カテゴリ:日記♪日記♪
自分が何がしたいのかわからなくなっているので、何か書き留めておく必要があると感じ記載する。 幸せになりたいと願う。みんなが幸せになれますように。それを人に伝え、それを理解してもらいたいと願う。が、それを理解するべくもなく、手っ取り早い手段に出る。そうすることで、その人は目的を達成することを優先し、理解ではなく、結果を求める。それでは意味がないと思うのだが、相手は理解よりも結論が欲しいので、話は平行線である。しかし、強要するのも変だし、説明しても「何が違うのか?」と、こちらに答えを求める。その姿勢がすでにずれているのだが、人に答えを求めて生きてきた以上それを求めるのは苦しい。自分も正しいことを言っているという自信もない。それもこれも自分で実践していないからにつきるのかもしれない。うわべの知識では何も役にはたたない。 難しいことになるのは、無知であるから。実践なくして、人に伝えることは不可能に近いことではなかろうか。人と人とがコミュニケートし、相手に何らかの理解を求める際、そのベースになる共有知が必要。その共有知は共に時間を過ごすことで共有できる可能性はある。同じ体験を繰り返し、その状況を同じように感じることを繰り返すことにより、ある程度は似たような感覚は得られるかもしれない。しかし、相手は自分ではない。当たり前だが、他者は自分ではないため、何も約束されないのだ。 だから、人に対して幸せになって欲しいと思った時に、間違っていることを指摘するのは必要だが、それを指導するのは、限りなく無理ということか。自らが実践し、得た経験のみが、相手に伝えられる。 幸せになりたい。それは他者(自分以外の全ての人)が幸せになることであり、お互いが幸せであることが、皆の幸せにつながる。経済に傾倒した状態は、全員の幸せを呼ばない。ってことか。 小学4年生くらいの時、先生に言われた言葉を思い出した。「損得で動くのは良くない。」と。だが、今なら先生に言える気がする。感情に流されて、感情の奴隷になるのが幸せと考えるのは、いかがなものかと。それはあなたにとって自由ですか?と。幸せって、論理的に説明できるものではなかろうか。論理的に取捨選択するのは、無駄が嫌だからですよと。ただ、その言葉、今だから多少そう思うだけで、その時はただの「言い訳」であったのは、想像するだけで寒々しい。全てを理解するのは現実的ではない。ならば、全てを受け入れよう。「そうですか」と。
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最終更新日
2009年02月11日 13時51分01秒
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