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多岐さんのブログ

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2020.07.16
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プロローグ
 およそ一か月続きましたロシア・ヴォルガ河クルーズも昨日ロストフ・ナ・ドヌで終えました。
今日から、また、少し、趣向を変えて、タイトルにありますように名歌名曲に誘われた憧れの
地をランキング形式で綴ってゆきます。


10位 ローレライ(ドイツ ザンクト・ゴアハウゼン)・・・ラインの流れがあの難しい詩を思い出させた

 中学生の頃だったか、音楽の教科書に載っていたローレライの歌詞は楽譜の下に平仮名交じりで「なじかはしらねどこころわびて・・・くすしきちからにたまもまよう・・・」とあった。メロディーの美しさに歌詞は二の次で簡単に覚えてしまった。記憶というものは不思議なものであの頃意味も分らず覚えた歌が五十数年立っても忘れないでいることに驚く。それにしても、メロディーだけではなく、詩に漢字をあてて縦書きにしてもらい、情景の解説でもしてもらえればその意味も少しは分ったと思うが・・・

それはまだ旅行業界の駆け出しの頃の話。かつて、ヨーロッパ周遊旅行でドイツと言えば玄関口のフランクフルトからほど近いライン下りが定番だった。乗り場は大抵の場合リューデスハイムだ。それには理由があった。ここから下流のザンクト・ゴアハウゼンまで約2時間の行程。つまり、短くもなく長くもなく丁度よい時間と、左右に適度な間隔で14世紀の古城が見え隠れし、中州のプファルツ城なども突如として現われ、ともすると退屈な船旅に飽きがこない。そして、船旅の終わり近くに「待ってました」と言わんばかりに妖精の岩の意味を持つ「ローレライ」の岩山が見え、船上にあの「なじかはしらねど・・・」のメロディーが流れる。観光客は国を問わず母国語での大合唱になる。海外で体感する「平和」な一場面だ。恥ずかしながら、ザンクト・ゴアハウゼンで下船してガイドから「ローレライ」にまつわる話を聞き、歌の意味を教えてもらってあらためてあの自然暗記した歌詞が理解できた。以下に、格調高い「ローレライ」の歌詞を紹介するので歌ってみていただきたい。
関連の写真は歌詞の次に挿入しました。

ローレライ 

原詩:ハインリヒ・ハイネ 訳詩:近藤 朔風

 

なじかは知らねど心わびて

昔の伝えはそぞろ身にしむ

寂しく暮れ行くラインの流れ

入日に山々赤く映ゆる

 

麗しの厳(いわお)に立ちて

黄金の櫛どり髪の乱れを

梳きつつく口ずさぶ歌の声の

くすしきちからに魂(たま)も迷う

 

こぎ行く船びと歌に憧れ

岩根も見やらず仰げばやがて

浪間に沈むる人も船も

くすしき魔(ま)が歌うたうローレライ



(ヨーロッパを代表するライン川とライン下りの観光船・・・Wikimedeaより)


(右手が上流大きく湾曲したローレライの岩山。交通の難所だった・・・Wikimedeaより)


(美しき・・・都は言い難い、ローレライの乙女・・・Wikimedeaより)

さて、明日の第9位は・・・お楽しみに・・・

 







最終更新日  2020.07.16 10:46:40
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2020.07.15
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およそ一か月近くに渡って綴ってきたヴォルガ河クルーズも大団円のロストフまでやってきました。
最後になりましたが、2017年に乗ったエクセレンス・カタリーナ号のお部屋をご紹介します。


まずは、4階建てのの外観から・・・撮影:筆者です。
長さ、129.1m、幅、16.7m。搭乗人数200人。シングルのお部屋を含めて100室
サンクトペテルブルクからロストフまで19泊20日。(モスクワ経由)
このクルーズは春先はドックのあるロストフからサンクトペテルブルクまで、そして、
シーズン終わりの9月末から10月初旬にかけて、サンクトペテルブルクからロストフに
戻り、次の年までドックで整備が始まります。
2017年秋の時は、ニジニ・ノブゴロドからヴォルゴグラードまで船中6泊しました。
その時のグループは2012年にサンクトペテルブルクからモスクワまで9泊の船旅を
した合唱交流のメンバーでした。
このように、2回に分けてクルーズを楽しむこともできます。

次に、エクセレンス・カタリーナ号のお部屋をご紹介します。
枕の周りが乱れていますが、私が使ったお部屋です。この時は、シングルがいっぱい
でしたので、ツインのお部屋を使わせてもらいました。
2012年の時とは全く変わり、さしずめ、動くホテルと言った趣になり、大変快適な空間に


変わりました。
以前は列車のコンパートメントのような狭さに細いベッドが小さなテーブルを挟んだ形
でしたが、街中のホテルと遜色がない感じになりました。





ベッドの側から撮った一枚。左のドアが出入り口のドア。黒い画面はテレビ。右手に書斎机。
船にはwifiが無料で飛んでいるので、パソコンやスマホでyoutubeなど見放題です。


さすがにバスタブはありませんが、トイレ、シャワールームはお部屋とドアで隔てられ、
24時間熱いお湯が出ますので快適です。

最後に日本のトップクラスのバラライカ奏者の北川翔さんはロシア国立ラフマニノフ記念
ロストフ音楽院に特別奨学生として勉強していました。後年その音楽院でソロリサイタルを
開催しています。北川さんにとっても大変縁のある町です。

今年はコロナで難しいですが、いつの日か、ご一緒しましょう。






最終更新日  2020.07.15 11:17:40
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2020.07.14
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105㎞のドン・ボルガ運河を経て、モスクワの南を源に1950㎞の長さを誇るドン河を
航行してツィムリャンスク湖を渡り、湖の最南端の町・ヴォルゴドンスクから最終地点
ロストフ・ナ・ドヌ(ドン河沿いのロストフ)に入ります。
船はそのろロストフ・ナ・ドヌの2時間ほど手前のストロチャーカスクのコサック
博物館と正教会を歩いて観光します。
以下に、ヴォルガ河、ドン河周辺の地図と正教会の写真を掲載します。



(ストロカチェスクのロシア正教聖堂・・・Wikimedeaより)

そして、最終地・ロストフ・ナ・ドヌへ。ドン河の様子

(Wikimedeaより)
ロストフ・ナ・ドヌ(以下ロストフ)は現在120万人を擁する大きな町になりました。
歴史はギリシャ時代の植民都市から始まります他、11世紀にキプシャクに攻められ
統治されたぐらいでしたが、18世紀になり、ピョートル大帝がこのロストフに目をつけ、
ロマノフ王朝歴代の皇帝が力を注ぎました。

一番の苦難は、第二次世界大戦(対独戦争)で、カスピ海、コーカサスの東の石油に目を
つけたドイツと激戦が行われ、町は全壊しました。しかし、戦後は地の利を生かし、
今回ご紹介した通り、河川(ヴォルガ、ドン、スィヴィールなど)、運河(ドン・ヴォルガ、
モスクワ運河など)貯水池(ルイビンスカ貯水)、湖(ラドが湖、オネガ湖、白湖、
ツィムリャンスク湖など)の南の起点となり、アゾフ海、黒海、カスピ海、そして、バルト海
を繋ぎ、その先の七つの海までのつながりを考えますと、その壮大さに息を飲みます。
以下、2枚の写真をご紹介しておきます。

(ロストフの文化宮・・・Wikimedeaより)

(ドン河に架かる鉄道橋・・・Wikimedeaより)






最終更新日  2020.07.14 12:30:42
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2020.07.13
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アストラハンから船は反転して再びヴォルゴグラードを目指します。そして、ヴォルゴグラードの
南からヴォルガ・ドン運河に入ります。
運河の距離は101㎞。13の閘門(ダム)があり、ヴォルガからドン方向に行く場合、
9基のダムで88m上り、4基で44m下がります。昼間の航行なので、13基のダムを
越えてゆく様子は船マニアでなくても、閘門に入って、大量の水が入り込み、船を
持ち上げて、次々と進んでゆくので大変興味深く、写真に何枚も収めてしまう程です。

黒海とカスピ海を繋ぐこの運河事業のとりかかりは16世紀まで遡ります。しかし、
莫大な費用が嵩むことと、動員しなければならない人間の数の問題、さらには、
近隣との政治情勢の問題が常にあり、結局、この事業の計画から400年の歳月がかかり、
最終的には、第二次世界大戦後の1952年にようやく完成を見ました。

現在はドン河サイドからは主に石炭が・・・そして、ヴォルガサイドからは、主に、
カスピ海周辺で取れる石油が主な物資で、大変重要な航路になっています。
もちろん、観光船も行き交い、新たな南ロシアの夏の風物詩的な情緒も加わって、
ますます人の交流も盛んになっています。
明日は、最終目的地ロストフ・ナ・ドヌについて紹介しますが、6月21日から24日
かけて綴ってきましたヴォルガクルーズの旅も終わりに近づいてきました。
今日の写真は閘門に入って出るところの何枚かをご紹介します。撮影は筆者です。












最終更新日  2020.07.13 11:28:37
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2020.07.12
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ヴォルゴグラードから南東に進路を変え450㎞ほど下るとアストラハンがあります。
アストラハンから約100㎞先にカスピ海が広がりますが、大三角でヴォルガ河は
幾筋にも分かれます。
三角州の入り口のアストラハンはヴォルガ支流が11もの島を形成しています。
今日、商業、交易の拠点となり、カスピ海で獲れるチョウザメの卵、キャビアの
加工でも有名です。

アストラハンは古来より、攻防の拠点でしたが、14世紀にティムール、16世紀にイヴァン
雷帝、その後、オスマントルコなど次々と覇権争いの坩堝になり、大きくは、ロシア正教と
イスラム勢力の争いにロシア人、タタール人、オスマントルコにペルシャが加わるなど
いくつかの民族の為政者が目まぐるしく変わりました。
17世紀、かのステンカラージンがロシア政府に対抗しましたが、ピョートルに抑えられました。
そのピョートルはここに造船所を作り工業化を進めますが、新たな課税をめぐり反乱されました。
しかし、軍の力で抑え込まれ、後に、中央アジア侵略の基地に変貌してゆきました。

クルーズ船はこのアストラハンまで南下し、迂回して、再び、ヴォルゴグラードに戻り
ヴォルゴグラードの南からドン河に接続する運河に入ってゆきます。
以下、アストラハンのいくつかの画像を紹介します。
(アストラハンのクレムリン(要塞)の城壁・・・Wikimedeaより)

(ヴォルガ河から望む街並み・・・Wikimedeaより)

(ヴォルガ河沿いの遊歩道・・・Wikimedeaより)

(ヴォルガ三角州の典型的な風景・・・Wikimedeaより)






最終更新日  2020.07.12 10:18:11
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2020.07.11
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いよいよクルーズ後半のヴォルゴグラードをご案内します。
ヴォルゴグラードはかつてスターリングラードと呼ばれていましたが、フルシチョフが
首相になって、批判され、1961年にヴォルガ河の町、ヴォルゴグラードになりました。
しかし、年5回の記念日(スターリングラード攻防戦が始まった日、終わった日など)
には、スターリングラードを名乗っています・・・いささか、ややこしい・・・

現在、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けた共通性で広島と姉妹都市になっています。
街には、広島の原爆ドームのようなモニュメントが残っています。
写真は旧製粉所。この隣が戦争博物館になっています。
(Wikimedeaより)




(戦争博物館内のジオラマ展示・・・Wikimedeaより)
もう一つは激戦の丘・ママエフ・クルガン(ママイの墳丘墓の意)にに建つ母なる祖国像
(1967年設立)や戦士の墓やモニュメントで飾られた複合施設になっています。


(スターリングラードのシンボル、母なる祖国像・・・撮影:筆者)
ママイの丘はスターリングラードを見下ろす高台にあり町のの先にはヴォルガ河も見渡せ、、
ここを奪回するのは双方にとっての最重要ポイントでまさしくここから攻防が始まりました。
1942年9月から約半年続き、ソビエトは絶え凌ぎ、死守しました。
北レニングラード攻防戦と合わせ、ソビエトの2大攻防戦となっています。


(栄光の戦士ホール。衛兵の交代があります。撮影:筆者)


(母なる祖国像を望むモニュメント群・・・撮影、筆者)


(もう一枚のモニュメント・・・撮影:筆者)

戦士ホールを出たところで、広島合唱団の指揮者の高田龍治先生の音頭でうたった
”けし”が忘れられない・・・明日、facebookでご紹介しますが今日はその歌詞を
ご紹介します。
けし
ポジェーニャン作詞(合唱団 白樺訳詞)
フェジュニンスキーの丘よ
ママイの高い丘よ
夢は戦火に破られ
ふたたびかえらない
誰にもときは流れ
いくとせ河も流る
けしの花は変わらず
人は旅立とうとも

赤いけしの花、大地の思い
戦いに荒らされずに
荒らされずに咲く
この丘に 今も






最終更新日  2020.07.11 11:25:31
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2020.07.10
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サラトフの歴史は16世紀ごろまで遡ります。もちろん、12世紀のころティムールによって
攻められた歴史をもつものの、町の成り立ちは16世紀中ごろに、ヴォルガ河中流域が、
モスクワ領になってからといわれています。それは、ヴォルガ河運行船の警備のために
要塞が作られたことから始まりました。

サラトフの名前の由来はタタール語の黄色い山からきているという説が有力です。
現在、80万の人口をかかえる中級ですが、ロシア革命後、航空機製造、宇宙開発事業の
産業が盛んだったことで、ソビエト崩壊までは閉鎖都市でした。
また、独ソ戦のスーリングラード攻防戦の際には、物資供給を中心とした後方支援の役割を
担いました。

また、サラトフはヴォルガ・ドイツ人が多く住む街でした。1941年以前、サラトフの対岸
ボクロフスクはヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国の首都で、人口80万人
を数えました。
第2次世界大戦がはじまってから、シベリアやウズベキスタンに強制移住させられました。
そして、1980年ごろに、残ったヴォルガ・ドイツ人は当時の西ドイツへの移住が
はじまりました。
閉鎖都市だったこともあり、なかなか、知られていない多様なロシアの側面です。

街にはあまりモニュメンタルなものはありませんが、Wikimedeaにある写真をご紹介
しておきます。

(サラトフのカラフルな聖堂がある町の中心部・・・Wikimedeaより)

(1965年までヨーロッパ最長の橋だったサラトフ橋・・・Wkimedeaより)

(航空機産業の町だけあって、かつて製造されていた戦闘機や機銃などの
野外博物館・・・Wikimedeaより)






最終更新日  2020.07.10 11:15:01
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2020.07.09
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あらためて、ヴォルガクルーズの後半のルートマップをご覧ください。
今日は、カザンから南下してゆくヴォルガの中流域の町・サマーラです。


この地図ですと少しわかりずらいですが、サマーラ(Samara)は東に突起している
地形にあり、町の背後にヴォルガを背負う形で町が作られました。それは、
16世紀までさかのぼりますが、対タタール人の防衛のために築かれた町だったからです。
また、この町の構図が、第二次世界大戦時には、ドイツ軍がモスクワに迫った時には
効を奏して、政府の主な機関が移された歴史をもっています。
時が変わってもその戦略的意味は大きかったといえます。

この町は1935-1990年までは政治家のヴァレリヤン・クイビシェフの名前をとって
クイビシェフとおばれていました。そして、ソビエトの冷戦時代は閉鎖都市だったため、
外国人の立ち入りが禁止されていましたので、私も、ロシアになって初めて訪れました。
現在、町の中心の人口は100万を超え、周辺の町の人口を合わせると、300万人を
越える大都市です。
上記のように地理的な条件が、防衛、そして、交易にピッタリだったことが挙げられますが、
何といっても、2009年に、ドルジババパイプラインの西側への起点になり、西シベリア、
ウラル、カスピ海の石油を送っています。

(サマーラの埠頭・・・Wikimedeaより)
サマーラの街中にボストークロケットのレプリカが飾られています。有人ロケットを
製造した会社、プログレス社はこの町にあり、宇宙飛行士のユーリィー・ガガーリンは
地球に帰還後、この町で休息したことも市民の誇りになっています。

(Wikimedeaより)






最終更新日  2020.07.09 11:29:44
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2020.07.08
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はじめに、昨日のカザンの稿で書き忘れたことから・・・
今日、ご案内する、ウリヤノフスク出身のレーニンは、カザン大学の法学部で学び、
のちに、弁護士になりました。
また、カザン出身者に、戦前のオペラ界の名バスにフヨードル・イワノヴィッチ・シャリアピンが
おります。
亡くなる2年前に来日して、日本の各地で演奏会をしました。そして、東京の帝国ホテルで
あの有名な玉ねぎソースのシャリアピン・ステーキのエピソードを残しました。
カザンでは、シャリアピンの生家を訪ねます。

(大きなシャリアピンの写真がWikimedeaにありました)

さて、今日の主役、レーニンに話を移します。
レーニンが生まれた町はシンビルスクという名前の町でしたが、没後、彼の名前をとって
ウリヤノフスクという名前の変更されました。町には、彼が生まれた家がありますが
何か所か移り住んだ家の一つが博物館のようになっていまして、レーニンの生活ぶりが
手に取るようにわかります。家の裏にはちょっとした庭があり、幼き日のレーニンが
しのばれます。

(在りし日のレーニン・・・Wikipedeaより)

(遠くにヴォルガ河を望む、ウリヤノフスク・・・Wikimedeaより)

埠頭からウリヤノフクスの町まで30分ぐらいバスに乗って生家の場所まで行きます。
また、実際の生家はウリアノフスク博物館の大きな建物の中にこじんまりとした形で
ありますが、ここはオープンされていません。その代わりに移り住んだ次の写真の家を
見学します。

(レーニンが9年間住んだ家・・・撮影:筆者)

(撮影:筆者・・・2016年秋)

ウリヤノフスクは現在人口60万を数え、ヴォルガ中流域の主要な都市になっています。
ウリヤノフスクまでなかなか行く機会がないので、このクルーズをぜひおすすめしたい。

ウリヤノフは何と言っても、レーニンの故郷の代名詞ですが、もう一人、19世紀初頭に
ロシア語を文学に高めたとされる作家であり歴史家であるニコライ・カラムジンがおります。
銅像の写真をご紹介しておきます。

(Wikimedeaより)
町の高台から望んだヴォルガ河

(撮影:筆者・・・2016年秋)






最終更新日  2020.07.08 11:00:37
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2020.07.07
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前日、船は夜の8時にニジニノブゴロドを出航して翌日の午後3時頃にカザンに到着して、
また、夜の8時には次のシンビルスクに向けて出発するので、カザンの観光は夕刻になります。
実はこれには一つの演出があり、日没近くになると、カザン・クレムリンの建物がライトアップ
され、美しい演出が施される仕掛けになっています。
カザンを語る前に、一枚の貴重なモンゴルのルーシーへの侵攻図をご覧ください。

13世紀にモンゴルはヴォルガ河を越えて・・・というより、図のように、カスピ海の南を
通ることで、ヴォルガの渡河を避けて侵攻してきて、時のルーシー諸国のウラジミール公国、
ノブゴロド公国、スズダリ公国と激しい戦争を何度繰り返すことが約200年続き、イヴァン
雷帝が登壇するころまで続きました。

カザンは、そのモンゴル帝国、つまり、イスラム勢力がルーシー諸国を隙あらば狙う
拠点の町になりました。その名残が、カザン・クレムリンに残っています。

要塞を意味するクレムリン。モスクの尖塔の隣に正教の聖堂が見えるという不思議な光景です。
下は、前述のライトアップの様子です。

(上下の写真とも、Wikimedeaより)

カザンは現在でも、タタール人が52%、ロシア人がやや少なく43%の住民比率です。
宗教はイスラム教スンニ派とロシア正教が二分する形の信者構成になっています。他、少数派
になりますが、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教の教会も存在しています。

カザンに行きますと、ガイドはしきりに「タタールのくびき」について説明をしますので、
この言葉はあらかじめ、抑えておくことをおすすめします。
簡単に言うと、モンゴル人のルーシー侵攻と支配を表す言葉です。そこで、もう一度、上の
地図を見てください。カザンでヴォルガ河は南に進路を変えて、カスピ海にそそがれますが、
この河を挟んで、東西のキリスト勢力とイスラム勢力が何度も激突して東西の民族の攻防が
繰り広げられ最前線だったわけです。

ヨーロッパにはこういった場所がいくつかあります。このブログでもご紹介しました
スペイン。そして、15世のトルコ、イスタンブール、かつてのコンスタンチノープルも
同様の歴史を持っています。






最終更新日  2020.07.07 11:49:02
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