佐遊李葉 -さゆりば-

2006/04/09(日)13:55

露野 -127-

露野(129)

 姉姫はすっと立ち上がり、端近に出て空を見上げた。白い額を覆っていた黒髪がさらさらと肩へ流れ、今はもう元の青ざめた色の頬があらわになった。露を含んだ目許、桜花のような淡い唇…逝く春を想わせるそれは、薄幸な未来を予感させる様で、私の胸は高鳴り乱れた。  私はとっさに自分のしのぶずりの狩衣の裾を引き裂き、矢立の筆に墨を含ませて走り書いた。   かすが野の若紫のすり衣 しのぶのみだれ限り知られず   (春日野の若紫で染めたこのすり衣の模様の乱れには、限りがないのです)  そしてそれを小柴垣の傍らに立つ柳の枝の先に結びつけ、後も見ずにその場を走り去った。  まだ少年だった私は、姉妹に声を掛けようなどと思いもよらなかった。ただ、私の初めてのこの胸の高鳴りをあの人に知ってもらいたい。そして、あの悲しげな人に、待ちわびた文の替わりにはならないかもしれないけれど、一人の男の真心を込めた歌を差し上げたい。ただそれだけだった。  供の元に戻ろうと街道への小道を駆け戻る私の中で、姉姫の白い面輪が、思い出の中の人と重なった。あの人も、訪れることのない父を待って、あんな風に空を見上げていたのだろうか……待って、待って、そしてついに儚くなるまで……。

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