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えのき茸太郎

えのき茸太郎

ひとまず調停を終えて

反省として。
・一回目は「順序を踏む」と言う事で調停の形も良いが、あまりにもまとまらない予想が立っていた今回の場合、早めに審判にもって言ったほうが良い結果になったかもしれない。
少なくとも、年二回と言う形は出てこなかったんじゃなかろうかと思う。

そもそも、今までの相手方行動、性格など、知りうる限りで想像すればマトマラナイ可能性は高いと予想出来たはずである。
後だしの考えだけど。
客観さに欠けていたか・・

初体験で解らない事ばかりではあった。
もっと勉強しておこうと思う。

次に予想される問題時はH18.03。
このときに子ども達がどのように成長しているかにもよるけれど。
・・・どうなるかな?
自分の事ではないだけに・・・
子どもが中心人物なれど、中心に立てない・・そういう形だから、やりにくいのはやりにくいのだ。
子どもの考えで会う会わないの主張があれば、それが一番の理由になる。

しかしだ・・
相手方と暮らしている子ども達が、相手方の意に背く言動をとれるだろうか?
相手方が子どもの考え、子どもの存在を個人の存在と認めるなら、大丈夫。
しかし、相手方はそのような人物ではない。と言うのが今までの感想。
そもそも。そうなら調停でもめたりはしないのだ。

相手方から伝わってきたものは
・再婚家庭で自分の立場を確たるものにすること。
調停時のセリフ、はなし、調停前の手紙。そのどれをとっても「私が」「私を」である。
子どもがどうという話はなかった。
つまり、「子どもは私の良い様に意って聞かせる」
と言った所か・・

色々言ってはいたけれど、まあ「立場を確たる・・」も大事ではあるが、それらは相手方本人、とその周りの大人の問題であって・・
大人の問題は大人で解決しろ。と言いたい。
大人のために子どもを良いようにコントロール(支配)してしまおう。と言うのは・・・どうなんだ?
今風ではない気がする。
江戸や明治の時代なら・・子どもは親が楽するための労働力だったり、都合に合わせて減らしたり、売ったり(昔は親の心が痛むにしても、子は親の所有物。と言った所が有ったんではないか?と思うのだが・・そう考えると家族・家庭と言ったものの形にも疑問がある。限られた桶の中と言った印象をもつ)

今回私が疑問に感じた(わからない部分)所は
個人の尊重される部分。家族とは。親子とは。

明確な答えは無いかも知れない。無いのか。その時、人により、で違うものか。
であるなら、私の考えをより確かなものに進化させていく。と言う事が大事になってくるのか。
むむむ。
また何書いてるか解らなくなってきたぞ。


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