゃった~~ 当時、自分が長男であるっていうことは特別な意味を持っていました。日本でも「長男である」ということは重んじられていると思います。 今はそれほどでもないかもしれませんが、一昔前までは「長男=跡取り」でとっても重要な存在でしたよね。 だから今でも「長男の嫁には。。。」っていう人もいますよね。 当時のイスラエルの社会ではもっともっと重要視していたんです。 長男であるっていうことは、神様から与えられている祝福を受け継ぐという意味があったからです。 なんとエサウ!こともあろうにレンズ豆の煮物とパンで大切な長男の権利を売っちゃったんです ばかぁぁぁぁあああああああ!!!っていう感じですねぇ~。 もちろん弟のヤコブも問題がありますよね。 それでもエサウのやっちゃったこと、大問題です。 実はエサウ、神様を第一にしていなかったんですね。もし第一にしていたら、自分が与えられている立場もわかっていたはずです。こんなおバカなこと、しなかったと思いますよ。 そうやってたった一食のごはんで大事な長子の権威を手放してしまいました。。。。 ごめんなさい、今回のは字数オーバーになっちゃったんでシリーズにします。 次回へつづく。。。
最終更新日
2006年08月13日 01時44分58秒
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2006年08月10日
テーマ:クリスチャン・ライフ(704)
カテゴリ:エッセイ
っていうか、朝から暑い~ 今日は台風一過で猛暑となりそうですねぇ~ この暑さの中なんですが、数日前の帰宅中、道を歩いていると 今日はそのことを分かち合います さてさて、突然なんですが、夏って暑いですね。当たり前なんですけどね。 で、暑いから嫌いだ!!っていう人も多いです。 ほんと、そうだと思いますよ。暑い日が続くと、とっても疲れます。 あんまり暑い日が続くとぐったりします。 で、暑いからとエアコンに当たりすぎると逆に体調を崩しちゃいます。 食欲も無くなるし、 それに冬なら服を重ねれば多少は寒さを防げるけど、夏はどんなに薄着をしても暑いものは暑い!!!
暑くて暑くてしょうがない時、日陰の中に入ったり、森の中に入ると、涼しさに感謝します。 ふぅ~ってどこからか風が吹いてくるとホッとしますよね。 夕方、外に出るとす~って爽やかな風が吹いてくると癒されますね。 夏だから風鈴の音が生かされて、なんともいえない癒しを感じます。これが冬だったら風鈴の音にこれほどの癒しを感じないですよね。 夏で暑いから海に行ったりして遊べますよね。 これって全部「発想の転換」、パラダイムシフトです。
さて、これってこの世にあっても同じだと思うんです。 この世はサタンの支配されています。罪に溢れてもいます。 聖書では人間のことをこのように定義してます。 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9) これ、別の訳ではこう書いてあります。 「人の心はよろずのものより偽るものであり、はなはだしく悪に染まっている。」 だから、「そうだ!!これがこの世だ!! あぁ~、この世はもう嫌だ~~」って思って悲観的に生きることも出来ます。 そして諦めモードになってしまうこともね。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5) これ、ぼくが好きなみことばです。 この世の中ってホント、悪に満ちているって誰もが実感していると思います。 テレビや新聞などでニュースとか見てもそうですよね。 どうして?????っていうようなことを平気でやる人もいっぱいいます。 でも、この罪に満ちている世の中にあって、イエス・キリストを救い主として受け入れたクリスチャンはイエス様がついているんです。 聖書では「イエス様のいのちを私たちは持っているんだよ」って書いてあります。 「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27) つまり、クリスチャンである私たちの内には霊があり、そこにイエス様が住んでおられるんです 私たちのうちにはイエス様がおられるんです。どこに行ってもですよ。 家にいるときも、出かけている時も、お風呂に入っている時も、寝るときも、起きる時も、学校や会社に行っている時もずっとです。 このお方がいてくださっているんです だからこの世にあっても勝利なんです、ハレルヤ!!!
さて、究極的な祝福に満ちた約束の地はヨハネの黙示録21~22章に書かれている新天新地ですよね でも、実はこの世の中でも実は前味わいを味わう事が出来るんです☆ だけどそれは、たとえで言えばデパ地下とかでの試食品 でもそれでも食べれば、実物はどんなに凄いんだろ~って楽しみになりますよね。 この前味わいの恵みに浸るには、イエス様とラブラブ このイエス様と愛 だからこの罪に満ちた世にあっても、その中で安息を味わうことが出来るんですよね これを「この世はいやだ~~~~!!」ってやっていたら、この恵みを味わえません。
主はあえて私たちをこの罪に満ちた地に置かれています。もちろんその目的が終わったとき、天に上げられます。 それまでの間、この罪に満ちた世にあって、私たちの内におられるイエス様との愛の交わりをデボーションや毎日の生活の中で味わうことです。 鍵はEnjoy Christ! イエス様を楽しむこと 先週からの猛暑の中、道を歩いていたとき、こんなことが思いの中に来て、とっても嬉しい気持ちになったんです
疲れることも多いですが、でもその中でもイエス様の夏の暑さよりも熱い愛で満たされ、このお方との深い深い愛の関係を持たれるよう、お祈りします。 そして皆さんが暑さの中、身体が支えられ、体調が崩れることのないよう、心から祈ります ではでは 全17件 (17件中 1-10件目) 総合記事ランキング
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