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年の初め 日本でもアメリカでも元旦早朝はシーンとしているが、その理由には雲泥の差がある。日本の【年の初めの厳かな日】に対してアメリカは【パーティー疲れか二日酔いで寝坊する日】といったらちょっと大げさかもしれないが、それが私の印象である。 1964年に日本を出たから最初の元旦は1965年のホノルルであった。大晦日は島中で爆竹や花火を一晩中バンバンならして、どこでもニューイヤーズ・パーティー。アルコールを飲んでどんちゃん騒ぎ、翌日は祝日で、お昼ごろまで寝るか、パジャマのままテレビでパサディナのローズ・パレードを見てからスーパーボールを見るコースが大半の殿方の元旦のようであり、フットボールを見ない人はパーティーの後片付け。3日が平日なら仕事も学校も普通にはじまるのがアメリカである。 ハワイ時代は、前夫も私も若かったし、二人共フットボール・ファンではなかったので「泳ぎにいこう」とワイキキの浜辺にいった。まだ殆ど人がいなくて静かな砂浜には、色とりどりの爆竹や花火の紙がちらばっていた。元旦に泳いだのは、後にも先にもこの時だけであるが、泳ぎが好きな私には「こういうのも悪くはない」と、外国での忘れがたい初泳ぎの思い出となった。 珍しかった海外生活も数年たつと、日本のお雑煮やおせち料理が懐かしくなったが、当時は白人の友達しかいなくて日本の食材などどこで買うのかも知らなかったから、大根と人参のなますとか、卵焼き、鶏の唐揚げに (日本から送ってもらった海苔で) 海苔巻きや、お吸い物だけでお正月を祝ったりしたが、日系二世などと知り合うようになったら、結構自分達で餅つきなどをやって、おせち料理もどきを作っているのを知った。明治生まれの一世達が、日本のトレディッションを維持していたようである。 私の小学生のころは、戦後のどさくさ時代であったが、幸い私は疎開先の田舎で育ち、山に餅草や、ぜんまい等を摘みに行ったり、漁村だったので食べものは豊富であり、大家さんの庭で、つきたてのお餅をいれたお汁粉などをいただいたり、羽付き、かるた遊びとか、海辺で凧揚げしたり、それよりもなによりも、お年玉をいただくのが待ち遠しかった。 ハワイから本土に引っ越した時、爆竹は違法なのでカリフォルニアではやらない事を知った。つまり、州によって法律も違うというのを実感しはじめた時期である。いつの間にかニューイヤーズイブには全国あげて、いや全世界で花火をあげるのをテレビで放映するようになった。ところが、アメリカ合衆国は広く、元旦といってもカリフォルニアが24:00だとすると、アメリカン・サモアはまだ17:00、ハワイも21:00、それなのにニューヨーク側はとっくに元旦の03:00という具合だから元旦もだらだら続き、年の終わりも始めもはっきりしない。つまり大きな国では、始めも締めくくりもばらばらで、私は新年気分になれない。 アメリカ生まれの子供達に、日本の『新年』を経験させてやりたいと思い立ち、社会人になっていた娘と大学シニアの息子に聞いたら、「是非行こう」と話しが決まり、クリスマス前に日本に着くようにした。子供達は、大家族の私の弟一家や、まだ健在であった母にクリスマスギフトを用意して行ったが、メリー・クリスマスと書いた小さなケーキがでただけで、ギフトを開けて終わりのあっけなさに、”Is that all?”とケラケラ笑っていた。 ところが大晦日まえになると、家族で大掃除したり門松たてたり台所で忙しくしてるのを見て、「アメリカのクリスマスと日本のお正月の感覚は逆なんだね」と言った。また、真夜中に家族揃ってたべる『年越しそば』に笑いころげ、そのあとで神社に出かけて身動きの出来ない初詣にはしゃいで写真をとりまくり、土産を買いまくり、2時頃帰宅したから翌朝はまだ眠いのに起こされ、家族全員そろって「おめでとうございます」といっておせち料理を食べる体験をして、日本の風習は感無量だったと言ってくれた。 日本は7日までは、お正月の雰囲気が漂ってるが、アメリカではまだクリスマス・ツリーを飾りっぱなしの家も可なりあって、前の年が終わってないような締まりのない気分になるから、私は大晦日前にはクリスマスの飾りは片づけてしまう。 帰国後ある日娘の家にいった時、「日本で買った凧、ここに飾った」と、龍と言う字が書いてある凧を誇らしげにみせてくれたが、上下逆さまであった。私が日本語教育を怠ったのがバレバレの一件である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.01.07 14:57:20
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