無限に広がる夢の彼方へ…

2007/01/10(水)08:49

白虎隊レビュー

白虎隊、それは幕末の会津藩で薩長と勇敢に戦った15~17の若者達の呼称。 お国のため天子様の為、命を惜しまず戦う事を武士と教え込まれた若者達。 会津の教えは 「ならぬものはならぬのです」 が基本姿勢 「卑怯な事はすべからず」 天子様の「京から長州を追い出せ」との命で、当時の藩主、松平容保は京にあがり京都守護職として薩摩藩と手を組み長州藩を京から追い出す事に成功する。 だが諦めきれない長州は軍勢率いて蛤御門で薩摩と会津とぶつかった。 その間もなくその時の天皇、孝明天皇が崩御され、幕府も政権を朝廷に返却した。 薩長連合は徳川追討令をだした。 その間をおかず松平容保は会津に戻り薩長を賊軍とし、断固戦うことを決める。 戦局的に会津は不利だったのだが会津魂根強い会津武士は最後の最後まで会津のため天子様のために働く。 1868年の八月、青龍、朱雀、玄武、白虎と年代順に別けられたうちの1番若い白虎隊に出撃命令が下る。 その日のうちに出撃し、4時頃には戸の口原で待機。 薩長一派と激戦繰り広げるも火力の差にて敗退する。 白虎隊はちりちりになり逃げ、白虎隊士中二番隊のうち20名は命からがら飯盛山まで逃げ、山上から最後の頼みの鶴ヶ城を見ると城は燃えてるように見え落胆した白虎隊士達は自刃した。 このうちの一人、飯沼だけが後に蘇生し昭和6年77歳まで生きる。 一方、途中はぐれた酒井峰治は手柄をたてられず敵の手に掛かって死ぬより自ら死ぬ決意をするも愛犬クマにすんでのところで防がれ一命を取り留め会津へ戻る。 会津へ戻り峰治は城下で立派に戦い昭和7年81歳まで生きた。 白虎隊士の自刃より一月後、会津藩主松平容保は降伏し会津戦争は終結した。 とまぁ簡単に説明しました白虎隊ですが二夜連続放送をしておりました。 すごく悲しかったです。 まだ高校くらいの若者が会津のため天子のためと立派に戦って死ぬ。あるいは自刃する。 逃げれば卑怯。 会津の為に戦い死ぬ事を誇りとして教育され真っ直ぐに育ち、若くして死ぬ。彼等はどういう気持ちだったのでしょうか? 死にたくない?会津を守るためなら本望?今となっては計り知れませんが言葉とは裏腹に辛かったんじゃないでしょうか。 肉親を残して戦場に立つ。怖かったと思います。 テレビ放送では対象的な母親が描かれていました。 体が弱い母親で頼り愛されては死ぬに死に切れないと冷たくあたる母親。(本心は愛情たっぷり) 常日頃から愛情たっぷりに生きて帰れと教える母親。 どちらも正しいと思いました。 生きて帰ってほしいという願いは両母親一緒だと思います。 戦いのさなか、不利な戦況でこれ以上、無意味な血を流すなと家老の西郷頼母(さいごうたまも)が腰抜けと廻りから囁かれ、松平容保から謹慎を言い渡された後、一度だけ謹慎を解かれ城へ戻ったことがあります。 それでもまた降伏せよと主君松平容保に申し立てますがそれでも頑固として聞き入れられず再び謹慎処分を言い渡されました。 西郷頼母一族の女は子供までがみな腰抜けと蔑まれた西郷を思い誇りを胸に自刃しました。 潔いな…と。 なんだかんだと言っても昭和に入るまで激動の時代なんだな 考えさせられる時代。あっという間に駆け抜けた彼等には拍手ものです 白虎隊についてもう少し詳しく調べたいな これを書くのに三日かかっています。自分の文章力のなさが恥ずかしいです。 そして知識のなさも…会津戦争は知ってるものの内容まではわからないので機会があればまた調べてUPします

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