熊澤蕃山『集義和書』卷第三「書簡之三」 五十四
一 再書略。しからば仏説〔ぶっせつ〕に似たる候。わざともう〔設/儲〕けて神通方便〔じんつうほうべん〕をなすがごとくに候。空々〔くうくう〕として跡なき事をだに作りはじむる人の、又跡にしたがいて愚人とひとしく候や。 返書略。少しも心はなく候。三皇の時においては、空々として跡なき事もおこり候。心の感ある道理候。孔子の時には、迹〔あと〕あることをもたずね学ぶ心の理〔ことわり〕御座候。上世は、大虚を祖とし天地を父母とすること、近し。聖人生まれて其の名残らず、まどいなれば明者かくれ、不孝子なければ孝子をおどろかず、不臣なければ忠臣しれず、政刑なくして大道行われ、教学なくして人みな善なり。後世にいたりて、性・情わかれ物欲生じぬ。人初めてまどいあり。此の時に当たりて伏羲氏出〔い〕で給わりぬ。惻然〔そくぜん〕として感慨あり、教なきことあたわず。時に天道、竜馬〔りゅうめ〕に命じて、文を以って其の志を助け給えり。書画〔しょかく〕・教学のはじめなり。伏犠氏以前は、物欲きざさず、情、性に合する故に、人に病疾なし。後世、有欲多事のきざし出で来てこのかた、病人あり。医薬の術、耕作の政〔まつりごと〕なきことあたわず。天道・霊草・美種を降ろして、神農氏の業〔なりわい〕を助け給えり。是〔コレ〕、皆、神聖広大の知の緖余〔ショヨ〕なり。時によりて発するのみ、伏犠・神農の春のごとし。周公・孔子は夏のごとし。其の模様はかわりあれども、同じく天理の神化なるがごとし。易は無極の理なれば、孔子のみにかぎらず。伏犠といえども是のみとおもい給うことはなき道理にて候。