カテゴリ:生活の発見会・集談会
論語の中に「六十而耳順」(ろくじゅうにしてみみしたがう)という言葉があるそうだ。
60歳になると人のいうことを逆らわずに聞くことができるという意味だそうだ。 人の言うことを、是非善悪の価値判断なしに素直に聞くことができるということだ。 あるいは、先入観や決めつけることなく、謙虚な気持ちで相手の話に耳を傾けることだろう。 これは森田理論の目指しているところと一致している。 そういう人の周りには、自然に他人が集まってくると思う。 自分も60歳を超えているが果たしてそのように変化してきているだろうか。 森田理論学習のおかげで近づいている面もあるが、どうもそうではない面が多い。 死ぬるときまで修業がつつくような感じだ。 これはその方向を目指すことを意識していないと、すぐに挫折してしまうのではないかと思う。 またすぐに後戻りしてしまう。それは「かくあるべし」があまりにも肥大化しているからだ。 放っていても自然にそのような状態になるとは到底思えない。 私の場合は、生涯森田に取り組んで学習を継続する。 1か月に1回は学習会に参加して、1か月間の生活のまとめをする。 それを体験交流の場で発表して、他の人のアドバイスを謙虚に聞くようにしたい。 そういう気持ちを持ち続けて、「耳順」の気持ちを忘れないようにしたい。 私のような高齢者はこれまでの人生の中で、修羅場をくぐって様々なことを経験している。 失敗や後悔していることも多い。それらを乗り越えたり、抱えたまま現在に至っている。 そういう話は、これから人生の荒波に向かって舟を漕ぎ出していく人にとっては参考になることが多い。 人生の最終章にあたって、それらの対応方法を若い人たちに伝えていくことは大切だと思う。 これは私たち高齢者のできることであり、使命であると思う。 そのためには、前提として「耳順」(じじゅん)の態度が欠かせないと思う。 いつまでも自分の「かくあるべし」を相手に押し付けているのでは、煙たがられるばかりだ。 他人が近くに寄ってこなくなれば、いくら役に立つものを持っていても、宝の持ち腐れになるばかりである。そのうち何もすることがなくなり、無為な人生で幕引きになってしまう。 私は中学生のころから対人恐怖症でのたうち回ってきた。 その間37歳の時に森田療法と自助組織に出合い、森田理論学習と学習仲間との交流を続けてきた。 そのおかげでほぼ定年まで仕事を続けることができた。 森田理論の神髄も理解できるようになった。神経質性格の活かし方も分かった。 不安と欲望の関係もよく分かった。「かくあるべし」の弊害と事実に立脚した生き方も理解できた。 理解しただけではなく、生の欲望に沿った実践や応用もできるようになった。 これらのことは残された人生の中で、神経症で苦しんでいる人や対人恐怖で苦しんでいる人たちに伝えていきたい。そして多くの人に楽な人生に転換してもらいたい。 そのためには「耳順」の態度を忘れないように自分に言い聞かせたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.07.16 06:30:09
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