カテゴリ:森田理論学習の進め方
相田みつをさんによると、道元禅師は次のように言われているそうです。
「仏道は必ず行によって證入をすべきこと」と。 これは「仏道は行によって悟れ」 「仏道を学ぶものは、行から入れ」ということです。 つまり、仏道を学ぶ者にとっていちばん大事な事は「行」だ、ということです。 仏教の言葉の片言を頭で覚えても、そんなものはなんにもならん、ということです。 それはそうですよね。相撲の知識をいくら覚えても相撲はとれませんからね。 相撲取りにとっていちばん大事な事は理屈抜きの稽古です。 つまり「ぶつかり稽古」と言われる「行」ですね。 「行」が先、理屈は後。これは全てのスポーツ、すべての稽古ごとに言えますね。 その「行」は誰がするのか。答えは至極単純明快。 いつでもどこでも、今、ここ、の自分自身です。 「そうか、そんなことか、分かった」というのではダメ。 「さあ、それではお前自身はどうか」 指は人に向けてはいけません。自分のヘソに向けるのです。 人差し指を他人に向けると、無責任な世間話か、人の批評に終わってしまいます。 仏法とか仏道というものは、いつでも、どこでも、人差し指を自分のヘソに向けて、 「さあ、そこで自分ならばどう動く」と自分自身に問いかけ、自分から主体的に行動をしていくことだと私は思っています。そこで自分自身に指を向けてみると、私の場合はいちばん大事な「行」をやっておりません。 厳しい「行」の体験もなく、仏教や禅の言葉の片言を、知識として頭で覚え、 禅の臭いをぷんぷんとふりまいて禅者のふりをする中途半端な人間のことを「野狐禅」と言います。 そしてまた、仏教について、専門的な学問も知識もないのに、人に仏教を解くことを「不浄説法」といいます。「野狐禅」も「不浄説法」も、亡き師、武井老師から常に厳しくつ戒められてきたことです。 (いちずに一本道 いちずに一ッ事 相田みつを 佼成出版社 3ページより引用) これは仏教や禅の理論や知識ばかりを求めて努力する態度は、間違いだといわれています。 そのような方向ばかりの人は、「野狐禅」「不浄説法」につながる。 実行、実践、行動から入るのが正しいといわれています。 森田正馬先生の入院療法では、まさにそうでしたね。 日常生活の中で、森田的生活態度を身をもって悟らせるというやり方でした。 入院生にとっては、なぜそうするほうが良いのかというまとまった森田理論の講義を受けたわけではない。それは、退院後森田先生の著書や形外会に参加することで、後付で学習していったのである。 現在、ほとんどの場合、森田理論学習から入りますね。 入院森田療法、外来森田療法以外には「行」から入るということはありません。 そういう意味では、逆になっています。 それは間違い、見当違いかというと、そうでもないと思います。 理論から入って実行、実践、行動に入っても何ら差し支えありません。 ここで注意したいことは、森田理論を先に学んでしまうと、森田的な生き方が分かったようなつもりになってしまうということです。そういう人は私の周りにもたくさんいます。 その人の普段の生活ぶりを、見たり聞いたりしているとすぐに分かります。 森田理論を生活の中に取り入れて活用している様子があまり感じられない人です。 森田理論の学習と行動実践は車の両輪であるといわれています。 学習面が名人の域に達しても、行動実践面への応用が乏しければ、車輪は観念的になり、空回りをしてしまいます。 その状態は、理論を知っているだけに、森田理論を学習する前よりも悪化してくると思います。 理論の車輪と行動実践の車輪は常に同じ大きさを保つことが不可欠です。 理論の車輪が大きくなれば、行動実践も大きな車輪に付け替えなければ問題が出てくるということを忘れてはなりません。バランス、調和を心がけていくということです。 この考え方は、森田理論の目のつけどころの一つです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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まさに『典座教訓』ですね。
自分の身にも染み渡ります… (2019.04.18 11:43:45)
通りすがりさんへ
「典座教訓」はとてもよい言葉ですね。 2013年11月27日に投稿した、岡山県玉島の円通寺の仙桂和尚さんのことを思い出しました。 良寛さんは、最初禅の研究や坐禅をしないで、畑仕事ばかりしていた仙桂和尚さんのことを軽蔑されていました。 後にこの考え方は誤りであったと気づかれました。 森田も理論と実践は車の両輪と考えて、バランスわ意識していくことが大事なのでしょうね。 (2019.04.20 07:52:21) |
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