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FATの小説

FATの小説

子供と子供

「水面鏡」


子供と子供




―1―

 やたらとしつこい蟲の群れを焼き尽くし、茶色のウェスタンハット、茶色のマントに白のジャケット、ダボダボの黒ズボン姿のラス=ベルツリーは田舎町、バリアートに足を踏み入れた。珍しいこの訪問者を出迎えてくれたのは人ではなくブタだった。
「よぅ、ブタさん。こんにちは」
 放し飼いにされているよく肥えたブタの鼻先を軽く撫で、ラスは宿を探そうと茶色のウェスタンハットの唾を上げ、辺りを見回す。
「おい…ばれたんじゃないか?」
「いや、気づかれてはいない。見ろよ、あいつまたブタにかまってやがるぜ。見るからに間抜けそうじゃないか」
「見た目がか? お前はよっぽど見る目がないな。あの背中の大剣を見ろよ。あんなもの担いでるんだ。気を抜いたら真っ二つにされるぞ」
「けっ、どうせ飾り物さ。大丈夫。お前のあれが決まればいつも通りにうまくいくさ」
 木陰でこそこそと耳打ちをする二人の少年。一人は背が小さく、つんつんと黒髪を立てた気の強そうな一重瞼が特徴で、もう一人は短髪茶髪、おっとりとしていそうなたれ目が特徴である。その不穏な空気にラスは気づく気配もない。ただ、どこにも宿屋の看板がないことに多少の不安を抱き始めているだけである。
「ブタさん、この町には泊まるところがないのかい?」
 膝をつき、親しげに近付いてくるブタに話しかけたその時、急に何かが飛んできたかと思うと次の瞬間、謎の粉が巻き上がった。
「なんだ? これ…っう!! げっほげっほ!! ぐっほ!!!」
 激しい痛みが喉と目に走る。地面をのた打ち回るようにもがいていると、何者かの手がラスの愛刀に伸び、抜き去っていった。
「いやっほーい!! 成功だ!! レルロンド!! ずらかるぞーー!!」
 意気揚々と駆ける背の低い方の少年。しかし、その逃走は意外なものによって阻止された。
「ぴぎぃぃぃぃぃ」
 粉塵によって猛ブタと化したそれはでたらめに野を暴走していた。運悪く、少年の逃げるコースとブタの突進するコースが重なってしまったため、少年は跳ね飛ばされた。放物線を見事に描き、少年は地面に叩きつけられた。
「ランクーイ!!」
 レルロンド=アラジャランは身を隠していた木陰から勢いよく飛び出し、地に潰れているランクーイの様子を確かめる。衝突時の衝撃こそ強烈だったが、幸い落下地点は草の生えた柔らかな地質だったので目立った外傷はない。ほっと一息付くと背後からのおぞましい程の殺気が皮膚を刺した。
「許さねぇぞ…お前ら!!」
 沁みる目を懸命にこじ開け、潰れた喉からなんとか言葉を発する。まだ幼いラスは自我の制御がうまくできず、無意識のうちに上空に火の玉を六つ作り出していた。見たこともない火の玉の数にレルロンドはまばたきを忘れた。若干十七歳のレルロンドと十五歳のランクーイ。二人の少年はたった七歳の少年に今、その芽を摘まれようとしていた。
「ぷぎぃぃぃぃぃ」
 しかしまた、暴徒と化したブタが今度はランクーイたちを救う体当たりをラスにかました。頑丈なラスは微動だにしなかったが、それがきっかけである言いつけを思い出した。
(いい、ラス。旅に出るのは許すけど、一つだけ約束をして。どんなことがあっても、人を殺めてはダメよ。いいわね。私からのたった一つのお願いよ。守れるわよね?)
 炎の群れを直視し、震えているレルロンドの頭上を掠めるように火は飛んでいき、地中に潜った。ラスは無言で大刀を奪い返すと足元で気を失っているブタの頭を優しく撫で、レルロンドたちに背を向けて当てもなく歩みだした。
 去り行く恐怖に対してレルロンドは不思議ともったいない気がしていた。
 ――この田舎町でやんちゃをしているレルロンドとランクーイ。二人がこんな盗賊まがいなことをしているのは刺激がほしいから、ただそれだけである。別に盗った物をどうこうするつもりは毛頭ない。いつものパターンならレルロンドが調合した強刺激の粉塵の入った袋を矢につけ被害者の近くで破裂させ、相手が苦しんでいる隙にランクーイが獲物を盗り、二人してオロインの森に逃げ込むという手順であった。盗った獲物は逃走コース上の納屋の近くで、きまって投げ捨てた。森で落ち合い、互いの無事を称えあう瞬間、その一時が楽しくて、何度も何度も繰り返した。もちろん犯罪のあと一週間程は町には帰れな
かった。しかし、親のいない二人にとってはそんなことは問題ではなかった。
 今、初めて狩りをしくじり、更に、死の危機にも直面した。しかし、何故かレルロンドの心は燃えていた。目は、輝きに満ちていた。
「待ってください!!」
 ラスは言われるがままに立ち止まった。
「僕らの非礼を詫びます! ですから…僕の家で謝罪をさせてはいただけませんか?」
 ラスの顔が僅かに明るくなる。宿が、見つかった。




―2―

 比較的新しい、しっかりとした家だ。おそらく築十年も経っていないだろう。窓が大きめに作られており、家の中には光が充満している。だが、どこか寂しさを感じるのは何故だろう。
 ラスは寝込んでいるランクーイの額に冷たく濡れたおしぼりを乗せ、部屋を見回す。小奇麗に整理整頓された室内。まるで誰も生活していないかのような、不気味さを感じる。
「お待たせしました。こんな物しかありませんが…」
 レルロンドがトレイに甘いハチミツティーと七色のキャンディーを乗せて現れた。それらをラスに献上すると、深く頭を下げた。
「先程は本当に申し訳ありませんでした。…その、おかしな言い方かも知れませんが、命を救っていただき、ありがとうございました」
 まだ痛む喉を癒すため、ハチミツティーを一気に飲み込む。今度はその甘さにむせ返る。
「…なんで盗賊なんてやってるんだ?」
「僕らは決して物が欲しくてあんなことをしているわけではありません! 盗ったものはすぐに返します」
「はぁ? 何考えてんだよ」
「…スリルです。僕らはスリルを求めているんです」
「そうだ、俺たちは退屈なんだよ…」
 青白い顔のランクーイが口を挟む。
「ランクーイ、寝てなきゃダメだ。顔が病気のゴブリン並に青いぞ」
「どういう状況なのかわかんないけど…こいつがなぜここにいる?」
「後でゆっくり話す。すみません旅のお方、こいつは口のきき方も知らない愚か者でして…」
 ラスは関心なしといった様子で、
「スリルを求めて盗みか…迷惑だぞ。もっと別のことにスリルを見出せよ」と助言した。
 この瞬間、レルロンドの瞳が力強くラスの瞳を捉えた。
「そこでお願い致します!! 僕ら二名を弟子にしてください!! 一緒に、旅をさせてください!!」
 突然の懇願にラスはもちろんのこと、ランクーイも唖然とせざるをえなかった。
「レルロンド、何言ってるんだ! 見ず知らずのこんなやつに弟子入りだなんて…どうかしちまったのか?」
「ランクーイ、お前は魔法剣士になりたいんじゃないのか? だったら文句を言わずにこの方に付いていくのが一番の近道だぞ」
「…こいつ、そんなに強いのか?」
 ラスに対し、挑戦的な眼差しを向けるランクーイ。だがその視線は巨大な刃によって二つに断たれた。
 …反応すらできない、いや、見えてすらいない。
 ラスが、今度はゆっくりと刃物を背中に納めた。硬直した顔が全てを物語っている。ランクーイは無意識に流れ出る涙が布団に深く沁みこんでから、ようやく股が温かくなっていることに気づいた。





―3―

「なぁ」
 ラスが食後のデザートを平らげ、まだフォークを動かしているレルロンドに話しかける。
「はい、なんでしょう」
 慌ててフォークを置き、真面目な顔で向き合う。
「歳いくつ?」
「十七です」
「だったら俺に敬語なんて使うなよ。情けないぜ」
 レルロンドは首を傾げる。ラスは大柄で精悍な顔つきの青年である。どう見積もっても自分よりは歳上なのは間違いがなかった。
「え? では、ラスさんは何歳なのですか?」
「なな」
 レルロンドは聴き間違えたものと思い、こう言った。
「なんだ、じゅうなな歳ならば同じ歳ですね。ランクーイはまだ十五歳なので二人で面倒を見てあげましょう」
 この特異な男が自分と同じ歳だと思い込んだレルロンドは少しばかり悔しい気持ちになったが、次の一言が彼の世界観を根底から変えた。
「いや、七。まだ七年しか生きてない。産まれてから、七年しか経ってない」
「――――」
 言葉が出なかった。彼の目は空を泳ぎながらもその画面の中にラスを捉え続けた。経験したことのない震えが体の隅々までを支配し、腿の上に置いた手は感覚を失う。彼にはこの発言を冗談と取ることも出来たはずなのにそれをしなかった。この男を、常識という枠の中に収めることが出来なかったのである。
「俺だって不思議でならないよ。なんでこんなにでかくなっちまったのか、こんなに魔力を秘めているのか」
 レルロンドは揺さぶられた世界の揺れをしだいに快感へと変えつつあった。それは今日、去ろうとしたラスの背中をなんとか繋ぎとめたあのときと同じような熱い胸の躍動が起こさせたものだった。
「ラスさん、僕はこれからもあなたに敬語を使い続けさせていただきます。歳なんて関係ありません。あなたが慕うに値する人物である限りはそうさせていただきます」
 ラスは何か摘もうとテーブルの上に手を伸ばしたが何もなかった。
「あ、何か取ってきます。しばしお待ちを」
 レルロンドの顔は興奮で赤紫になっていた。椅子から立ち上がった瞬間、意思に反して脚が折れ、床に膝をぶつけた。ラスは声もかけずにただ赤くなっているレルロンドの顔を不思議そうに眺める。レルロンドも何も言わずに急いで立ち上がると戸を開け、食べ物を取りにいった。戸は開いたままになっていた。
「なんなんだ、あいつは…」
 ラスにはレルロンドの思考が読めなかった。まだ幼すぎるラスの心はレルロンドがラスをどのように見ているのかが分からなかった。ただ、純粋に彼の言った「慕うに値する人物」というものがどういう物なのかをぼんやりと考えてみた。彼の言うそれがただ単に「力」を意味するのならば自分にとって「慕うに値する人物」とは母エイミー以外には思いつかなかった。
(しかし…)
 赤子のときから可愛がってくれているレンダルやデルタにも同様の尊敬心を持っている。となれば、「慕うに値する人物」というものは決して「力」だけを問うものではないらしい。
 では、自分は何を基準に「慕うに値する人物」を決定しているのだろうか…
「お待たせしました」
 答えを探していると折り悪くレルロンドが小さな果実を大皿いっぱいに乗せて戻ってきた。
「ああ…悪い、腹は別に空いてないんだ。それよりお前、早く自分の分喰っちまえよ」
 テーブルの上のレルロンドの皿にはまだ主食のステーキが二欠片残されていた。慌てて置かれたフォークは皿から転げ落ち、テーブルに肉汁が跳ねている。
「あ、すみません。でもラスさんが何か食べたそうにしていたので…」
「あのなあ、今後のために言っとくけど、そういう接し方はストレスが溜まるんだ。俺に気なんか使うなよ」
「はい」
 レルロンドは少しうつむき、大皿を慎重にテーブルに置いた。音を立てずに置かれた皿の上には鮮やかな赤色をした艶のある果実が敷き詰められている。彼はそのまま椅子に腰掛けると汚れたフォークを拭いもせず、肉片を口に放り込んだ。
 運ばれてきた果実を無視し、ラスはレルロンドの食事姿をじっくりと観察した。肉を刺すとき、器用に中程で止め皿との衝突を避け、口に入れてからもくちゃくちゃと不快な音を漏らさぬように器用に噛み潰し、飲み込む。どうやらこの男に気を使うなと言うのは無理らしい。その視線に気付いたからか、全てを胃に収めるとまたもラスと向き合った。
「お前、親はどうしているんだ?」
 突如、レルロンドの表情が変わった。それは先程までのなよなよとした少年とは違った顔であった。
「父は四年前から帰っていません」
 無神経にラスは
「母親は?」
「そのせいで二年前に過労死しました」
「そうか、大変だな」
 感心のなさそうなラスの返答にレルロンドはまたも顔を赤くした。その色は先程のものとは真逆のものである。
「あなたのご両親は?」
「両親なんてものはいない。俺には母親だけだ。母親から俺は産まれたんだよ」
 レルロンドは腕組みをし、深く瞬きをしてもう一度ラスを見直した。
「僕も母親から産まれました。それは当然のことでは?」
 言ってからラスがまだ七歳だということを思い出した。もしかしたらまだ、命のサイクルの定義を知らないのかもしれない。
「そうだ、当然のことだけれども…俺には、父親がいないんだ。母親だけなんだよ」
「あなたが産まれたときにはもういなくなっていたのですか?」
「産まれる前からずっとだ。母さんは一人で俺を産んだんだ」
「そういえば、産まれはどこなのですか?」
 レルロンドはこれ以上その話題を続けることを拒んだ。延々と続く終わりのないループに足を踏み入れていることに気がついた。
「魔法都市スマグの隣町、トラヴィス。町っていっても村みたいなもんだけどな」
「まぁ、ここも同じようなものですがね」
「いや、ここよりはましさ。宿はあるからな」
 終始冷めた口調で会話をしていたラスは真正面に座っている男の異変に思わず刀に手を伸ばしそうになった。
「宿がないなんて絶対にランクーイの前では言わないで下さい! あいつは!!」
 急に声を荒らげ、テーブルを両の掌で叩きつける。慎重に置いた大皿から赤い実が二、三個こぼれた。
「なんだよ急に。やつがどうかしたのか?」
 動かしてしまった手を刀に回す代わりに耳の裏を掻く。
「…あいつの家は宿屋だったんです。でも両親が死んでしまって…。だから、絶対にあいつの前で宿が無いだなんて言わないで下さい!!」
「だからって急に大声だすこたぁーねーだろーが!! そんなことまで俺が知ってるわけねーだろ!!」
 レルロンドは一瞬で冷静になった。それは彼と出会ったあのときと同じ状況になった光景が脳裏に浮かび上がったからである。
「す、すみませんでした、つい…」
 気弱に頭を精一杯下げる。ラスも今回はそれほど興奮していなかったらしく、かゆくもない耳の裏をもう一度強く掻きむしった。無意味に赤く腫れた面に血が滲んだ。
 沈黙が始まり、物音一つしない無の時間が過ぎていく。
「どこで寝たらいい?」
 寝るという選択肢を使ってラスはこの重圧から逃げた。仕掛けるわけにはいかなかったレルロンドは笑顔で
「ベッドに案内させていただきます。こちらへどうぞ」と戸を開けようとし、そこでようやく戸が開きっぱなしになっていたことに気がついた。平素、なんでも几帳面にする癖のある彼がそんな初歩的なミスを犯すとは彼自身ある事実を受け入れざるを得なかった。
「すみません、戸がずっと開きっぱなしだったようで…」
「ああ、ちょっと寒かったな」
 レルロンドは意外そうな顔でラスを見た。季節は晩春。最近は長袖など不要なほどの気温で夜でも薄い毛布一枚あれば充分なほどである。当のラスはといえば厚手の長袖の上にジャケット、さらにはマントも纏っているのに寒かったとは……
「なんだ? 案内してくれるんじゃなかったのか?」
「え? あ、すみません。こちらです」
 廊下を挟んだ戸の取っ手を回す。
「どうぞ、二つベッドがありますが好きなほうを使ってください」
「お前はどこで寝るんだ?」
「僕は自分の部屋で寝ます。それともここで寝ましょうか?」
「斬られてもいいならそうしろよ」
「す、すみませんでした、おやすみなさい」
 戸に隠れるようにしてそっと閉める。彼との仕切りが完全に閉まろうかというとき、ラスは「すみませんって、寒いぜ」と漏らした。
 この日、レルロンドは寝付けなかった。





―4―

 ばしゃばしゃと水の弾ける音が通路や開け放してある部屋にこだまする。その衝突音は上階の隅の部屋の隅までも顔を出すほどこの家と一体化していた。
 風呂場で震えながらも懸命に、むしゃくしゃと洗濯板で下着とズボンを擦り合わせているランクーイの目元はあかぎれしたように荒れ、厚みをつけている。下半身を露にしたまま、もちろんそんなことは気にせずに、ただ本日の奇行を思い返していた。
「まさか俺たちがしくじるなんて…あんなやつに…」
 まず、彼は自らの失態を思い出し、それがなければ「あんなやつ」とは関わらずに済んだかも知れないと思うと、板を擦る腕に力が入った。同時に、つい先程の恐怖も強制的に付属し、力んだ腕は板の脇に逸れタライに溜めた水を彼の顔に飛ばした。
「レルロンド…あいつ、どうしちまったんだ?」
 一度標的を外した手を荒々しく細い板の波の上に戻し、水と衣類とを混ぜ合わせ、ばしゃばしゃと音を立てる。ランクーイの知る限り、レルロンドはもっと知的で冷静な男である。それがあのような見ず知らずの男にぺこぺこと自らの人生を預けるような愚かな行為に出たことが理解出来なかった。
「俺のため…なのか?」
 レルロンドの言った「ランクーイ、お前は魔法剣士になりたいんじゃないのか? だったら文句を言わずにこの方に付いていくのが一番の近道だぞ」という一言が彼の頑固な心にひびを生じさせていた。
 両親がまだ生きていた頃、ランクーイは世界で一番強い剣士になりたいという平凡だが無謀な夢を抱いていた。そこでおねだりをし、泊まりに来ていた商人から木のナイフを買って貰った。それは果物も切れない、紙も裂くことも出来ないほどの粗悪品であったが、まだ幼かった彼にとっては正に世界で一番強い勇者の剣そのものだった。
 彼が平凡で無謀な夢を持ってから数年後、更に無謀な願いを持つきっかけとなる人物に出会う。
 ―――まだランクーイは九歳。いつものようにレルロンドとはしゃぎ、調子に乗りすぎて大人に行ってはダメだと言いつけられていたオカー三角州へと探検に出てしまった。一面に広がる背の高い黄金色の穂の軽快な踊りに二人は夢中になって駆け回った。なびく穂の行進は二人を妖しい力で惹きつけ、気がつけば四方を作物の茎が塞ぎ、空は穂に取って代わられていた。
 心地よい穂のざわめきは二人に安息を与えた。それが終わるとき、そこには涎を垂らす赤い犬が汚い牙を剥いて茎の壁をなぎ倒し、進んでいた。
「おい! ランクーイ!! 野犬だ、起きろ!!」
 心地よい自然の音楽を壊す、生き物の生み出す不協和音にレルロンドは危険を察知し、その肉食獣を見つけた。彼の発した声によってランクーイが目を覚ましたとき、捕食者は既に眼前に牙を突きたてようと口を開けていた。偶然ランクーイが驚いて足を振り上げると、野犬の柔らかな腹を蹴り、飛び込んできた勢いと相まって頭上を飛行していった。
「走れ! 振り向くなよ!!」
 ランクーイは手を引かれ、黄金色の森をよたよたと走った。背後から迫っているはずの野獣の息遣いは聴こえない。代わりに、やかましい穂の擦れあう雑音が聴覚を支配する。
 空がまだ見えない。陸がまだ見えない。生がまだ見えない。
 ランクーイの背中に熱い物が触れ、先を走っているレルロンドを追い越した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ」
 レルロンドの目にはっきりと映った、白と対照の赤。そして金と赤茶色。それは悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか、あるいは両方を一度に取るべきなのか、彼を悩ませた。
「ランクーイ! しっかりしろ!!」
 彼は一瞬手を伸ばしたかに見えたがそれはランクーイの手を掴むのではなく、腰に携帯している薄い布の袋を掴み取り、抜けたばかりで穴の空いている金の森に投げ込んだ。折れた茎の先に運よく当たり、赤い犬は巻き上がった粉塵にむせ、穴から転がりながら赤茶色の大地に出てきた。
 レルロンドは赤に染まりつつあるランクーイの白いシャツを見て、のろしをあげる必要を悟り、急いで乾燥した麦を掻き集め、マッチで火をつける。
 レルロンドは欲張ってしまった。いや、選択を誤ってしまった。
 ランクーイを助けようとしたために、そのことに集中したために重要なことを忘れてしまっていた。
「あっ…」
 赤い目が彼の足に根を張らせる。迫り来る捕食の瞬間をレルロンドはただ待つしかなかった。
「…ロンド……」
 眠い目を何とか開けてランクーイは友が調理される様を見届けようとしていた。しかし、ぎりぎりであがった火と煙に、臆病者は安全な被食者であるランクーイを最初の獲物に選び、姿勢を低くしてにじり寄る。ランクーイの顔は蒼白、「おいしくないから食べないで」とでも語っているようである。手足の先が冷たく、背中の熱さと反比例している。
 ランクーイは体中から出るもの全てを出していた。恐怖という名の長年の友に初めて負けたと自覚した瞬間だった。
 用心者は紫色の舌を垂らし、立ち止まる。どうやら食事の準備が終わったようだ。ランクーイは声にならぬ声と共に貴重な水分を溢した。そして、見えるもの全てが黒くなった。
「大丈夫か? 坊主」
 瞼を誰かが布でノックする。それに応じてもう一度目を開くと赤い壁と動物の顔とがあった。視界の端ぎりぎりのところに立派な鋼鉄のブーツが光る。その上を見ようと首を回そうとすると激が飛ぶ。
「まだ動くな!」
 だがランクーイには聴こえない。息を荒くしていつ消えるかもわからぬ自分と闘い、救援者を仰ぐ。そこで、ランクーイは不思議なものを見た。勇者の両手が薄緑色に光っていたのだ。その明かりを眺めているとどうしてか、ボロ負けした恐怖に今度は負ける気がしなくなっていた。
「よし、動けるか? 坊主」
 ランクーイは試しに寝返りをしてみた。あんなに熱かった背中はその熱を失い、失っていた熱を繊細な部分が取り戻していた。
「あれ? おれは…」
「よかった、生気が戻ったな」
 天に届くかと思われるほどの青年の姿をランクーイはようやくその両目に映した。まだ余韻の残る希望の光を眺め、その光を掴んだ。
「よくがんばったな、ほら、そこの坊主もこっち来いよ」
 その一言にレルロンドの根が地中から抜ける。無言でランクーイに抱きつき、生を確かめた。
「さぁ、家まで送ってやるよ。坊主、おぶってやろうか?」
 ランクーイは素直に勇者の肩に腕を回し、飛び乗った。その背中は父親の何倍も大きかった―――
 それからである。ランクーイは奇跡の正体を突き止め、自身も魔法という非常識なものを欲するようになった。そう、彼はあの英雄のように人を守れる魔法剣士になることを決意したのだ。
「あいつ、強いけど魔法も使えるのか…」
 そんなランクーイの気持ちをよく知るレルロンドの推薦である。あの大男が夢に近付くための力になるのならば…
 ランクーイはすすぎを済ませ、水を吸って重くなった下着とズボンを干しに外へ出た。衣服はところどころ糸がほつれ、使い物にならなくなっていた。そんな失態も、彼の下半身が露なままになっていることの前では然程問題ではなかった。

―5―

 しけた朝がやってくる。まだ薄暗いなか、レルロンドは火薬やらスパイスやらを丁寧に一つずつ小分けし、袋に詰めていた。もうこんな作業を数時間延々と繰り返している。ラスに言われた「寒いぜ」という言葉を反芻すると、さらさらと粉が机にこぼれる。一つ大きく溜め息を付き、気分を変えようと部屋を出ると、獣が立っていた。
「うわぁ! え? ラ、ラスさん!?」
 やけに細長い足指。茶色の体毛に覆われた脚、下着からはみ出している細長い尻尾。腰の辺りでこれらの特徴は消え、その上は屈強な肉体美が飾られている。
「なんだ、朝早いんだな」
「ええ、まぁ。…ラスさんってウルフマンだったのですか?」
 レルロンドはもう一度足の先から腰までをゆっくりと観察した。太ももなどは彼の倍はあるだろう。
「いや、ウルフマンとは別物だぜ。俺、狼にはなれないからな。やつらは人間か、獣か、どちらかにしかなれないんだろ? 俺みたいな中途半端なのはどっちでもないんじゃないかな」
 ラスが魔法使いの類であることは判明している。現在彼の故郷、魔法使い都市スマグの近辺で突然変異による人間のウルフマン化は稀ではなく、全世界に認知され、中には完全なウルフマンでありながら富を得、人々の憧れになっている者もある。だが、ラスは中途半端なのだ。下半身にのみ現れたウルフマンの特徴。ラスは自分自身をウルフマンの突然変異種と位置づけ、特に深い考えは持っていなかった。
「ではラスさんはウルフマンと人間のハーフなのですか?」
「俺の母親は人間だ。ハーフだのなんて話は聴いたことがない」
 レルロンドは再びあのループに入りかけていることに気づき、慌てて話題を切り返す。
「この町にはどの程度滞在なさる予定ですか?」
「考えてないなぁ…。お前、あの話は本気か?」
 あの話、と聴かれて一瞬考えるも、すぐにレルロンドの顔が明るくなる。
「はい! 本気です! ラスさん、ついて行かせて下さい!」
 ラスは冷たく目を尖らせ、
「なら死を覚悟しておくんだな。スリルが欲しいだなんて安易な考えで俺についてこれるほどお前たち二人が優れているとは思えないからな」
「はい。僕ら二人とも死んで失うものはもうありません。ですからその覚悟はとうに決めております」
 ラスはレルロンドから視線を外し、徐々に光量を増している窓の外を見た。やはりこいつは子供だと、七歳のラスは感じた。

 ランクーイがレルロンドの家に入ると、香ばしいパンの焼けた匂いが開けたドアから逃げ出すように彼の全身を通り抜けていった。その匂いがランクーイの頭の中でパンを具現化させ、腹が大きく鳴った。
「お! きたか、ランクーイ」
 その大きすぎる音が家主に訪問者があることを告げる。テーブルに置かれた四枚のトーストのうち、二枚をラスに、もう二枚をランクーイに差し出した。側にはマーガリンとマーマレイドのジャムが添えられている。ラスはそれを不服そうに、「バターはないのか? マーガリンは正直好きじゃないんだ」
「あっ、すみません、すぐに取ってきます」
 とまたもレルロンドは謝り、ばたばたとキッチンに向かった。
「なぁ、あいつっていつもああなのか?」
「いいや。お前が来てからだ」
 明らかな敵対心を剥き出しに、ランクーイはラスを睨み付ける。だが、そこには攻撃的な意図は全く見えなかった。その目を、ラスは「若い」と思った。
「お待たせしました、どうぞ」
 差し出された良質なバターを豪快に割り、トーストを平らげる。二枚をあっという間に飲み込み、おかわりを催促する。どうやらここのバターはラス好みのようだ。その豪傑っぷりを見たランクーイも負けじとマーマレイドをたっぷり塗ったトーストを放り込む。が、喉でつっかえあえなく敗退。マメなレルロンドにしては珍しく飲み物を忘れていたのでランクーイは少ない唾液で苦しみながら飲み込む。今の危機によってあんなに空いていた腹は食欲を失った。

「今日も盗賊ごっこをするのか?」
 ようやく出されたミルクティーを一口に、ラスが二人を交互に見る。
「いえ、もうしません」
 レルロンドは丹念にミルクティーをかき混ぜている最中だ。
「早く稽古をつけてくれ」
 ランクーイはミルクティーの温度が下がるのを待っていた。
「…お前ら、この町になんで人が来ないか分かるか?」
「え? なんでって…」
「女がいないからだろ」
 ランクーイがませたことを言う。
「ここに来る間の道に変な蟲が大量発生してるんだよ。そいつらが恐ろしく攻撃的でな、港町の人間にきいたところだと死人もえらいでてるそうだ」
「軟弱な奴らだなー。俺たちならあんな虫共簡単に握り潰せるのに」
「…ランクーイ、多分お前は勘違いしてる」
 レルロンドはラスの意図を汲み、
「では、その蟲を駆除しましょうか」
「ああ、行こうぜ」
 多少の緊迫感を感じているレルロンド、まだ弱々しい虫と勘違いをしているランクーイ、真意を隠すラス。少しばかりのずれを持って、三人は町を出た。

―6―

……ぶぶぶぶぶ

………ぶぶぶぶぶぶぶ

 至る所から耳障りな羽音が聞こえてくる。予想以上の大群にランクーイは言葉を失った。
「来るぞ! ランクーイ、構えろ!」
 レルロンドの呼びかけで無意識に細身の剣を右手に握り締める。だが、想定していたものと余りにもかけ離れた敵の姿に戦意が湧かない。
「おい! レルロンド! これどうすりゃ斬れるんだ?」
「斬れるわけないだろ! 燃やせ!」
 と爆薬を詰めた小包みをいくつかランクーイに支給する。レルロンドは自分の足元で煙球を破裂させ、姿を晦ます。蟲が煙に巻かれている間に矢に例の小包を括りつけ、火をつけて放つ。空中で矢は爆発し、焼けた蟲の残骸が散らばる。
「いてっ、いって! いたたたた」
 素早い蟲の群れに捕まってしまったランクーイはなす術なく、全身を突きまわされる。
 爆薬に火をつけようにも、痛みがそれを妨げる。
「ランクーイ!」
 レルロンドの支援でランクーイの周りに煙が立つ。やっとのことで開放されたランクーイも小包に火を付け、憎しみを込めて蟲の群れに投げつける。
「ふぅ、こりゃ死人がでるのも分かる気がするぜ」
「軟弱だな」
 ラスがぼそりと漏らしたのを、ランクーイは聞き逃さなかった。
「なんだと…」
 そこで怒りの言葉は途切れる。怒りは憧れに変わり、少年は体を包む温かな、あの光を愛おしそうに抱きしめる。ラスの周りには焦げた蟲の塊が無数に転がっていた。それはランクーイとラスの力の差を知らしめるには十分であったし、何よりも、ラスが自分の憧れであるあの魔法をかけてくれたことに、ランクーイのラスに対する印象が逆転した。
「…ありがとう」
 ランクーイは少し恥ずかしそうに顔を背けたまま、ラスに誠意を見せた。子供はちょっとしたことがきっかけですぐに自分の考えを変えられる、天才である。この柔軟さをいつまでも失わずにいられるなら、人はどれだけ賢くなれるだろうか。
「まだだ。巣を燃やそうぜ。でないと毎日繰り返すはめになっちまう」
 見当がついているのか、ラスは北に向け、歩き始めた。
「なぜこちらの方角に?」
 歩幅の大きなラスに必死についていきながら、レルロンドが顔を見る。
「あの手の蟲は水辺に巣を作るって教わったんだ。だったらあの滝のあたりが怪しいだろ?」
 どうやらラスは良い教育を受けていたようだ。生物と地理の知識の高さが伺える。

 あからさまに異常である。滝から水が激しく落ちていると思いきや、それは水ではなく蟲だった。水の流れに乗り、滝つぼに吸収されたかと思うと羽ばたき、再び水の流れに乗り滝つぼへ。まるで子供が遊んでいるかのようなその不思議な習性に博学のラスも舌を巻いた。
「なんだこりゃあ」
「遊んでいるようにも見えますね」
「溺れてんじゃねーの?」
 今度は水の中にいるのだから爆薬では役不足だろう。レルロンドはごそごそとバッグを漁ってみるも、良い代用品が思い当たらない。と、突然雷が滝つぼに落ち、電光が滝を登った。滝つぼにはもう飛び立てない蟲の死骸がループし、川辺には焦香が蔓延る。
「お前らじゃ役不足だろ?今回は特別だ」
 雷はラスの産物だった。あれほどの電力を放ったというのに、当のラスは平然である。
 二人の少年は一段とラスに惚れ込んだ。
 
…ぎぐぎぎぐぐがぎ

 低く、重たい金属が擦れるような音が滝の水を四散させる。滝裏に姿を現したのは、ラスよりも巨大な一匹の羽虫だった。
「化け物だな…」
 ランクーイが一番に剣を構える。遅れてレルロンドも弓に矢をあてがう。そしてラスは腕組みをした。
「な…一緒に戦わないのか?」
 ランクーイが急に弱腰になる。そんな腰抜けにラスは、
「俺についてきたいんだろ? さっきの蟲は相性が悪かったが、こいつならでかいし、お前らだけで何とかしてみろ。無理なら一生盗賊ごっこでもしてるんだな」
「ふん、いいぜ。あんたに認めさせてやるよ、俺たちを。そしたら、魔法…教えてくれるか?」
 にかっと大口をあけてラスがランクーイの背中を押す。
「ああ! 約束してやる! そら、とっとと行けっ!」
 
 虫は茶褐色で、羽が4枚ついている。尻からはあからさまに威嚇しているぬめった棘が獲物を捉えようと頻繁に収縮を繰り返す。まるで蜂のような印象を受ける。

…ぎぐぎぎぐぐがぎ

 どこから出ているのか、脳を揺さぶるほどの衝撃音が空気を脅かす。数匹生き残っていた蟲がその音に飲まれ空中で弾けた。巨大な羽音が、奇妙な超音波がランクーイを恐怖と勇気の板ばさみ状態にさせる。睨み付ける目と前に出ない足、力む腕と荒い呼吸。虫が頭を大きく一度振るうと、次の瞬間レルロンドの頭に牙が掠る。
「レルロンド!」
 虫が瞬間移動したように見えた。だがレルロンドにはその軌道が見えていた。ラスにも当然見えていた。ただ、緊張のあまりランクーイに時間錯誤が起こっただけのことである。
 レルロンドは頭を牙が掠めながらも冷静に、弓を腹部に突き立てた。レルロンドの愛用する弓は両端に刃がついた遠近両用の珍しいものである。が、それゆえ弓の柔軟性は損なわれ、矢の威力は期待できない。レルロンドが爆薬等を持ち歩いているのはこういった理由からである。
 濃緑色の粘っこい液体が弓先にこびり付く。空気に触れた瞬間に硬質化し、弓の柔軟性を更に低下させる。無論、傷口は瘡蓋によって即座に塞がれた。なんとも生命力の強い血液だ。相手の動きに注意しながら、レルロンドはこびり付いた血の塊をぱぎぱぎと剥ぎ取る。血液どうしの結束力は強いが、異物との結合力はさほどではないらしい。
 微妙な距離を置いて空を舞う虫と、弓についた異物と削ぐレルロンドと、刺すような氷の目を向けるラスの三者の間をランクーイの目はきょろきょろと行ったり来たりしている。
 戦わねば夢は夢のまま、憧れは妄想に、希望は再び手の届かぬ場所へ……。いつまでレルロンドの背中に隠れているつもりだ、いつまで「あの日」を引きずっていくつもりだ! 
「うぉおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
 射程外である宙の敵に剣を振るう。ヒュンヒョンと何も斬れない虚音が滝の濁音に飲まれる。
「ちぃ! ランクーイ!!」
 七割ほどしか塊を除去出来ていない不出来の弓を構え、虫の急降下に合わせて爆矢を射掛ける。ランクーイが剣を左から右に振り切った瞬間、虫は棘を彼の腹部に深々と差し込んだ。
「う…はあぁ」
 体がまるでランクーイの戦意を拒むかのように、するりと崩れた。それとほぼ同時に、数メートル先の地面が爆発を起こす。レルロンドの放った矢は的を外れた。しかし、矢を放った際の反動振動により、邪魔をしていた血は全て砕けた。虫の飛行が速いか、レルロンドの充填が速いか、微妙な差ではあったが、空中で虫の腹が弾けた。
「ランクーイ!!」
 腹部から赤と緑の反発する液体が漏れている。側に立つラスが珍しく優しい笑顔を見せる。
「大丈夫だ。もう傷口は塞いどいた。毒もたいしたことなさそうだしな。それにしてもお前、すげえな! 魔法なしであんなに素早く矢打てるやつそうはいないぜ! こいつはまだまだだが、お前さんに免じて特別合格だ」
 レルロンドの顔がにわかに赤らむ。ややたれ気味の目には嬉々としたきらめきが姿を見せる。ランクーイを大事そうに抱えて、レルロンドは改めてラスに熱い眼を送った。



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