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カテゴリ:Flavor of life
今宵はモーツァルトを聴きながら書いています。 タ~タラタラタッタ~ 貰ったCDがモーツアルトであるということしかわかりませんけど ヘ( ̄▽ ̄)ノ 昨年は母が病気になったこともあってとても短く感じた一年でしたが、振り返ればいろいろなことがあり、凝縮された時間を過ごしたように思います。 年頭にはそんなことをしみじみと思ったものですが、なんと早いことでしょうか、今年も一年を振り返る時期に入ってしまいました。 とは言ってもまだ1ヶ月ちょっと残っているし、最後の最後に年末ジャンボが当たってウハウハになるかもしれないですから、まだ振り返りません。 でも、ここで終わるのもナンなんで、未来に目を向けてみようと思います。 「相談している余裕はありません。この場で決断してください。」 延命措置の可否を迫る医師に、涙を流しながら答えたあの日。 私の涙はなんだっただろう。 母の死が見えた悲しみか。 それとも、罪の重さに耐えかねたのか。 私の涙はなんだったんでしょう。 今じゃ 「今日は砂糖が安いから買いに連れてって( ̄ー ̄)! ひとり2個までだから、あなたも2回まわって4個買うのよ!」とか。 「芋けんぴ買って来て( ̄ー ̄)! 5袋ね( ̄▽ ̄)!」とか。 5袋も食うのかよ。 いえいえ、家族全員に1袋づつ支給されるんです。 「いいから( ̄ー ̄)! 美味しいから持ってって食べなさい( ̄ー ̄)!」 この母の傍らにあり、そして、母に寄りそう父を眺めながら、我が身が看護や介護を経て死に至るまで、あるいは死に様と言いますか、幸い健康であったとしてもどう老いるか、そんなことによく思いを巡らせるようになりました。 子供や夫に世話をかけるようになってしまったとき、母のようになれるだろうか、父のようになれるだろうかと、一言一句や行動の仕方を考えさせられます。 ( 特売砂糖の買い付けは一回のままでいたいけど。) 友人のお父様が亡くなったのは一昨年のことだったでしょうか、こたつに横たわったまま、家族が気付いたときには亡くなっていたそうです。 父にその話をすると、「俺もそんなふうに死にたいな~。最高だ。」と言いました。 看護される人となった母は、申し訳ない、申し訳ないと私に頭を下げていました。 母のそんな姿に、父は言葉を失います。 じわじわと近付く死期への恐怖はもちろん、孤独や不安、治療の苦痛もなく、看護や介護で我が子を苦しめることもなく、すまないすまないとの思いで苦しむこともない。 自分も苦しまず、誰を苦しめることもない。 ぽっくり死んでしまえれば、それは本当に最高の幕引きなのかも知れません。 私は息子ばかりですから、 「なんでアタシがお義母さんの世話しなきゃいけないのよ!」…とか。 「もううんざり!」…とか。 「無理( ̄  ̄)」…とか。 なるでしょうね。ね。ね。ね。 私がお嫁さんにそう言われるのは仕方ありませんが、私がさっさと死なないことによって息子夫婦にこんな争いが起こっては、 死ぬに死ねませんっ。 いや、だからさ… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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