森田理論学習のすすめ

2015/10/18(日)07:05

雑談恐怖症の人へ

人間関係、不即不離(418)

雑談恐怖症について考えてみたい。 人が数名で雑談している。あるいは主婦が何名かで立ち話をしている。 その場の中に入り込めない悩みである。 これは大勢でおこなう縄跳びにうまく参加できないのとよく似ている。 みんなは何の迷いもなくどんどんと流れるように飛び込んでいく。 縄が足に引っ掛かって縄跳びが中断することがない。 ところができない人は、どこで入り込んだらよいのか分からない。 仮に飛び込んで見てもうまく飛べるという自信が持てない。 挙句の果てには自分の足に縄が引っ掛かって進行を妨げてしまうのである。 そして恥ずかしい思いをする。みんなが自分を責めているような気がする。 また能力のない自分を軽蔑しているように感じる。 それならなんとか理由をつけて参加しない方が気が楽だ。人にも迷惑がかからない。 でも避けてばかりいるといつまで経っても縄跳びはできない。 みんなと楽しく遊ぶことはできない。 そんな自分を自己嫌悪して、どんどん孤立して人間関係作りを避けていってしまうのである。 雑談恐怖という人を見ていると、不思議なことに、仕事で人と会話する時は意外にも実に堂々としていることがある。 営業成績をそれなりにあげて生活しているわけだから、会話ができないというわけではない。 それは会話自体に仕事のためという目的があるからである。 商品説明をして売り込むという目的。相手を説得するという目的がある。 その目的があるために一心不乱になれる。雑談ではないので不安は発生しない。 ところが雑談というものは、とりとめのない会話である。 仕事のように会話自体にはっきりとした目的はない。 会話自体が空中浮遊物のようなものなのだ。 またはっきりした目的のない会話は無駄であるという気持ちがある。 目的のない会話というものは、森田でいうと「生の欲望の発揮」を忘れてしまっているようなものである。 そういう状態の時は、自分の意識は外へは向かわずに、内へ内へと自己内省していくのである。 つまり自分の身体の違和感とか気分に向いてくるのである。 そうなると相手との会話は蚊帳の外になる。また雑談することが苦痛になるのである。 そもそも雑談には目的がないというがその考え方自体が間違いである。 雑談は相手との関係を敵対するのではなく、友好的に保つという役割がある。 挨拶と一緒である。「おはようございます」「おつかれさまです」 「今日はいいお天気ですね。お変わりございませんか。」 「おかげさまで。あなたもお元気そうですね」 「もうかってますか」「ぼちぼちですな」これらは意味のない会話である。 なくても別に生活に困るというものではない。 でも意味のないことだからと言って、すれ違う相手にこういう声かけを全くしないとすると、疑心暗鬼で人間関係はとてもぎくしゃくしてくる。 雑談というのは会話の中身に目的があるわけではない。 人間関係を円滑に保つという目的があるのだ。 だから取りとめのない肩に力の入らない話でちょうどよいのだ。 またしいて会話に加わらなくてもよい。聞いているだけでよい場合も多い。 参加していることに意味がある。 参加してみんなの話を聞いているだけで、居合わせた人と良好な人間関係作りをしているということになる。 意味のない会話は時間の無駄だと思って避けていると、人間関係は疎遠なままなのである。 雑談の時話の中身に注意を向けてはならない。 相手との人間関係を良好に保つための潤滑油としての役割を果たしていると思えば苦にならなくなるのである。 そう考えると雑談の持っている意味は大きいのである。

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