カテゴリ:生活の発見会・集談会
藤田英夫氏は「教える」「説明する」「指示する」「世話をする」ことは、人に親切の押し売りをしているのだといわれる。そのことの弊害について考えてみたい。
1、「教えることは強制することとほとんど同じだ」という人がいる。 「教える」ことは、その人が「発見」するチャンス、発見への思考プロセスを取り上げていることだ。 教えられてしまったことは永久に発見できないし、それについて考えることもできにくくなるからだ。 思考プロセスを取り上げた結果として、指示待ち、答え待ち人間になってしまう。 2、「説明する」は、自分で感じるチャンスを取り上げてしまうことになる。 説明されてしまったことを改めて自分で感じることはできにくくなる。 現実に出会っても、それに対する説明されたものを持っていると、そこから感じるものが限られてしまうからである。 世界各地の美術館巡りをしている人がこんなことを言っている。 実際に名作を見ても一向に感動が湧かない。 その原因は、これらの名作は教科書などにも載っているし、結局「予備知識を持って知り過ぎている」からではないか。 3、「指示」することは、人びとの主体性を奪うことです。 自ら考えて行動することをしなくなり、じっと指示を待っている人がいる。 指示された事だけを行い、それ以外のことはしない。これはロボットに近い。 人間の主体性を奪い、人間を「道具力」として扱うのと何ら変わりがない。 本来の人間性を無視しているのである。 4、「世話をやく」のは、本人の自立を邪魔して、依存症を作りだしてしまう。 世話とは、その人のできないことに力を貸してあげることだ。 ところが、その人自身ががんばればできることに力を貸して助けてしまう。 これは過保護、過干渉である。なんでもかんでも「世話をやく」ことは人間を堕落させてしまう。 (人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 129ページより引用) 森田理論学習の場ではどんなことに気をつけるべきなのか。 自分の立ち直ったプロセスは一つの体験として伝えることは有効である。 しかし、相手に自分の成功体験を強要してはならない。 また最初から「こうしなさい」「ああしなさい」と指示されることは誰でもうんざりだ。 相手が神経症のどん底であえいでいる時には、すぐに森田理論を「教える」「説明する」したくなるが、それは慎むべきことだ。 初回、2、3回目ぐらいは受容と共感の気持ちで受け止めてあげることだ。 それではすぐにこなくなるという人もいるが、その人は他の心理療法との比較のために様子を見に来ているのだ。 すべの人に森田理論が合うわけではないという認識を持つことが必要ではないのか。 ただ、その人に寄り添い見守っているというメッセージを与え続けることは大切である。 相手がどうにもならなくなって助言を求めたときのみ、「説明する」という態度で臨むべきだ。 それ以外の親切は「小さな親切大きなお世話」という結果になりやすい。 私先生、あなた生徒という関係では、結局相手が立ち直るということは難しいだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.03.26 06:22:30
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