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多岐さんのブログ

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2020.06.15
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カテゴリ:カテゴリ未分類
さて、ついにというか、ようやくマドリッドまで来ました。遣欧使節団の大きな
目的の一つでした、時の、ヨーロッパの最高権力者と言ってもいい、神聖ローマ皇帝
フェリペ2世との謁見するために、マドリッドへ来ました。

マドリッドをご案内する前に、フェリペ2世について記しておきます。
ここで、一つの家系図をご覧ください。何度もこのブログに登場した、元朝日サンツアーズの
初代社長の柳澤保雄氏作成のものです。

(名前の下の数字は在位を著しています。)
図の右下の(フェリペ2世)が、遣欧使節団一行が謁見した時の神聖ローマ皇帝です。
今、気が付きましたが、(フェリペ2世)の横にフィリップⅡとあるのはフィリップⅠが
正しい・・・つ(まり、時の、イングランド王でもあって、イングランド王の場合は
フィリップ1世が正しい)
この家系図の重要な部分ですが、上部のスペイン王朝のすぐ下のカスティリア王女・
イザベルとアラゴン王・フェルナンドが結婚をして、ピレネーの南側の一大連合王国を
成し、1492年にイスラム勢力の居城していたグラナダを陥落して、レコンキスタを完成
しました。そして、その孫にあたるのが、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝
カール5世)、その子供がフェリペ2世となり、時のヨーロッパの中で最も強大な力を持った
王がフェリペ2世でした。
そのフェリペ2世が、松田毅一さんの著書・天正遣欧使節によれば、謁見の際の使節団の
一行一人一人に抱擁で迎えたとあり、使節団は破格のもてなしで迎えられました。
しかし、その絶大な勢力を誇ったフェリペ2世の無敵艦隊はイギリスに敗れたところから
覇権はイギリスに移り、かつて、ヨーロッパからイスラム勢力を駆逐し、中南米を植民地
にして巨万の富と栄華を占有したスペインも歴史の表舞台から消えてゆくことになりました。

(Wikimedeaより)
写真はスペイン王宮ですが、遣欧使節団がフェリペ2世と謁見した宮殿とは異なります。こちらは
18世紀に建てられた王宮です。






最終更新日  2020.06.15 15:15:48
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2020.06.14
カテゴリ:カテゴリ未分類
まずはアランフェスの場所を確認しておきましょう。


マドリッド⇔トレドはほぼ直線のルートを行き来しますが、トレドから北東の道を取ると
アランフェスが以外と近いところにあります。アプローチには是非アランフェス交響曲2番を
聞きながら行きたいところ・・・

アランフェスがマドリッドとトレドの間にあることが分かった時から、トレドからの帰りにでも
立ち寄ってみようと思い立ち、立ち寄った覚えがあります。
町はこの宮殿以外のこれといった見所はありませんが、2001年にこの宮殿と庭園が世界遺産の
指定されました。
今回の遣欧使節団と大いに関係のあるフェリペ二世の命によって作られた宮殿です。



(2枚ともWikimedeaより)

次に、時間的な余裕がありましたら寄ってほしいもう一つの町がチンチョン。
スペインで最も美しい村 に選定された町チンチョンはマドリッドからわずか50㎞で
気の利いたパラドールもあることから、人気の高い村です。
トレドに往復する際に、昼食、あるいは夕食をこの村で取ることを進めます。
イタリアのスローフードの雰囲気が村に横溢していて町の中心の闘牛場にもなる
マヨール広場界隈で、のんびりと食事をすることをお薦めしたい。

(チンチョンの町並み・・・Wikimedeaより)

(マヨール広場・・・Wikimedeaより)



(チンチョンのパラドール・・・パラドール・ホームページより)






最終更新日  2020.06.14 10:44:28
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2020.06.13
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日はグレコの絵に気を取られて、トレドの町並みの写真をご紹介し忘れました。
今日はその1枚から・・・
昨日ご紹介したトレドのパラドールのベランダから

(パラドールのホームページから
正面のひときわ大きく目立つ建物はアルカサールで16世紀に修復された宮殿。
もともとここには3世紀にローマが宮殿を立てたとあります。
ちょっと角度を変えた写真をもう一枚・・・

(Wikimedeaより)
手前の川がタホ川。この写真ではアルカサールが丘の一番高台にあります。
もう一つのシンボルは真ん中のトレドの大聖堂。

ここで、もう一度、前出の版図の変遷図をご覧ください。


一番上の版図の図のように、イスラム勢力がヨーロッパに侵入した8世紀から300年間
イスラム勢力はトレドを中心にウマイヤ朝、後ウマイヤ朝として繁栄しましたが、
11世紀のレコンキスタ運動を機に、キリスト教勢力によって南に押し返されます。
11世にトレド奪還に成功したキリスト勢力はこのトレドをキリスト教の町に変えてゆきます。
とりわけ、トレドの大聖堂はレコンキスタの象徴として時のフランスゴシック様式で
建てられました。
時に、グラナダからイスラム勢力が駆逐された翌年の1493年に創建されました。

(Wikimedeaより)
トレドの町に大きなバスは入れませんので、約1時間ほど街中をあることになります。
足が丈夫なうちにいらしていただくことをお薦めします。
旧市街は、外敵の侵入を防ぐため、迷路のように作られました。また、夏の強烈な日差しを
避けるため、狭く、細くして直射日光を避けられるように作られています。
写真を撮りながら進みますが、前の人を見失わないように・・・
旧市街歩きの最後は、グレコの最高傑作のあるサント・トメ教会
教会そのものは小さな建物です。
(ロマネスク様式の塔が目印だが・・・わかりづらいから注意。Wikimedeaより)






最終更新日  2020.06.13 10:47:50
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2020.06.12
カテゴリ:カテゴリ未分類
はじめに・・・
おかげ様で、ブログをはじめてから2か月経ちました。15年ぶりの事でしたが、
コロナ禍で旅行の窓が閉ざされて時に、何とか、会社を継続することはもとより、お客様に
旅への憧れを何とか抱き続けていただきたい一心で、ある時は、つぶやき、またある時は
声を大にして、押しつけがましくも、その魅力を綴ってきました。アクセスも予想以上に
ありまして、感謝以外の何物でもございません。厚く御礼申し上げます。

始めは、毎日の出来事や、思い付きで世界の街角ルポのようなものと思いましたが、
それでは、何か取り止めなく、心に残していただけないと思いに立って、日本人が初めて
ヨーロッパに足を踏み入れた天正遣欧使節団のルートを借りて、よしなしごとを含め、
旅への憧れを抱いていただきたいと、大きなお世話を承知しながら、できるだけ、私自身が
初めて降り立った地の感動を込めてこれからも綴ってまいりますので、何卒よろしくお願い
申し上げます。

さて、使節団一行はトレドに到着しましたので、今日は、そのトレドをご紹介します。

スペイン観光のゲートウェイになっている首都マドリッドからバスで1時間ちょっとで行くので、
トレドにいらした方は多いと思います。私も、最初は半日日帰りでという定番でトレドに行きましたが、
できれば、トレドは一泊したい町です。
その時の宿は旧市街を湾曲して流れるタホ川の対岸にあるパラドールに1泊することをお薦めしたい。
以下はパラドール・ディ・トレドのホームページからの写真です。


写真がもう一つですが、黄昏る旧市街が遠望できます。当たり前ですが泊まることで、朝な、夕なの
光と影が、素晴らしい思い出を彩ってくれます。
この対岸からトレドの風景を残した画家がエル・グレコ。例によって、朝日新聞社・週刊世界の美術から


エル・グレコは1541年生まれのギリシャ人はクレタ島出身の画家で主に、イタリア、
スペインで活躍した画家です。時のマニエリスモの画風から一歩抜け出した独特の
グレコの世界を構築しました。特に人物は8頭身どころか、9、10頭身ぐらいの
長身に描くのが彼の大きな特徴になっています。
倉敷の大原美術館に「受胎告知」がありますが、もう一枚、トレドで必ず立ち寄る、
サント・トメ教会の「オルガス伯の埋葬」も以下に紹介しておきましょう。

(朝日新聞社 週刊 世界の美術より)

画集の紹介文にありますが、グレコの最高傑作と呼ばれている作品でもあります。






最終更新日  2020.06.12 12:15:43
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2020.06.11
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もう一度、使節団の往路の足跡を地図を見て復習しておきましょう。


使節団一行はポルトガルのエヴォラを後にして、スペインとの国境の町ともいえる、
ヴィラ・ヴィソーザのサント・アコスティーニュ修道院に入りました。
この町は、今回のスポンサーの一つ、ブラガンザ家の本拠地になっている町で、
エヴォラ同様に、使節団にとっては重要な町で、立ち寄らないわけにはゆかない。
・・・と、いうより、マドリッドまでのルートを選ぶ際の当然のルートでありました。

日本との関係の深い割には、このヴィラ・ヴィソザの資料には乏しいですが、町の茶新と
ブラガンサ家の宮殿の写真をご紹介しておきます。(ともに、Wikimedeaより)




国境を越えて、トレドに向いますが、その前に、グアダルーペに立ち寄っていますので、
グアダルーペを少し紹介しておきます。
一説によると、福音書を描いた聖ルカが、聖母の彫刻を彫って、その彫刻とともに埋葬
されたので、5世紀の頃から巡礼の場所だったようです。そして、中世を経て、レコンキスタが
歓声した15世紀後半はらグアダルーペの聖母信仰が加わり、巡礼に輪をかけるようになり
今日に至っています。
カトリック信者にとっては大変重要な町になっています。

(グアダルーペの町並みと祭りの様子・・・Wikimedeaより)
町は、イスラムの影響を受けたムデハル様式の建物が多く、ムーア人の面影を強く残しています。






最終更新日  2020.06.11 10:44:11
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2020.06.10
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リスボンに到着した使節団一行はリスボンに約一か月弱、滞在して、船旅の疲れを取り、
リスボン市内の教会やシントラの王宮を訪ねて過ごしたのち、いよいよ、この旅の総合
プロデューサーであるヴァリニャーノの指示のもと、パパ様である、ローマ教皇に謁見
するための旅を開始しました。
リスボンから真東に進路を取り、四日かけて到着した町は、現在、世界遺産にも登録
されたエヴァオラの町に入りました。そして、8日間、この町に滞在することになりました。

今日はそのエヴォラをご紹介します。

リスボンの町を出ると、現在はオリーブ畑が続き、エヴォラ近くなると、世界のコルクの
約半分を生産されているコルク樫の林が続く中を行くことになります。

町は古代ローマ時代から中世時代にかけて町を守った城壁に囲まれて、町の中心には
ローマ時代のディアナ神殿があり、また、中世のイスラム統治時代からレコンキスタ時代
を経ていることもあり、どことなく異国情緒に富んだ町になっています。

使節団一行はポルトガルの国境を越え、スペインをほぼ横断する形でローマを目指す
事になったわけですが、彼らがこのエヴォラに8日間滞在することになったのは、
時のエヴォラの大司教ドン・テオトニオ・ブラガンザの力によるところが大きかったと
言えます。
ブラガンザ家は名門の家柄で、大司教はその家柄出身で、若い時からイエズス会会員となって
活躍していたことがあり、前述のプロデューサー・東インド巡察師、ヴァリニャーノから
くれぐれも遣欧使節団の手厚い保護と援助を求められたからだと言われています。


町の中心にある、ローマ時代の名残、ディアナ神殿。



使節団一行が招かれたエヴォラ大聖堂。

町の中心広場ジラルド広場

ポルトガルはコクルの生産が、盛んです。私も、ポルトガルで初めてコルクの木、コルク樫を
見て、コルクの事を知りました。
コルク樫の林などコルクの写真をご紹介しておきます。


樹皮をはがされて赤い幹が露出したコルク樫の林



コルクの樹皮は意外と厚いことがわかります。



樫からはがされた樹皮のからコルクが作られます。
(写真はいずれもWikimedeaより)






最終更新日  2020.06.10 11:15:15
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2020.06.09
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記録によると、使節団一行はシントラにあるポルトガル王室の夏の離宮を訪ねています。
元々、9世紀にムーア人が城跡を建設したことに始まるが、14世紀、レコンキスタの
終盤にジョアン1世によって離宮が作られました。

(シントラの王宮・・・Wikimedeaより)

(山の頂上にあるペーナ宮殿)

一般的なリスボン観光のい際、半日リスボン市内観光。午後は希望者によるシントラと
ヨーロッパ最西端のロカ岬をセットにしてオプショナルツアーで訪れることが多いです。
更に、この帰りにポルトガルの民族歌謡のファドを聞いて宿に戻るなんてオプショナルツアーも
あります。

(ロカ岬の標識・・・Wikimedeaより)

(ロカ岬の灯台・・・Wikimedeaより)

隣のスペインにはフラメンコ、イタリアでは、カンツォーネ、フランスのシャンソンと
ヨーロッパの夜は多彩です。一度はファドも聞いてほしい。因みに、ファドとは運命、あるいは、
宿命という意味ですが、ギター一本で歌うせいか、もの悲しく、まさに、宿命さえも感じられる
響きは捨てがたい魅力があります。
中でも、アマリア・ロドリゲスは伝説のポルトガルの国民的歌手です。

(アmリア・ロドリゲス(1920-1999)・・・Wikimedeaより)






最終更新日  2020.06.09 13:51:29
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2020.06.08
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リスボンの見所の中でまずご紹介したいのは、ポルトガルが生んだ、偉人達のモニュメント・
発見のモニュメントです。
船の航行に欠かせない羅針盤が発明されて、ヨーロッパでいち早く海洋に乗り出した
エンリケ大航海王を先頭に、32名の偉人たちが並ぶモニュメントは高さ52mあり、
1940年の万博のシンボルとして作られました。
エンリケ航海王の他、世界史に登壇してくる人物・・・喜望峰を発見したヴァスコ・ダ・ガマ、
インド航路を発見した、バーソロミュー・ディアス、世界一周を果たした、マゼラン。
そして、日本にキリスト教をもたらした・フランシスコ・ザビエルもおります。

(先頭はエンリケ航海王)

(2枚ともWikimedeaより)
次に、ヴァスコ・ダ・ガマなどが大西洋に乗り出していったテージョ川にあり、船の出入りを
監視した要塞・ベレンの塔。

(Wikimedeaより)

更には、マヌエル1世により創建され約300年かかって作られたジェロニモス修道院。
使節団はまだ建設途中の教会を見ていたと思われます。
この修道院はアジア航路で香料などでポルトガルに巨万の富をもたらせ、ポルトガル絶唱期に
建てられた修道院です。
スペインに比べて、規模などが小さく、地味だったのは、当時、ポルトガル王はスペインの
フェリペ2世が兼ねていたことが原因になっています。

(Wikimedeaより)

他の見所としては、サン・ぺドロ・デ・アルカンタラの展望台。ここから、リスボンが
一望できるので、ガイドはぞの全貌を見せるためにこの展望台で記念写真というのが、
リスボン観光の定番。

(Wikimedeaより)
最後に、もう一つの広場、王宮広場

(Wikimedeaより)
目ぬき通りアウグスタ通りと王宮広場(コメルシオ広場)が交差するところにかかるアーチ。
この広場にはジョゼ1世の騎馬像もあります。






最終更新日  2020.06.08 13:23:36
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2020.06.07
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昨日まで、遣欧使節団の足跡は、イタリア上陸から始まり、マドリッドまでの行程を
追いながら、各都市や町をご紹介してきました。
今日からは、順番を頭に戻して、約2年と6カ月かけて、南アジアからインド洋、喜望峰を
周り、大西洋を北上して、日本人で初めてヨーロッパの地に足を下したリスボンから
ご案内したいと思います。
その意味でもう一度、使節団一行のルートをおさらいしておきます。

(集英社文庫 若桑みどり著 「クワトロ・ラガッツィ」より)
さて、リスボンですが・・・いわずと知れたポルトガルの首都。
ポルトガル王国が成立した時期は10世紀、11世紀・・・イベリア半島がイスラム勢力に
8世紀に奪われた領地を回復する失地回復運動(レコンキスタ)に乗じた形て、イベリア半島
北部にバルセロナ伯領、アラゴン王国、ナバラ王国、カステリア王国、レオン王国ができた頃
と同じころ、ポルトガル伯領が、ローマカトリックに承認されてその礎を築いたことから
始まりました。
念のため、以前、掲載いたしましたイベリア半島の領土変遷図をもう一度、載せておきます。
大切な年号は、イスラム勢力がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島からピレネー山脈を
越えて、フランスのツールとポワチエの間で時のフランク王国軍と戦って敗れ、ピレネーの
南側まで、押し戻され、ウマイヤ朝が開かれた9世紀からグラナダ王国がアラゴン、カスティリア
連合軍に敗れた1492年です。

(朝日サンツアーズ元社長の旅テキストから)

その1492年の大きな出来事として、コロンブスがアメリア大陸を発見し、時の、大航海時代の
先鞭を担ったのがポルトガルで、時の反宗教改革運動としてカトリック勢力を新大陸に広める
役割を担ったのが、イエズス会。すでに、ポルトガル出身のバーソロミュー・ディアスや
ヴァスコ・ダ・ガマが発見した喜望峰ルートでインド、南アジア、そして、日本まで渡来して
きました。鉄砲伝来はむしろカトリック伝播の副産物の要素で伝わり、その副産物が、日本の
戦国時代の終息を早めたと言えます。

リスボンのイエズス会の本部になった教会は1515年に創建されたサン・ロッケ教会(サンタ・
クロス教会)です。地味な教会ながら、その歴史的な背景から是非立ち寄りたい場所の一つです。

(Wikimedeaより)






最終更新日  2020.06.07 10:29:47
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2020.06.06
カテゴリ:カテゴリ未分類
モンセラートを後にした一行はマドリッドを目指すことになったが、途中、モンソンに
立ち寄っています。それは、ヨーロッパ、いや、世界ナンバーワンの統治者になっていた
フェリペ2世に謁見するためでした。
以下に、バルセロナを出て、モンセラートからマドリッドに至るルートマップをグーグルマップ
上に再現しましたので参考にしてください。


モンソンには時のスペイン王であり、イングランド王であり、ポルトガル王であった
ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝であったフェリペ二世の離宮がありました。
フェリペ2世については、もう少し後のエルエスコリアルの行りでご紹介します。
スペイン史上、最大にして最高の権力者でした。
フェリペ二世は使節団一行に対し、このモンソンでバルセロナ以降の費用の面倒を
全て見ると約束したという。

(フェリペ二世の銅像・プラド美術館所蔵・・・Wikimedeaより)

(モンソンの離宮・・・Wikimedeaより)

一行はモンソンの後、現在、サッカー選手の香川真司選手が所属しているサラゴサ、そして、
ダロカを経由して、マドリッドに向いました。

(使節団一行が宿にしたと思われるサラゴサの大聖堂・・・Wikimedeaより)






最終更新日  2020.06.06 22:32:03
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