2024/09/05(木)17:53
長崎遠征記(その3)
<シーボルト記念館は車で入れない>
シーボルトはオランダ人だとばっかり思っていました。
オランダ遠征時にライデンにあるシーボルト邸に行ったことがあって、月曜日休館でショック受けたんですが、ドイツ人だったんですね。
こちらがシーボルト邸(鳴滝塾)の跡地とその隣に建てられた記念館です。
駐車場からびっくりするくらい細い道を上ってきました。
シーボルトが長崎にやってきたのは1823年です。
ドイツの町医者に飽き足らず、東洋に多くの植民地を持っていたオランダに行って、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、現在のインドネシアに派遣されて、そこから日本へやってきます。
日本は当時鎖国してましたから、唯一外に向かって窓の開いていた長崎出島のオランダ商館医になりました。
来日した翌年には鳴滝塾を開設して、西洋医学(蘭学)を日本の医者たちに教えます。
1826年にはオランダ商館長に随行して江戸に赴き、将軍徳川家斉に謁見しました。
西洋医学の知識を与えるだけでなく、日本の植生や地理、鳥や動物たちにも興味を持って、お抱えの絵師に色々描かせているんです。
出島に植物園まで作って、数千種の押し花標本も作りました。
医師、植物学者となっていますが、実際にはもっと多くのこと、地理や動物や風俗にも興味を持って研究し、日本に関する本も出版しています。
どうも東洋研究と銘打って日本のあらゆる情報を収集し、それをオランダに送っていたようです。
産業スパイ的な仕事も副業として、もしくは本業で行っていたのかも。
日本女性の楠本滝との間に娘イネが1827年に生まれました。
シーボルト肖像画(お抱えの絵師:川原慶賀筆)
1828年に帰国する際、運悪く船が座礁して、積荷の中に国外持ち出し禁止の日本地図があったことからシーボルト事件が発生します。
伊能忠敬の地図作りに幕府との橋渡し役として活躍した高橋景保が、日本地図の写しをシーボルトが持っていた世界地図と交換したようなんですね。
シーボルトは日本に帰化したいと申し出ますが国外追放となり、高橋景保は獄死。
シーボルトに教えを受けた多くの蘭学者がとばっちりを受けたようで、この時船を座礁させた台風は、シーボルト台風と呼ばれているそうです。
シーボルトの娘、楠本イネ
オランダに帰国したシーボルトは、日本研究で有名になって勲章をもらったりドイツ人貴族の妻を娶ったりします。
日本に残してきた娘のイネさんは、日本初の女性産科医になられたそうです。
事件から30年後、開国した日本に長男アレクサンダーを連れて再びやってきて、日本と諸外国の橋渡し的な役割を果たしたとされています。
日本で採った紫陽花には『お滝さん』の名前から『オタクサ』と学名をつけました。