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アウトドア~な温泉日記

米沢の戊辰・・・

米沢・仙台をはじめ東北諸藩はなぜあんなにも会津の赦免を要求したのだろうか?

会津に恩のある米沢が会津を助けたかったのは事実であろう、

しかしそれ以上に大きいのは戦争をしたくなかったということではなかろうか。


東北諸藩は利するところのない戦争をしたくなかったのだ、

会津討伐のためにやってきた新政府軍はたったの500、実際に戦うのは東北諸藩なのだ。


そもそも鳥羽伏見の戦いの罪は総大将である徳川慶喜がすべて背負って江戸城を無血開城している、

それを認めて江戸城を査収した時点で会津の罪は消えている、

今更会津を討伐する必要がないのである。


正論が通らないのは世の常で、

それも仙台の暴走(世良修蔵殺害事件)と会津の暴走(謝罪拒否の回答)により水泡に帰し、

否が応でも戦争に引きづりこまれていく、

戦争を避けんとしたために逆に戦争に引き込まれていったのだ。


そもそも新政府軍はなぜそうまでして会津を討伐したかったのであろうか?

新政府軍は新興勢力であり、現政権を倒した革命勢力である、

内外に自らの正当性を示し、正義は我にありということをアピールする必要があったのだ、

本来であれば江戸城を大義名分のもとに武力制圧するのが最も効果的である、

しかし江戸城は無血開城してしまったのでそれもできない。


新政府軍は徳川幕府の替りの生贄として会津を選んだのだ、

新政権の樹立と自らの正当性をアピールする生贄として・・・

ここには対抗勢力を大義名分のもとに叩き潰し、

その資金を横取りし新政権樹立の資金に充てるという目的も含まれていた、

金がなかったのである、

加えて当時京都守護職にあり攘夷運動さなかの京都においてことごとく対立した、

憎っくき会津藩である、

蛤御門の変の敵とばかりに攻め立てたわけである。


東北諸藩の願いとは裏腹に新政府側には会津を倒さねばならない事情があったのである、

こうして東北に無用な血が流れていく、

必要のない流血が東北の地を赤く染めていくのである


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