書痙が治るとは
森田先生は昭和6年10月13日、京都東福寺で座談会を開かれた。その時、書痙の人が森田先生に質問をしている。書痙で27年間苦しみ、この夏、宇佐先生のところに2か月入院し、先生はこれでよいと言われましたが、私は完全癖でまだ不十分だと思っています。ゆっくり活字を書くような気持ちで書けば書けるが、急ぐときには十分にはいかない。また別な人で、書痙をまずよかろうというところまで治してもらいました。しかし、退院して生活に追われると、また気がイライラして震えて困っています。そのため、今は針や灸をやっていますが、なんとか治す方法はないでしょうか。これに対して森田先生曰く。もっとよくなりたいというのはごもっとものことです。書痙はとにかく書けるようになった。それでよくなったといえる。事実唯真というが、以前よりよくなったとただ思えばよい。もっと上手になりたいと思うのもよい。ただ、自分はどこまでも欲張るものであるということを認めるとともに、以前よりはよくなったという事実を認めなければならない。10中1つでも治ったと思えば全部治る。1つ治らないといって苦にすれば、また10になる。10中1つよくなったという事実を認めればよい。1つ治ったことを忘れ、悔しいと思えば、また元に戻る。書痙の人はみんな普通の人より上手に書けないから、以前より治ったという事実を認めないのである。よいとか悪いとかを離れて事実を認めるのです。例えば、入院中に、体重が300匁増えたら、それを認めたらよい。体重は増えたが、煩悶はとれないといった風に、よいとか悪いとか気分本位をやめてもらいたい。また、あなたが字がうまく書けない。もっとよく描けるようになりたい。その事実を認めればよい。(森田全集第5巻 152ページから155ページより引用)森田先生に質問された方は、書痙を完全に治したいという気持ちが強いようです。普通の人と同じように一切震えることなくすらすらと字が書けるようになりたい。これは吃音の人も同じです。共通しているのは、不安や悩みをすべて払拭したい。納得するまで不安や悩みのない状態を作り上げたいという気持ちです。森田先生は「10中1つでも治ったと思えば全部治る。1つ治らないといって苦にすれば、また10になる。10中1つよくなったという事実を認めればよい」といわれています。治るということをどのように考えるかで、その後の展開は全く違います。私が対人恐怖症で苦しんでいた時、頭の中は他人の思惑ばかりを気にしていました。そんな中、集談会で症状を治すためには、実践課題を作って丁寧に取り組むことだとアドバイスされました。早速実践課題に取り組みました。すると症状に向いていた注意や意識が少なくなっていきました。行動に弾みがついてくるにつれて、90%、80%、70%・・・と減少してきました。この減少してきた10%、20%、30%の部分が神経症が治ったということだと思います。自分はまだ不十分だと思っているのですが、周りから見ればだいぶ印象が違います。ここで肝心なことは、この調子で症状を0%にしたいところですが、その方向に行けば神経症はいつまで経っても治らないし、むしろますます状態が悪くなります。0%を目指すことは細かいことが気になるという神経質を放棄して、外向的で陽気な性格に変えるようなものです。そんなことはできませんし、そんなことをすれば自分の存在価値はなくなってしまいます。50%くらいまで減少できれば、症状とは関わらない方が得策です。私の参加している集談会にお寺の住職さんがいらっしゃいました。その人のモットーは「ほどほど道」でした。ほどほどの治り方を目標にして、その後は生活を楽しむことを考えた方がよいということでした。日常生活の中で小さな楽しみや感動をたくさん味わう。さらに小さな成功体験を積み重ねて、自己肯定感を確立するほうが味わい深い人生になると言われていました。