2014/02/10(月)16:14
遠き波音 -38-
腕の中の顔は、ほんのりと笑みを浮かべる。
「若君の方も、わたくしを慕って、いつもわたくしのことを吉祥天女のようだとおっしゃり、いつか自分をわたくしの婿にしてくれなどと。そんな若君も、大きくなられてからは、やがてうちにはおいでにならなくなりましたけれど」
寂しげな声音に、しばらくの間その口は閉ざされる。しかし、やがてまた夢見るような微笑が、目を閉じたままのその顔に広がっていった。
「でも、あの頃の楽しかった日々は、今でも毎日のように思い出します。明るい日差し、鳥の囀り、若々しい木々の緑。何の苦しみも哀しみもなく、ただ喜びと微笑みに満ちていたあの頃。何となく、そんな昔のことを思い出すのです」
「……私が、わからないか?」
近江守は嗚咽に喉を詰まらせながら問うた。そして、もう一度吉祥の左手を取り、手首の火傷跡を撫でながら言った。
「この傷をつけた時のことを、今でもよく覚えている。今日この近江国府へ着いて以来、なぜかそなたのことが気にかかってならなかったのだ。どこかで会ったことがあるような気もしていたのだが、ずっと誰だかわからなかった。この傷に気づかなければ、このまま見過ごしてしまったかもしれないと思うとぞっとする」
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