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お元気ですか?リタイア後、80近くになっても、なんだかんだ忙しくしてます。20年前のように、忙しくても、楽天も欠かさず書いてたのとちがって、やはり、動きが遅くなってますから中々、楽天アップもできませんが、生きてる間はつづけますので、時々のぞいてください。12月号がでましたので、原稿を載せますね。
クリスマス 我が家はクリスチャンでもないのに、クリスマスを祝った。父が海軍士官で、遠洋航海というトレーニングで世界中を回って来たからかも知れない。イギリスでソーシャルダンスやテーブルマナー、ソーシャルマナーを習ったそうで、ダンスは母と一緒に県大会で二位をとるくらいうまかったし、レディース・ファーストのマナーもばっちり守り、母にドアを開けたり、ダイニング・テーブルでも母が座る椅子をひいたり、母が病気になると二階まで抱き上げて階段を上ったりしたのを見て育ったから、私も息子をそのように育てた。ところが、アメリカ人の夫は二度とも全くその反対で、ドアを開けたら、遅れた私の目の前でバタンとしまってもさっさと行ってしまうし、荷物は持ってくれるどころか、私のバッグにあれこれいれ、飲み物をズルズル音を立てて飲むしでがっかりした。 「西洋ではキリストの生誕祭に、クリスマス・ツリーという物を飾って、子供たちが寝ている間に、木の下にサンタクロースがプレゼントを置いていくのだよ。そしてクリスマスの朝、子供達はそれを開けるんだ。日本でツリーは無理だから、お隣の杉の木の枝を一本いただいてこよう」と父が言った。「どの枝でもどうぞ」と言われ、父はのこぎりをもって行き私は1メートル位の枝を隣から担いできて、色紙で鶴やら風船を折ってぶらさげ、真綿を雪のようにのせ、床の間に飾った。枝しか見てないので、日本の七夕みたいだと思っていた。 母は、嫁入り前にフランス人からケーキ作りをならったそうで、戦後の物資難の頃でも、臨機応変に練炭の入った火鉢の上に置く、吹けば飛ぶように安っぽいかまぼこ型のブリキで出来たオーブンを使って、クッキーやケーキを焼いてくれた。お砂糖など売ってない時代で、サッカリンという人口甘味料をつかっていたのを覚えている。疎開先の田舎の人々にとって、我々の生活は珍しかったらしく、遠くから自転車に乗ってまで、そのクリスマス・ツリーもどきやら、ケーキを見に来た。その人達も、クリスマス・ツリーは、日本の七夕の竹に短冊みたいなものだと思ったかもしれない。 両親は私を自由にお寺にも、キリスト教会にも行かせてくれたので、毎週日曜日に一人で教会にでかけた。讃美歌をうたったり、カードを集めるのがたのしかったのだ。ちなみに私はまだ小学生で、同級生のお父さんが牧師さんで「来ない?」と誘われたからだった。その子の両親はハワイ生まれの日本人だったから、時々夫婦で英語など話しており、クリスマスにはサンタクロースの恰好をして子供達にミセスが焼いたお菓子などをくれた。 12月は温暖といわれる静岡でも炬燵に足をいれて寝るくらい寒くなったのだが、母は私と反対側に座り子供達がねてからコッソリ何かをしていた。ある晩、寝たふりをして、うっすらと目を開けて眺めたら、編み棒が忙しく動いていた。戦後は新しい毛糸など、まず手に入らない時代だったから、母は自分のセーターをほどき、緑と、ホクシャ・ピンクに染め直して弟には緑、妹と私にはピンクの毛糸で手袋を編んでいたのだった。 クリスマスの朝、まだ真っ暗な中で布団から手を出し頭の辺をまさぐるとヒヤリと冷たい畳の上にソフトな何かと、“固い何か”が置いてあるのを感じて、嬉しくて朝日が昇るのが待ちきれなかったのを思い出す。何も知らない弟や妹はまだスヤスヤ寝ていた。やがて雨戸の隙間から朝日がスゥ~と入ってきた時、早速手袋をはめてみた。指を一本ずつ入れながら母の愛を感じて、手袋の両手で思わず自分を抱きしめた。その色も感触も網目もよく覚えている。ちなみに、“固い何か”は、小さなアルミの缶で、色もデザインもきれいなアメリカのキャンディーが一杯つまっていて、当時の私には宝物のように見えた。 あれから70余年、クリスマスをヨーロッパで過ごしたこともあるし、アメリカの我が家では4メートルもあろう大きなツリーをかざったことも数えきれないほどある。さまざまなパーティーに招かれ沢山のプレゼントをもらってきたが、クリスマスの度に心温かく思い出すのは、あの時の父が手伝ってくれた杉の一枝と、母の編んでくれたフォクシャ・ピンクの手袋である。 **** クリスマスギフトに私の本はいかがですか 日本では、アマゾンでこの題名でサーチするとでます。 アメリカでは、私に直接メールください。8pkaigo@gmail.com です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.12.09 22:48:11
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