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ゼルダ無双 厄災の黙示録 をやってつくづくゲームの自由度 というものを考えるのですが。
たとえば一時期はやった何でもかんでもオープンワールドにする風潮がありました。が、その実は結局「〇〇のところまで行け」「××と話をして△△村に住む◇◇という敵を倒せ」のように、マーカーで示された場所に行くだけ。多少、順番が前後しようと最終的には決められたイベントのフラグを全部立てて次のストーリーが進む。 で、この理由って結局「ストーリーの整合性の都合」でしかないんです。そうしないとお話がつながらない、というような。しかし、それってゲームに必要なことなのかと。 ちなみにゼルダBOWのすぐれているところは、広いマップに物語が「断片的に存在する」ことであり。それをたとえ取り逃したとしてもなんとなく「ガノンを倒す」という当初の目的だけでいい。それどころか4神獣とそれの使い手の仲間たちとよばれる重要なイベントさえ、無視してもラスボスは倒せるし物語に破綻はない(単にエンディングで解放しなかった仲間が存在しないだけ)これはストーリーを一本道化するのではなく、断片でばらまいたことによる破綻をきたさない方法で、オープンワールドのストーリーテリングとしては実に理にかなっている。ユーザーに物語を想像させる余地があるお話です。 盆百のシナリオライターにありがちなのが「全部を見せたい、語りたい」というもの。しかし、それを行うためには小説のように、結局一本道の進行になる。それこそ昔から言われているJRPGのシナリオ通りにしか動けない、プレイヤーには全く物語に介入できない方式で、その論法をオープンワールドのどんなに広いマップに置き換えても旧来の一本道RPGと変わらない。 アメリカでも昨今は「フィールドがだだっ広いだけで結局、指定されたマーカーに移動するだけ」と、オープンワールド疲れをおこしているとか。 私などは特にアクションゲームの場合、ストーリーなんていらない、レベルです。むしろそのストーリーとの整合性を取るためにアクションに制限をかけるようなことがあったら腹が立つタイプで。 上の自由度の話に戻りますが、自分の大好きなゲームに「地球防衛軍シリーズ」があります。このゲーム、何が自由度が高いかというと、どんなステージでも基本は「敵を全滅させろ」というだけ。で、その中の自由とは好きな武器を選び、自由に戦場を駆け回る自由」なんです。「〇〇を守りながら移動せよ」のようなストーリー的イベントなどほとんどない。とにかく画面にいる敵を片っ端から倒すだけ。逆に言うと、このゲームに対して「この敵は破壊してはいけない」「民間人に犠牲者を出さず誘導しつつ~」なんてあったらちっとも自由じゃない。面白くもならない。 ゲーム内の自由度の高さとは広大なマップでも、大量に選べるキャラクターメイクでもない。決められたゴールのためなら何をしてもいいという自由さなんだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.12.01 08:42:26
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