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テーマ:暮らしを楽しむ(383437)
カテゴリ:心つくり
ありのままが一番素敵。 そう、それは十分頭で分かってる。 でも・・・・・。自分の全てを認めて、受け容れるって中々難しいことです。 「こうなりたい、こうありたい 私の姿」を思い描いて日々精進しているけれど・・・・。 それでも、何故こんな事しちゃったんだろう・・・・?何故こんな事口にしてしまったんだろう・・・?と、自分が嫌になってしまうような自分が、紛れもなくそこに存在していて・・・。 『白の私』は、「こうありたい私」に向かって進む魂。でも、同居している『黒の私』は、「私の言動に自信が持てない私」。そして、白黒一緒に共存しているのが私自身・・・。 大人なら、自分の言動に責任を持て!と良く言われるけれど、望みもしない方向に私を持っていく「私」がいて、困ってしまう・・・・。 自分自身が意図した意味に私の言動を受け取られたのなら、望みもしない方向に進んで行こうともまだ割り切れるかもしれないけれど。 大概、自分が言いたかった本来の意味や前後の言動は消去されて、あまり深く考えずに言ってしまった一言が一人歩きしだしたりして・・・・。 ありのままの自分でいる事って、難しいと感じてしまいます。 『ありのまま』(梶田 真章 法然院貫主 著)に、ありのままでいる事の意味を書かれていました。 「ありのまま」 佛教の阿弥陀様の立場からすると、いろいろな人間がいて当たり前です。自分の思い通りにならない自分がいるのだから、どんなふうになっても自分はおかしくない。ですから、極端な話、人殺しをした人と自分とは、違う種類の人間ではありません。罪を犯した人は、たまたまそういう縁が整ってしまっただけで、「私」も縁が整ったら誰かを殺すことがあるかもしれない。(もちろん罪に対する社会的責任はとらなくてはなりませんが) 阿弥陀様の前では、善人も悪人もない。みな同じ人間で人間には一種類しかない。おぎゃあと生まれてから、ずっと悪人もいなければ、ずっと善人もいない。 人はそれぞれの縁によって、こんな人になったりあんな人になったり、日々変わり続けている。明日に何をしでかすか分からない、あやふやな存在なのです。 「自分らしさ」や「本当の自分」を見つけようと、一生懸命になる必要なないと思います。もちろん、自分の好きな事ややりたい事を考え、追求していけば良いのですが、もしそれが変わってしまっても何の珍しい事もないし、見つからなかったとしても焦る事もないのです。 あなたがあなたとして生きているだけで、十分な個性なのですから。 本当の自分なんて 全部本当の自分だから 嫌になるほど本当の自分だから 嘘の一つもつきたくなるよ。 (詩人 深井ゆうじん 作) 例え嫌なところがたくさんあっても、自分は自分で良いのです。かけがえのない一人なおですから。 中々難しいけれど・・・。でも、私はこの世で誰とも比べられる事のない、私というかけがえのない命。 日々変わり、揺れ続けるあやふやな存在。 だからこそ、真理を追い求めたくなるのかもしれません。 「悟り」は「吾の心」を見つめる事なのかもしれません。現実から眼をそらさず、自分自身のあり方をしっかりと見つめてみる。 自分は取るに足らない存在なのだと心のそこから思えたら、そのとき初めて自分は「凡夫」(煩悩をかかえそこから自由になれない存在)だという自覚が生まれる。自分の力ではどうにもならないという「他力本願」の心が得られるのです。 そして、他力本願で生きてみる。 いつの日か必ず、ありのままの自分を可愛いと思えるようになる為に。 「私」はかけがえのない一人
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