2015/02/23(月)06:53
盲従ではなく素直であるということ
森田理論学習を宗教のように見立てて、「森田教」というのは違うような気がする。
森田を宗教のように見なすと盲従することになるからである。盲従は駄目である。
今日はその説明をしてみたい。
実は2013年2月9日の投稿で「柔順と盲従」の違いについて書いた。
20歳の水谷先生が入院中の時、森田先生が、「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」といわれた。
女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。
しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前に頭を下げた。
森田先生は苦笑いしていわれた。
「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。
柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。
君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。
それが君の正直な気持ちだ。
そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気でぐるぐるまわりをしただろう。」
まったく図星で、返す言葉もない。
「こんな場合、ほんとうに柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。
いくら柔順に実行するといっても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない。」
つまり柔順というのは、自分の気持ちを前面に打ち出すということである。
盲従というのは、意に沿わないのを押し殺して相手の意向に合わせてしまう事です。
こんな場合は押し殺す必要はないのです。
森田先生は森田理論の学習はいくら疑いを持っていてもよいと言われています。
その上で、森田先生は「神経質問答」の194ページでこうも述べておられます。
「こんなことをして治るとは不思議なことだ、どうも納得がいかない」と思いながらも、もくもくとその通りに実行するのを「素直」とか「柔順」とかいいます。
「素直」とは、自分にはよく分からないながらも、自分の信頼する人の教えるままに、仮に「そうかなあ」と定めて、ためしにやってみることであります。
少しも難しいことではない。
ところが、不柔順な人は「わからない」と断言して、少しも実行しようとしません。
これが横着であり、強情であります。
この素直と強情の区別が、治ると治らないとの分かれ道である。」
ただ疑いながら、理解できぬままに、一定日数、森田療法を実行して試みればいいのである。
反抗的で、もっと自分の病気を増悪させて、先生に見せつけてやろうと思ってもよい。
どんなに反抗気分でもよい。真剣勝負のようにならないといけない。
不得要領でノラクラしているのが一番悪いとも言われています。
その点生活の発見会は入会も退会も自由である。
その後森田学習を続けるかどうかを判断すればよい。
1年でも真剣に学習すれば容易に判断がつくと思う。