中津江ミュージックフェスティバル・・・その1
8月22日(金)はファーマータナカ待望の第30回中津江ミュージックフェスティバルの日であった。昨年は雨で、会場の栃原グランドに人影が見えなかったので、勝手に中止かと早合点し、(会場が変更になり中津江村民ホールで行われていた)行けなくて残念な思いをしたのであった。このコンサートはファーマータナカにとって、第10回まで阿蘇のアスペクタで行われていた南こうせつの「アスペクタ音楽祭」とあわせて、上津江に移住してからのいわばライフワーク(?)的イベントだ。九州のへそと呼ばれる過疎の山村で行われるコンサートだというのにとにかく出演者のメンバーが圧巻なのだ。ファーマータナカのような団塊の世代には特に涙物のオンパレード。ざっと挙げても、岡林信康、高田渡、高石友也、山崎ハコ、小室等、下田逸郎、西岡恭蔵、友部正人、大塚まさじ、上田正樹、永井龍雲、宇崎竜童、憂歌団、かまやつひろし、 杉田二郎、加川良、中川五郎・・・といった具合だ。(順不同、抜けてるアーチストさんにはごめんなさい)ただ出演者の中や新聞の記事には、「今回で最後だと聞いたので・・・」云々との情報もあり、アスペクタ音楽祭亡き後、精神の開放の場を確保しておかないと生存が危ういファーマータナカにとっては、気になるところだ。後援である中津江公民館のO氏に事の真相を確かめておかなくてはならない。ということで、この機会に音楽(いわゆる日本のフォークの類)について少し書いておこう。今回のお目当ては加川良だ。彼は中津江ミュージックフェスティバルにはなんと19回目の出演となる。ファーマータナカは吉祥寺や高円寺の安アパートで貧乏学生だった1971年、加川良のアルバム「教訓1」がリリースされた。その新鮮で衝撃的なアルバムが欲しくて欲しくてたまらず、一方でニールヤングの「After The Gold Rush]」(1970年)も捨てがたく、おまけにお金もないので、購入を決断するのに数ヶ月を要した思い出が鮮明に蘇る。(購入は1972~3年であったか。)この時は結局「教訓1」に決め、レコードが擦り切れる程聴き込んだのであった。教訓1 作詞/作曲 加川良命はひとつ 人生は一回だから命を棄てないようにネ慌てるとつい フラフラと御国のためなのと 言われるとネ青くなってしりごみなさい逃げなさい 隠れなさい御国は俺達 死んだとてずっと後まで残りますヨネ失礼しましたで 終わるだけ命のスペアはありませんヨネ青くなってしりごみなさい逃げなさい 隠れなさい命をすてて男になれと言われた時には震えましょうヨネそうよ私は女で結構女の腐ったので構いませんよ青くなってしりごみなさい逃げなさい 隠れなさい死んで神様と言われるよりも生きてバカだと言われましょうヨネ奇麗事ならべた時にこの命棄てないようにネ青くなってしりごみなさい逃げなさい 隠れなさい69年の東大闘争、赤軍派紛争、国際反戦デー、新宿西口フォークゲリラと続く当時の世相やイデオロギーとは距離を置き、決して格好良くは無く、臆病で女々しく(差別的意図はございません)ある時は泥臭いのであるが、戦争や闘争がストレートに愚かしいものだという本能みたいなものが彼の人生観であったのだろうか。あるいは70年安保の挫折を機にして、社会に対するプロテストが自分自身に向けられるようになった変化を先取りした表現者だったのだろうか。そして昨今のイラクへの自衛隊派遣、教育基本法の改正、防衛省への格上げ、憲法九条の改正への動き等を38年前に予測していたかのような響きをこの歌詞は持っていたのだった。アーティストによっては初期の歌を封印する向きもあるが、加川良は自分の信じる歌を全国のライブハウスで歌い続けているのであった。その姿勢と今更ながらの歌の思いが、単なるノスタルジアでなくファーマータナカの涙腺を強烈に刺激してしまったのであった。号泣?!(「戦争をしましょう」等を歌う加川良、ブルーシートがいかにもローカル)彼の芸名は、加山雄三の「加」、長谷川一夫の「川」、池部良の「良」を組み合わせたものと言われる。岡林信康が表舞台を去った後、吉田拓郎と並び称せられた時期もあったが、結局「オモテの拓郎、ウラの加川」と言われ、拓郎ほどの一般的名声を得ることがなかったのは、拓郎がポップに変わっていくのとは正反対に、ストイックに自らの音楽に忠実に、お金にならない歌を歌い続けたのが理由とも言われている。時の流れにそれぞれに様々の紆余曲折があっただろう。それでも加川良は歌い続けるだろう。ファーマータナカの物質と精神の貧困はこれ又続いていくだろう。参考文献 「フォークが訊きたい」(富沢一誠 徳間文庫) 「200CDフォーク」(200CDフォーク編集委員会 立風書房)