チェンジリング
映画館を出た直後は『この女性に希望が持てる結末で良かった』と思っていた。パンフレットや映画サイトでも「エンディングの一筋の救いの光明が差し込む、それに感激する」という。しかし、私の場合、暫く時間が経過した今、『果たしてこの女性が希望を持ち続けて生きていけるのだろうか?』という疑念が頭を駆け巡る。おそらく彼女はこれから先何度も我が息子を探し、「見つかった!」という一瞬の喜びを味わう間もなく「別人だった・・・・」絶望に叩きのめされるはず。クリティン・コリンズが希望を見出す数と絶望の淵に落ちる回数は「=」。それに耐えうるのだろうか?という疑念。私は「希望」という言葉がとても好きで、本来であればこの映画でも「希望」を僅かに感じさせながら終わることにとても満足するはずなのだが。そうは感じさせなかったところがクリント・イーストウッドの手腕だと感じている。腐敗した警察や精神病院といった権力サイドをただの悪役に仕立てて、糾弾することもせず、クリンスティン・コリンズや精神病院の女性患者といった弱者を弱者らしく描く『お涙頂戴』でもなく。彼のスタンスは事実を淡々と映し出す、『ミリオンダラー・ベイビー』同様に陰翳をうまく使い分けながら、スローモーションを多用することなく。そのような撮影は私の心のひだの更にもうひとつ奥にあるひだに突き刺さるから、唯の希望で終息する映画には感じられない。クリント・イーストウッドという人は私にとっては非常に『コワい表現者』だ。こう感じてしまうのは男だからか?女であれば、もっと言うと母親は『子供への愛情』に視点がブレないのだろうか?終盤で殺人犯(ゴードン・ノースコット)と面談し、曖昧で非誠実な態度を取る彼にキレた彼女は幾度も幾度も「Did you kill my son?」と尋ねる。終いには詰め寄ってまで・・・・・この質問にあなたは「Yes」、「No」どちらの答えを望みますか?私はズルいです、どちらもイヤです・・・・クリント・イーストウッドもズルいというか巧みというかこのシーンでは明確には答えさせませんでも私は敢えてどちらかと言えば殺人犯は「Yes,I did」と答えるだろうな(または答えてほしい)、と思いながら見てた。恐らくここは男はYesを女はNoを期待するのではなかろうか?7年後の別の家族の再会のシーン、これも素晴らしい。帰ってきた理由があまりにも当たり前でありふれている『家に帰りたかった、ママとパパに会いたかった』演じ手ではアンジェリーナ・ジョリーとジョン・マルコヴィッチしか知らなかったのだが、ジョーンズ警部を演じたジェフリー・ドノバンをはじめ、ジェイソン・バトラー・ハーナー、エイミー・ライアン、マイケル・ケリー(目元がエド・ハリスに似ている)、それぞれの役にピタリとハマっていて今後のご活躍を楽しみにしたいところ。クリント・イーストウッドは佐野元春の『コヨーテ、海へ』を聴くといいのになぁ。愛ははかない / 正義は疎いまだ見ぬ朝日がきっと / きっとどかにあるのさもう夢など見ない / 希望はせつないこの世界を信じたい / うまくいかなくても構わないこじつけだけど、この歌詞とチェンジリングは僕にはグサっと来る。