(しん)

(じん)
人生の取扱説明書
「岡田斗司夫連載バックナンバー」より
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/lib_priodical.html
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/priodical/torisetsu/index.html
詳しくは(↑)でご覧ください。 それぞれの「型別」に「自己操作マニュアル」を作って共著で商品にすれば後続の子供達の有益な道しるべとなり無駄な迷い道を通らなくても良くなると思います。(2004/10/20)


NHKスペシャルで「イチロー選手の偉業の軌跡」という番組を見ました。圧倒されることばかりでした。「細かいことの積み重ねがヒットを生む」という所に一番感銘を受け私の仕事にもそう心掛けたいと強く思いました。5月迄の不振は当然の調整期間だと言い切り納得のことだと断言したのには驚きでした。 できないことができるようになる所に人生の醍醐味があると思います。私も今までの不調な過去は準備期間だと思い「私の真骨頂はこれからですよ」と考えそう断言する事にしました。 p(^^)q (2004/10/16) 

知る喜びはあるものの単なる「物知り」では役に立たない時代になりました。インターネットの発達でプロ級の知識が無料で提供されるので平面的な並みの知識ではお金を払ってもらえません。狭い範囲で良いから独創的で自分抜きには成り立ち難い分野を開発することが重要だと思います。また、このサイトと同じように「無料の知識提供者」が多くなるごとに有料の知識の境界線がつき難くなります。(~ヘ~;)ウーン ただね、お金を払ってもらえるかどうかは知識の質以上に、お金を払う人とお金を貰う人の関係にあります。売り込みが上手ければ並みの知識でも素人にはわかりませんから大丈夫ですが、価値の無い売込みをすればする程、評判が悪くなりますから同じことですね・・・・・。(2004/10/30)





(しん)
進化論
「自然淘汰の法則」について突然変異により、強い、賢い種が繁栄するものと思っていました。しかし実態はそうではなく、環境に順応した者が、生存するというのを辞典をみて気が付きました。「適者生存」、正義が勝つとは限らず、才能豊かな者が世に出るとは限らないし、悪党が栄える時代もあり、凡才が持て囃される時代もあります。主義・主張に殉ずるのではなく、状況に応じて自分のみを、変化されるものが生き残るのです。「種」の立場から見ると「種自体の生存」が最大の課題ですから「個」の問題は個々の裁量に任せ、生き残った個体に「種の存続」を託せばいいのですから、気楽なものです。強いものは闘って生き延び、弱いものは闘いを避けて、生き延びればいいのです。「生存し続けること」「存在し続けること」が、最大の課題なのです。 
射精したときの無数の精子は一匹以外は全部死に絶えます。尤も卵子に遭遇できなかったら全滅です。このような過酷なことが身近に起こっています。((・o・)アッ オナニーは全量廃棄処分でした)しかし人体の内部で起こっている細胞分裂が、体外で、自分とは切り離されている所で行われている細胞分裂だと思えば、人の生死も騒ぎ立てる事でもないのかもしれません。 だから弱肉強食といっても食物連鎖によるエネルギーの移動に過ぎないものだと思えばまた些細な出来事のように思えます。・・・・・・ただね、自分本人にとっては大問題でね・・・・・理屈通りにはいかないことは分かってます・・・・・でもまあそう思うとすこし気が楽になりませんか?・・・・・・そうですよね・・・・らくになりませんよね・・・・・・m(_ _)m


「態度は状況の関数である」
職人的な美学は、妥協を許さない「独り善がり」な態度を取りがちです。そのある種の独自性がその職人の「商品性」でもありますが、「妥協するくらいなら死んだほうがましだ!」と、・・・・「生命の生き残りの使命」をないがしろにしがちであるために、不遇な生涯を送るケースが多いのはこのためでしょう。 職人的芸術的な作品は妥協を許さない自己の主義主張の中にあり、他と迎合する位なら死を選ぶのを本能的に知っているのかもしれません。
 魂に生きる職人としては当然の所業です。その生き方を人に強要するところがあります。私も気をつけます。

生命は種全体が生存するのが唯一の課題であり正邪は関係ない。それが即ち生命の選択すべき道であるということに、気が付いた「目から鱗」の日でした。

私は「ジャングル大帝」というアニメを見て育った世代です。主人公のライオンのレオは全ての動物が仲良く生活できる世界を造ろうとします。理想としては美しいのですが、「適者生存」から見ると、この理想郷は問題の多い状況でないかと思います。作者の手塚治氏は仏陀の影響を深く受けた人で、このように動物同士が争わず仲良く暮らす生活共同体を夢見たのです。 
 これには動物の個体数の自己制限が前提にありますが、お互いの肉を喰い合わず植物なら食べていいのか?と、云う問題があります。生命は他よりエネルギーを取り入れなければ生存できないのです。肉体を生かすだけの食べ物を最小限、感謝の気持ちで頂き、取り入れた生命の分量を育てて自然界にお返しすればバランスが保てるのです。生命の遣り取りは自分の肉体においても細胞間で行われている、新陳代謝に必要不可欠の日常茶飯事的な行為です。



(しゅう)
収益還元法と人間の価値
投資の世界には収益をもとにしてその「価値」を割出す手法があります。

・収益還元法
日本ではこの手法で収益価格を求めることが多いです。雑誌等で収益価格の検証とかが行われている場合には、この手法だと思って間違いないでしょう。この手法の一番の特徴は他の手法に比べて簡便なところです。計算式でいうと(総収益-総費用)÷還元利回り=収益価格 です。
還元利回りは4.5%~6%ぐらいで使われるのが多いとおもいます。 総収益には家賃・保証金等の運用益・看板使用料等が含まれます。総費用には減価償却費・維持管理費・修繕費・公租公課・損害保険料・空室損失等があります。ただ簡便ということはそれだけ、個々の物件の個性は出しにくいです。逆を言うと恣意性は排除されやすいです。
http://www1.nisiq.net/~iwano-t/income.htm

最近これを人間に当てはめて個人的な資産価値?を割出そうと云う試みがされています。これは参考値にはなるでしょうが、これをもって人間全体の価値をと云うのは噴飯物でしょう。車の速きをもって車の価値を絶対視するのと同じ事です。


(じゅう)
住宅建設
ハウスメーカーの住宅はカタログでも見ての通り最近技術も進歩しまして工務店レベルでは太刀打ちできない感じになりました。しかし依然として工務店レベルでの建設は多くの住宅を供給しています。品質の高さは定評はあるのですが、価格の高さと顧客の要求に柔軟に対応できる融通性に欠けるのかな?と、思ったりしています。住宅は自分という皮膚の延長として外殻を構成するわけです。その理想的な外殻は個々人で様々な要求で変化してきますが、ハウスメーカーのカタログ商品での選択では対応しきれないのでしょう。こうしてみると弱小零細企業にも契約を頂ける可能性が出てきて心強くなります。またその要求を図面化する設計士、またその要求そのものの取捨選択に建築家等の活躍の場もありそうです。(2004/10/1)



(じん)
人生経営計画書の作成
事業経営計画は企業の発展に顕著な効果を発揮します。同様に、人生経営計画書の作成により効果的な成果が期待できます。エネルギーの性質を利用して、自分を投資物件として最大の硬化性を発揮させる活用方法により、生き残りを目指す方法を述べます。 (エネルギー相似の法則により人生経営計画に応用できます。)

(生きる目標)
生存できる限り生き(個の存続)、後継者(種の保存)を育て、住みよい社会造りに貢献して、社会的な遺産を後継者に相続させることです。  (物質は結果的に存在しましたが、その存在が無目的であるように生命も結果的に生成されましたが、同様に存在が無目的となります。・・・・・・??????計りかねるところがありますがそう仮定します。(^_^;))

生命の生きる目標は、何とかこの世を生き抜き、通過するように寿命を全うする以外の他には有りません。慣性の法則より運動する物体は永遠に運動を続けようとしますが摩擦抵抗と引力により静止します。同様に誕生した生命は永遠に生き続けようとしますが、老化により死(静止)を迎えます。生命は生殖作用により新たな生命にDNAを託し永遠の運動エネルギーを繋げようとするのです。

私はこの世のことはこの世で収束すると思っています。この世が精神の修行の仮の世であるとしたら辛い人生です。使えもしない程のお金を追い求めることも、食べきれもしない程の食べ物を求めることも、得る利益より被る害毒のほうが多いでしょう。人口を破壊的なまでに増加させず、「生きている実感」を得ながら、なんとか皆で肩を寄せ合って生きていける、そんな生活環境を維持したいものです。

私は若い頃「輪廻転生」があると思っていました。だから努力を続けて立派な人間にならなければならない。・・・・・・これはかなり苦しかったです。・・・・・・よくよく冷静になって考えてみると、これはありもしない妄想の部類のことだと気が付きました。 頑張ることは競争のレベルを高めるばかりで社会の安定にはならないのです。外敵から身を守る技術を身に付けたり、食べるための職業に就くのは当然として、生命自体に目的性はないのですから「自分に厳しく相手に優しく」のような品格を磨きゆったりとして送れる世の中にしたいと思うようになりました。

人生50年位生きてきて親の年代が次々と死んでいくとなにやら人生を一通り見渡せた気分になります。「こんなもんだったか・・・・・・・」・・・これは達観したと云う高邁なことではなく、こんなことが延々と続いてきたんだなーと云う感傷めいたものです。つまりこのサイクルをなんとか続けられれば人生合格!ということにしたいです。(ーー;);; 


(理念)
 人に幸せを与え自分に試練を与えると上手く行きます。
自己の能力を伸ばし社会に貢献できる人間となることです。隣人とお互いに、うまく調和して生活していくための外向きの顔です。この世に生き残っている現存している人類は生命力の強い、ある意味では獰猛な動物より強い生命体です。この人類がお互いに調和できるように、この「理念」と「生きる目的」のバランスを取りながら生活しています。

(生活目標)
自分自身を高利回りの投資商品(無形文化財)に育成し、収益を再投資して資産家となり有意義な人生を送ることです。 理想に燃えるタイプの人は遠くの目標を意識し過ぎて、足もとの石につまずく愚を犯しやすいのですが、目標到達までの苦痛と達成の快楽が等しいわけではありません。生命は本来、無目的ですから、現在を犠牲にすることなく、それなりの所得を挙げながら、より大きな目標に邁進すべきでしょう。σ(^_^;; 詳しくはページの「人生計画作成マニュアル」をみてね。

死んだらお終い!?
私たちは死んだらお終いでしょうか?私は「この世のことはこの世でお終い!」と思います。私という肉体を持った「個の存在」である生命は「個体の死」でお終いです。ある著名な人は死後、作品・業績の中に語り続けられ、その中に情報として行き続けるかもしれませんが、その人の情熱の言葉を、体温を感じさせる生身の言葉では聞けません。従来の見方では「死んだら全てを失う!」と言う事になりますが、失うものはこの世に生きるための道具であり、あの世があるというなら、それらはガラクタの類に違いありません。

「私と云う意識」の元は何であるかという根源的なることを考えると自分の意識の殆んどを占める「万人の共通の意識」と、僅かの「個人的な経験」で構成されていることが理解できます。自分の消滅とは、この個人的な経験ですから、これを共通の意識化できるような、記録にしておけば末永く「個人の意識」として生き長らえる事が出来ます。

「なんとか数々の難所を通り抜けることができた!」
「それなりに美味しいものを食べ、楽しいことをした!」
「泣きたい時もあったけど十分に人生を楽しんだ!」

孫たちの楽しそうな話し声を遠くに聞きながら、薄れていく意識の恐れもなく、そして微風が心地よい真夏の夕日が海に落ちる暁の空に包まれ、潮騒が奏でるの漣の心地よいメロディを聴きながら老人は満足した面持ちで一人眠るように息を引き取った・・・・。



(これは映画のラストシーンになりそうです)



「私の存在」は確実にあるような気がします。確かに喜怒哀楽があるし呼吸も鼓動もあります。そして自分という存在が子供を通して生き続ける気がします。しかし自分と遺伝子の存在は子供は1/2となり孫は1/4となり、ひ孫は1/8となります。自分のひ孫は自分の親から見ると1/16、その親からは1/32となり、自分の面影は随分と薄くなります。「私と云う存在自体」が、先祖の遺伝子の借物の「たまたまの組合せ」に過ぎません。孫が可愛いのは自分が老いて死んでいくのに自分に少し似ている子供が成長していく姿に、生命を託する気になるためでしょうか? 
また、鼓動する心臓を持つこの我が身も水溜りに発生したボウフラと本質的には変わらず、存在の危うさが、身に沁みます。鰯などの小魚の産卵は一度に数万の卵を放出します。成魚になるのはその中のごく一部なのですが、これを人間に置き換えると、人類共通の生命の源から派生した個々の人間も、独立的ではあるが、繋がった共通の細胞のように思えます。

水槽に水を一杯に入れ数種類の着色した水を入れると、均一の色になるまで混ざり続けます。(エネルギーの差がなくなるまで運動を止めないためです)こうしてみると自分の遺伝子と思っていたものは、ある種類の借り物であったと同然のものです。

 エントロピーの法則
「物質とエネルギーは一つの方向のみに、すなわち使用可能なものから使用不可能なものへ、あるいは利用可能なものから利用不可能なものへ、 あるいはまた、秩序化されたものから、 無秩序化されたものへと変化する。」(ジェレミー・リフキン 祥伝社)



目標の明確でない人は、活動対象が散漫になり易く、成果が出難くなります。目標に対する活動範囲を制限する枠を設け、その中で運動するようにしなければなりません。 自分の考えであったと思った思想も、先祖の知識の集積による物を下敷きにして考えて、新たな組合せをしているに過ぎません。「自分という静的な存在は無い!」 点という存在の連結の存在が線になるように(点は位置を示す大きさのない図形)時の流れの特殊な状況の一瞬に存在しているのに過ぎないのです。

すべてのものは有限の存在ですし、すべてのものに周期があります。人間は飢えの恐怖で人口を調整すべきではなく、節約して食べ物を分かち合い寿命を生き延びることを最優先すべきです。自分が占有している「現在」の他にはなにもなく、自分が所有する財産は結果的には社会財産の一時占有であるに過ぎないのです。

それぞれが自分の得意分野で働き社会に貢献して、仕事をゲームを楽しむようにして無駄を作らないようにします。競争理論は「勝ち残るため」ではありますが、負かせるのが目的ではありません。競争はあらゆる無駄をなくして効率化させるものです。落伍者に再挑戦の機会を与え社会を悪化させないようにして、富の一極集中を避けるために税金等の再配分の仕組みを作ります。こうして「現在という瞬間だけが存在するこの世」で全ての人が労わりあって、なんとか天寿を全うしたいものだと思います。

「私と云う意識」の元は何であるかという根源的なることを考えると自分の意識の殆んどを占める「万人の共通の意識」と、僅かの「個人的な経験」で構成されていることが理解できます。

私たちは「死んだらお終いでしょうか?」 人としてすべき事をして天寿を全うした時は「お終い」というより、「人生の卒業」といったほうが、ぴったりの感じがします。私も「人生の卒業」ができるように精進したいと思います。



(じん)
人体デッサン
先日デジタイザーを購入しました。将棋仲間が見事な絵を描いているのを見て触発されたわけです。遠く昔の学生時代に、石膏デッサンと油絵を少しやっていましたのでそのおさらいを兼ねて人体の骨格図と筋肉図を何度も描いています。見るほどに人間、中身は殆んど同じだと感じます。 見れば見るほど猿とも犬にも似ています。

僅かな差を以って差別するのは、詰まるところ生命の人口爆発を防ぐ調整弁なのかもしれません。 であれば、痛みの感覚の鋭敏なる高知能の人間は、先んじて人口増による、生命の危機を未然に防ぐために「性欲」を自己管理できるようになり、生産余力を高める努力を続け、しかし消費を抑え、人口を一定に保てば、ゆとりある他人に(他の生命体も含めて)優しい世界になるような気がします。(2005/4/26)



(じん) 
人体の機能の延長
自転車は自分の足の延長としての働きがあります。自動車は馬以上に自分の足の働きを増幅させたものです。考え出された様々な道具は五感と手足の延長としての働きをもったものです。電話は耳の、眼鏡・望遠鏡・顕微鏡は目の、コンピューターは頭の優れた延長として考案されました。住宅は自分を守る皮膚の延長として、住宅から見ると、図書館は書斎の、レストランは食堂・喫茶店は応接間の延長でした。
さて最近の自動車は電子頭脳を持ったもう一人の運転者付の車になろうとしています。その結果、歩かなくなって運動不足になり腰痛になったりしたものが、更に進み運転の楽しみさえ無くしそうです。依存すれば「用不要の法則」からその機能は退化していきます。車の機能向上が自分の能力をサポートするのみとして、自分を甘やかせないようにしたいものだと思います。妻に頼りすぎると自分の立場が弱くなります。妻を自分の戦力とするには任せっぱなしにすることなく、コントロールできるよう自分の守備範囲を広げない事だと思います。




(しんぺん)
身辺の整理
歳を取るごとに物としがらみが増えていきますが、行動力と記憶力が減退する分、自分の体を軽くしてやった方が長持ちするようです。(2004/12/15)



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