南カリフォルニアの青い空

2022/06/21(火)00:41

Happy Father's Day!

父の日を祝う 今年の2月で、私は80才になった。毎年、母の日は祝っていても、父の日は 忘れがちであった。ひとつには、父は、私がうまれて、すぐに戦争に行ってしまったわけで、戦地から心身ともにボロボロになって帰国したころ、私は3才になっていたこともあって、父というより、知らないやせこけた叔父さんであったから、 「これが、お父様よ」と母にいわれても、こわくて母の背中にかくれてしまったくらいで、父にしてみたらショックであり、可愛げのない子だったであろうと思う。 父にしてみれば、その後うまれた私の弟や妹が可愛かったに違いない。 今にして思えば、PTSD (戦争のトラウマ)も手伝って、物凄い酒乱になり、子供としては、酔っ払った父の思い出の方が多いのだが、素面の時の父は、本当に、なんでもできるスーパーマンであった。 学校でも成績は一番うえだったらしく、兎に角数学、科学、国語、英語など 私の学校の先生より出来たと思う。海軍中佐であったから、天気の予報の仕方、潮の流れ、星の位置をコンパスで計って、航海する方法などを教えてくれた。もうほとんど忘れてしまったが、潮の流れを馬鹿にしてはいけないこと、つまり表面が穏やかでも、海流はちがう方向に向かってる事もある、 あれ海でも、安全に泳いで岸に戻る方法もある。。。。というのは、実際に体験して、助かっていて、「Happy 介護」にも、その考え方を人生に当てはめて書いた章がある。 戦後の物資難時代でも、大工道具があれば、ベッド、ダイニングセット、寝椅子、ベンチなど、次々につくっていた。電気の故障も直し、井戸のポンプが壊れると、「空気がもれないように、ここにゴムをとりつけるんだよ」と その理由も教えてくれたので、電気、水道など自分でも直せるようになっていたことが、結婚後も前夫と基礎から家を建てるのに役立った。 人間はネガティブな事のほうをよく覚えているので、酒乱のイメージの父の方が大きかったのだが、数年前に英語で短歌の本を書いているうちに、父の事がかわいそうになって来ていた。「今にわかるよ」と言ってた言葉が、頭を横切り、その日から父の良い方を見るようになった。上流家庭に育ち、 「xxxxさんは、えらい、えらい。あなたは出世しますよ」と、実母にほめられて、家族の皆からも大いに期待されていただけに、負け戦で、夢が 全部潰れてしまった時にめちゃめちゃになってしまった、と思ったのだろう。今のように、精神医もふんだんになく、アル中は病気だという扱いはしない時代であったから、自分でコントロールするしかなかったのだろう。 我が家にいた、お手伝いさんと再婚して、素面になったり、また飲んだりの繰り返しであったらしいが、戦争さえなかったら。。。。と考えると実に不運な人であったと思うと同時に、この歳になってやっと父の悩みがよくわかってきた。 15年位、音信不通になっていたのに、ある晩父が夢に現れて「なかなおりしようよ」と、床に横たわったまま手を差し伸べて、私と握手をしたのだが、 その朝起きて、手にまだその感覚が残っていた時に、妹経由でもらった住所に15年降りで子供二人の写真をいれた手紙を速達でだした。翌週に、異母姉妹から速達がきた、「父はxx日にひろこ。ゆるしてくれといいながら、しにました」と書いてあった。私は父の死を同時に夢でみていたのである。 (下の部分んがぬけていたので、追加します) その時に、父と私の強いスピリットの繋がりを感じ、全てを許した。 スピリチュアルな人は「死に花をさかせる」とか「なかなおり」をするらしいが、父と私はその「なかなおり」をしたのである。今では、すんなりと 父の日に感謝の心を届けている。  父の父、私の祖父は東郷平八郎の従兄弟です。

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