森田理論学習のすすめ

2024/09/28(土)06:20

☆「主観的事実」と「客観的事実」の関係

森田理論の基本的な考え方(435)

2024年8月号の生活の発見誌の体験記のなかに、「主観」と「客観」の区別ができるようになったことが大きな成果だと述べておられます。 これは大変重要な指摘だと思います。 森田先生は事実には、「主観的事実」と「客観的事実」があると言われている。 たとえば心臓麻痺恐怖の人がいるとする。 医者が検査してあなたの心臓はなんの問題もない、大丈夫だという。これは客観的事実である。 しかし本人はやはり恐ろしい。医師の診断に納得できない。これは、主観的事実である。 この時、患者は大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がるものであるという主観的事実とを認めなければならない。 神経症に陥っているような人は、客観的事実を無視して、主観的事実に重きを置いている。 これは飛行機でいえば片肺飛行をしているようなもので大変危険です。 イソップ物語のなかにすっぱい葡萄の話があります。 腹をすかせたキツネが葡萄の房を見つけた。 ところが葡萄の木が高くて手が届かない。 何回ジャンプしても葡萄を手にすることができなかった。 そこでキツネは負け惜しみで、あの葡萄はきっとまずくて食べられるようなものではないのだ。 捕れなくても構わないと、葡萄を採って食べたいと言う気持ちを欺いた。 そして自分は、もともと葡萄は好きではなかったのだと思おうとした。 また、その葡萄を取る力がない自分に対して「自分は何をやってもダメだ」と自己嫌悪感を抱いた。 ここでの主観的な事実は、葡萄を採って食べたいという気持ちである。 しかし、努力しても、その欲望が叶えられないので、逆にその気持ちを抑圧しようとしたのである。 この場合の客観的な事実は、背が低くて葡萄に手が届かないということである。 この場合、両方の事実を見つめることができるようになると、事態が動き出します。 葡萄を食べたいという気持ちがあるなら、その障害を取り除くべく、なんらかの手立てをする必要がある。 例えば、何か台のようなものを持ってくる。 あるいは脚立のようなもの探してみる。仲間を探す。 いずれにしろ、目的が達成できるようにいろいろと工夫をするようになる。 ここで大事なことは、主観的事実をありのままに素直に認めるということです。 水谷啓二先生曰く。「事実唯真」ということについて、よく誤解されることであるが、森田正馬博士は「客観的事実だけが事実であるといっておられるのではなくて、客観と主観の一致するところに事実唯真がある」といっておられるのである。 もし客観的事実だけを・事実であるとするならば、われわれの主観というものを・一切無視することになり、客観偏重のひどく偏ったものの見方しか出来なくなり、退屈きわまる糞リアリズムになってしまうであろう。 この主観と客観がひどく食い違ったり、どちらか一方に偏ったりしないで、調和していくところに、健全な精神の働きがあり、健康な生活があるのである。 (生活の発見誌 1969年(昭和44年)1月号 水谷啓二 35ページ) バランスを維持することは、サーカスの綱渡りを思い浮かべると分かりやすい。 右に傾けば左を下げる。左に傾けば、右を下げる。 この調整が必要になります。 神経症に陥る人は主観的事実だけに片寄りやすい。 そのときに客観的事実も見つめることができるようになるとバランスがとれてきます。 絶えずバランスを意識しながら、慎重に前進することで、健全な生活が維持されるという側面を忘れないようにしたいものです。

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