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 Japanisch Ahnenerbe

第二話

第二話





 部屋に案内されるとロビーより一層ひんやりとした空気が皮膚をなぜた。一瞬で蝉が鳴きわめく世界が遠いものとなる。手ぶらだったことも特に気に留められることもなく、浴衣やバスタオルの収納されている場所や旅館の説明を一通り終えるとどうぞごゆっくり、と頭を下げて部屋を出て行った。
 戸が閉じられたあと、しばらく時計の音が部屋に響いていた。何かしようかと思って手元を見た時、自分が手ぶらであることを思い出した。
「まいったな」
ふと見やったテレビは小銭を入れないと使えないタイプだった。こんなところで資金を浪費するわけにもいかない……少し迷って空調が効いているのも気にしないで窓を開けた。外へ冷気が流れ出て行くのを背中で感じながら同時に流れ込んでくる蝉の鳴き声と日射しに目を細めた。住宅地を越えて見える海が、漁船の黒い影を浮かび上がらせながらキラキラと光っている。もういいだろうと思って窓を閉め、早くも滲みはじめた汗も気にせず再び出かけることに決めた。
 ロビーにおいてあったパンフレット片手に出たものの、この町に観光名所と言えそうな場所はなかった。掲載されていたのは私立の図書館と海岸にある砲台跡くらいだ。数が少ないことを不満に思いはしたが、夕食までの時間つぶしだから多くは期待しないことにした。海の近くだし、散歩がてら寄る程度でいいだろうと。
 歩き出して2ブロックも行ったかというときに前方から見覚えのある人がやって来た。
「あ、さっきはどうも」
駅前で道を聞いた少女だった。改めて見ると年は同じくらいで、駅前で見た時と同じ制服姿だった。少女は手に持っているパンフレットをチラと見、少し考え込むような表情を見せた。
「ひょっとして郷土史の研究か何か?」
「え、なんで」
「だってほら、ここって大したものはない街でしょ。たまに誰か来てもそういうのが多いから。図書館とか行くとこだったでしょ」
「ああ、うん。ところで、聞いてもいい?」
「うーん、数学以外なら……」
「いや、そういうのじゃなくて。名前とか」
「ああ、名前はシキミ。木編に秘密の密で樒。こういう名前だけど母親はキリスト教徒なんだよねー」
「へえ……」
樒って毒のある植物だったっけ、と思ったが聞くのは失礼にあたるので止めた。
「で、君の名前は」
「ああ、晴嵐だよ」
「そうか、晴嵐君だね。よろしく」
また明日会えたらと言ってそこで別れた。どうやら図書館は樒の友人の家が管理をしていて、なぜかバイト募集中だという情報を教えてもらった。そんなに大きい町でないので、その辺の掲示や入道雲を眺めながら歩くとすぐに到着した。「満洲図書館」と看板が出ている。看板は古めかしい感じだったが、改装でもしたのか建物は新しそうだった。ここで間違いなさそうだ。早くも体は汗が流れていてベルトのところに溜まり、じっとりといやな刺激を与えていた。
 「禁開放 冷房中」の注意に従って、入ってからドアをぴったりと閉じた。微かに古い紙の匂いがした。入る遠くに閲覧室らしい個室が並んでいた。張り紙によると、夏休みの間は自習室として開放しているらしい。あとは机椅子と本棚、図書館の基本的な内装だった。受付の上にかかっている時計は会館当時からありそうな古めかしいものだった。その下に視線を移すと誰かが座っているのが見えた。樒と同じくらいの少女で、シャツの胸元を大きく開いて扇風機の風を入れているところだった。と、次の瞬間こちらに気付き、ぎゃっと叫んで椅子から転げ落ちた。立ち上がりながらシャツを直して、効きすぎなほどの冷房にも関わらず顔を真っ赤にして頭を下げた。
「い、いらっしゃいませ……じゃなくて、あの、見なかったことにして!これ以上ドジ踏んだら何言われるか分からないから……!」
「あ、ああ……うん」
返事らしくない返事を返した時、少女の顔がはっとしたような表情のあと、緩んだ。
「たしか………駅前で会ったっけ」
そういえば、昨日旅館の場所を効いたときに樒と一緒にいた少女のひとりだった。樒は、友人の家が管理をしていると言っていたから彼女の家がこの図書館の管理をしていると見て間違いないようだ。
「君の名前って、この図書館の」
「そうだよ。ミチシマ。ミチシマトウカって言うのが名前。マンシューじゃないからね」
そう言うとメモに満洲藤花と書いてみせた。名前の読みに何か深い思い出でもあるようだったが、触れなかった。その自己紹介が終わると藤花は席を勧め、雑談が始まった。
「ところで今日の御用は?探し物?」
「いや……樒に教えられたから。暇つぶしにどうかって」
「樒もひどいねえ。まあいいや、どうせ人も来ないしゆっくりしていって」
「うん。ところでバイト募集って話を聞いたけど」
「あぁ……私ひとりじゃ頼りないって事みたい。爺ちゃんのリウマチが再発してさぁー、夏の終わりまでは動けそうにないから代わりの人を探してるの。よかったらどう?」
「まあ、考えとくよ……」
藤花は、いい返事を待ってると言って笑った。一応笑顔を返しておいた。しかし、今まで人に話してなければ自分でも深く考えたこともなかったが、自分は今、記憶喪失という状況だ。特に理由でもない限り仕事なんて無理じゃないだろうかと思った。
 さすがに図書館に来たのだから書籍に触れておこうと思った。時計を見ると充分に時間はあった。
「時間、気にしてる?」
藤花が時計を見上げた。そういうわけでは、と言って首を振ると藤花にちょっと来てと誘われて受付の後ろへ連れて行かれた。段ボール箱が積み上げてあって、全部に「資料」とだけ書かれた紙が貼ってあった。
「ひとつだけお願いがあるんだけど………これ、手伝ってくれない?ちょっとサボってたらこんなになっちゃって」
 資料とやらの段ボール箱の中身を片付ける作業だった。片目をつむって申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる藤花を見なくても、手伝うくらいはできるよと言おうと思ったところだ。夕方まで手伝うよと言って、一番上の箱を持ち上げた。

・・・

 図書館は意外に細長い建物で、この県に関する歴史資料や過去の新聞の縮小版等のファイルのある棚はかなり奥の方にあった。どうも藤花は受付に風が当たるエアコンのみ重点的に調整しているらしく、ここは妙に湿っぽさが残っていた。紙に悪いんじゃないだろうか。
「ちょっと待ってね。場所開けるから」
藤花が手際よくスペースを作っていく間、段ボール箱を持って突っ立っているのも難なので封を開けて中身を見てみることにした。取り出した紙に印刷された文字を読もうとしたが、妙な感覚がした。
「あれ………………」
 一瞬暑さにやられたのかと思った。しかし、そこまでの温度湿度でもないし、暑さに弱そうな藤花が紙の束を整理し直すスピードも変わっていない。目の前が少し霞んで再びはっきり見え始めたとき、自分の視界は別の世界にいた。
 壁は図書館の近代的な壁紙ではなく、ヒビすら見える地味な色に沈んでいる。どうやら自分は図書館の通路ではなく誰かの部屋の隅に立っているようだった。一見寝室のようで、家具がいくつか置いてあるのが分かった。独り用のベッドや箪笥が見えたが、痛みすら見える古い物だ。ドアの横に日めくりカレンダーのようなものが掛けてあって、日付は………
「よーし、これでいいかなー」
 突然、藤花の声がいやに大きく聞こえた。目を瞬くと風景は図書館に戻っていた。藤花が手をパンパンとはたきながら向き直るのが見える。あまりに突然の出来事で驚いたせいか、藤花にどうしたのと訊かれてしまった。
「いや、何でもないよ…」
なんとなく手元の紙に視線を落とすと、よく分からない数字が羅列してあるだけだった。
 途中雑談を交えたりしたが、今見えた風景のことは話題に出さないようにした。記憶喪失の身、思い出した記憶の一部だろうから、今後根気よく待つだけにしてみよう。それに今日会話したばかりの藤花に相談することでもないだろうし、日が経ってからで良いだろうと。
 しばらくして時計が鐘を鳴らした。図書館の前の地面を照らしていた夏の太陽は、すでに色が橙になっていた。
 夕食は大食堂でとることになっていた。この地方で穫れた野菜ですよと紹介されて目の前に料理が並べられていく。あちこちの旅館の人が引っ込むと自分ひとりでは会話も起こらず、ただ皿の上のものが胃袋へ消えていくだけだった。とは言っても食事行為を黙々とこなしていたわけではなくて、旅館の温泉のことをずっと考えていたのだが。

・・・

 温泉から上がると少しひんやりする浴衣に袖を通し、ロビーの隅のテレビを数人の客に混じって眺めていた。ニュースが一通り終わると、なんとなく他の客たちは解散しはじめた。興味のある番組もなさそうだったし、残っている人にリモコンを渡して席を後にした。
 階段を上っているときに、突然電気が消えた。
「違う……………」
停電などではなかった。昼間のあれがまたやってきたのだ。今度は階段に視点が浮いている。旅館の木の階段ではなく、古びたコンクリートのような床だった。なぜか自分と同じように立ち止まっている状態で、暗く沈んだ階段しか見えない。しかし、昼間見えた部屋と同じ建造物の内部ではないかと推測した。だとするとこれは誰かが今見ている光景だろうか。よく分からない。そのとき背後から足音が聞こえた。旅館の誰かのスリッパの音ではなかった。立派な靴の音。そして、ちょうど階段の一番下のあたりで止まった。すると視線が足音の主の方へゆっくりと向きはじめた。あれは……
「……………お客様?」
突然の声にハッとすると、後ろに従業員が立っていた。長い間こちらを見ていたのか、怪訝な顔をしている。
「あ……すみません。大丈夫です」
考え事をしていただけですと付け加えて、明るく照らされた階段を上った。その日は、それきり何も起こらなかった。




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