カテゴリ:観念重視から事実重視への転換
森田先生は事実には、「主観的事実」と「客観的事実」があると言われている。
たとえば心臓麻痺恐怖の人がいるとする。 医者が検査してあなたの心臓は問題はない、大丈夫だという。これは客観的事実である。 しかし本人はやはり恐ろしい。医師の診断に納得できない。これは、主観的事実である。 この時、患者は大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がるものであるという主観的事実とを認めなければならない。 神経症に陥っているような人は、客観的事実を無視して、主観的事実に重きを置いている。 本来は客観的事実と主観的事実を天秤にかけて、調和のとれた考え方や行動をとることが大事なのである。バランスのとれた思考ができなくなって、主観的事実に振り回されている状況である。 傍から見ているとなんでそんなに強情なのだろうと見えてしまう。 でも本人は真剣である。真剣であればあるほど滑稽で異質に見えてしまう。 もっとわかりやすい例がある。イソップ物語のすっぱいぶどうの話である。 腹を空かせたキツネがぶどうの木を見つけた。ところがぶどうの木が高くて手が届かない 何回ジャンプしてもぶどうを取ることができない。 そこで狐は負け惜しみで、あのぶどうはきっとまずくて食べられるようなものでは無いはずだ。 自分のぶどうを採って食べたいと言う気持ちを欺いた。 そして自分はもともとぶどうは好きではなかったのだと思おうとした。 また、そのぶどうを取る力がない自分に対して「自分は何をやってもダメだ」と自己否定をした。 ここでの紛れもない主観的事実は、ぶどうを採って食べたいという気持ちである。 しかし、努力しても、その欲望が叶えられないので、逆にその気持ちを抑圧しようとしたのである。 森田理論では、腹が立つ、悔しい、嫉妬する、不安である、悲しいなどのネガティブな感情でも人間の意志の力でなくしてしまおうなどと考えてはいけないという いくら理不尽で嫌な感情であっても、感情自体に良いも悪いもない。 どんな感情でも価値批判しないでそのままに受け入れることが大切なのである。 この場合の客観的な事実は何であろうか。自分は背が低くて葡萄に手が届かないということである。 それでもぶどうを食べたいという気持ちがあるなら、その障害を取り除くべく、なんらかの手立てをする必要がある。例えば、何か台のようなものを持ってくる。あるいは脚立のようなもの探してみる。 いずれにしろ、目的が達成できるようにいろいろと工夫をするようになる。 ただし、ぶどうが食べたいという主観的事実を無視していると、そのような建設的な方向には向かない。 感情をねじ曲げたり、自己否定、自己嫌悪の方向に向かう。 ここで大事なことは、主観的事実をありのままに素直に認めるといういうことである。 これを無難に通過すると、客観的事実のほうに注意や意識が移っていく。 するとそこに存在する問題や課題を解決するために、いろんな気づきや発見が生まれ、やる気やモチベーションが次第に高まってくる。 そういう意味では、主観的事実と客観的事実は「かくあるべし」でやりくりをするのではなく、どこまでも事実に忠実に従うという態度をとることが大事になる。 主観的事実と客観的な事実を、今の自分にとっての主観的事実とは何か、あるいは現実に目の前に立ちはだかっている客観的な事実は何かに分けて、どちらの方にも偏ることがないようにバランスを意識することが大切なのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.07.10 06:30:03
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