2014/08/10(日)21:09
赤備えの城・・・(国宝 彦根城)
帰り道に彦根によりました、
彦根といえば・・・
日本に4つしかない国宝の城
彦根城です・・・
彦根城は、赤備えの猛将、井伊直政の夢の城です、
関ヶ原の功績により近江18万石となった井伊直政、
近江は石田三成の旧領、名城「佐和山城」があります。
直政は中世的縄張りであり、三成の城であった佐和山を嫌い、湖畔の磯山に城を移すことを計画していました。
しかし、関ヶ原の合戦で負った傷が癒えず、城を移すことなく2年後に帰らぬ人となっております、
彦根に城を築いたのは直政の子直継です、直政の遺志を継ぎ琵琶湖の湖畔彦根山に築城を始めました。
これが現在に残る彦根の城です、
天守閣が現在まで残る現存天守12城の1つにして国宝、
国内でも国宝に指定されている城は世界遺産姫路城を加えて4つしかありません、(二条城は除外・・・)
中でも規模が大きいのが姫路城とこの彦根城です、規模が違うのは当たり前
他の国宝4城、犬山城の犬山藩、松本城の松本藩が10万石前後の藩の本城であるのに対し、彦根城は井伊35万石の本城、姫路城は池田52万石の本城であった城です。
当然その石高に見合った格式を持っているということですね。
まあ現存天守12城の中でも姫路と彦根は別格と思って良いと思います。
さて井伊といえば赤備え、
朱色に統一した鎧兜に身を包み先陣を切る徳川家最強の軍団です、
この赤備えを最初に行ったのは「甲山の猛虎」と言われた武田家の武将「飯富虎昌」・・・
武田最強と言われた赤備えの誕生です、
武田の赤備えはその後、甥の山県昌景に引き継がれ最強の名を欲しいままにします。
武田四天王の一人、山県昌景、彼の赤備えはあまりに強く、敵はこの赤一色の軍団を見ただけで震え上がったといいます、
赤備えが最強軍団として認知されたのはこの時代から・・・
三方ヶ原の戦いでは山県隊は家康の本陣に突進し武田の背後を狙ったはずの家康軍を返り討ちにし、一時は家康に自害を覚悟させたと言います。
信玄亡き後、勝頼と折が合わず疎まれながらも武田の屋台骨を支えた昌景、
設楽原の戦いで、武田軍の中核をなした山県隊は徳川陣へ決死の突撃をかけ、あわや馬防柵を突破しかけた時。。。
体中に銃弾を浴び壮絶な戦死を遂げました、最後まで采配を離さず、采配を咥えたままの壮絶な戦死であったと伝えられています。
やがて武田家は滅亡し徳川は武田の遺臣を多く召抱えたと言います、武田の強さにあやかろうとしたのです、
この時武田の遺臣の多くを与えられたのが井伊家です、ここにはかつて最強の名を欲しいままにしたかの山県昌景隊のものも沢山おりました、
こうして引き継いだのが井伊の赤備えです。
世は織田から豊臣へそして徳川へ・・・
太平の世は赤備えの強さを腐らせました、
大坂の陣、煌びやかな赤の具足に身を包んだ井伊の軍団を見て、「赤備えも落ちたものよ」と家康は嘆いたと言います。
家康は華美な具足に身を包んだ井伊の軍団に赤備えの腐敗を見たのです。
そんな中古びた赤い具足に身を包み勇戦する武田の遺臣たちを見て、「見よ、あれが本当の赤備えだ」と喜んだといいます。
時は流れ世は幕末・・・
井伊の赤備えは見る影もなく弱くなっていました、
目立つ赤の具足は格好の餌食。。。
もはやそこに最強の名を欲しいままにした赤備えの面影は残っていません。。。
やがて彼らは井伊家の象徴たる最強の赤備えの具足を自ら脱ぎ捨て寝返っていきます・・・
赤備えが最強であった時代は直政の死とともに終わっていたのです・・・
これは彦根城主の庭「玄宮園」
かつては井伊の夢の庭・・・
今はブロ友yorosikuさんの夢見(昼寝)の庭・・・(冗談です・・・)
かつて最強の名を欲しいままにした赤備えの城も・・・
今はひこにゃんの城・・・
飯富・山県・井伊、かつて最強の名を欲しいままにした赤備えの猛将も、
猫に城主が務まる太平の世をきっと喜んでいることでしょう。。。
今日は国宝彦根城のお話・・・
「僕にも城主務まるかな~~」
さ~~、務まるかな~~・・・・
ではまた・・・