治った人の真似をするということ
生活の発見誌2024年12月号から森田先生のお話です。神経症が治った人を見て、自分も早くあの人のようになりたいと思う人はすぐに治ります。この気持ちは「うらやむ」ということです。自分もそのようになりたい、その人の真似をしたい、その人を見習いたい、少なくともその人の声咳にでも接したいということになる。それによって自然にその人の感化を受けるようになる。何かの因縁をつけて、その幸福感のお裾分けを受けたいと思うのを「あやかる」とかいいます。それは誠に自然の人情であって、純なる心であります。この心になると神経症もズンズンよくなります。しかし、多くの人、特に神経質者はそのまま無邪気に済まされず、そこにさまざまの思想が働いて第一念に続発して、第二第三の考えが起こってくる。神経症が治りにくい人は、早く全治した人を見るとそれにあやかることをしないで、「ひねくれ」て、「そねむ」ことが多い。あの人は頭がよいからとか病気が軽いからとかで、それで治りやすいが、自分は意志薄弱であり、病気が重い、あるいは先生の診断が間違っているかもしれぬとか、自分勝手の理屈をつけ、独りでひねくれて、治療に反抗し、わざわざ自分で治らなくしてしまいます。私にも似たような経験があります。私は家庭菜園をやっており、しばしば集談会で作業内容について説明しています。またその様子をA4の写真に拡大して紹介しています。これを聞いて敏感に反応する人がいます。市民菜園に申し込んで自分でも野菜作りを始める人が出てくるのです。ベランダでコンテナなどでミニトマトを作り始めた人も出てきました。これが発展して、草花を育てたり、盆栽作りに挑戦する人も出てきました。小動物を飼い始める人も出てきました。こういう人はどちらかというと神経症のとらわれも軽減しています。症状の話よりも、生活や仕事上の悩みや、趣味や習い事の話が多い。反対に、家庭菜園の話に全く興味や関心を示さない人もいます。買った方が安上がりではありませんか。野菜をつくる畑がないので私には無理です。手が土で汚れるようなことはしたくない。破傷風になったら取り返しがつかなくなる。雑草の処理や病気や害虫の防除は大変でしょう。私はヘビが嫌いなので畑仕事はできません。森田先生が入院中、お見舞いに訪れた先生方がお互いの似顔絵を描き始めたという逸話があります。その時一人の先生が「絵は苦手だ」といって似顔絵書きに参加されなかった。すると森田先生はそういう態度では、立派な医者になることはできませんと一喝されました。あまりの剣幕にその場の和やかな雰囲気が気まずくなったそうです。下手とか上手だとかにとらわれず、みんながやっていることに素直に従ってみることは、案外症状から解放される近道なのかなと思っていますが如何でしょうか。